先に用事を済ませてくる、と言ってイグニスが部屋を出て行くのを見送り、残されたクレアは暇を持て余す。
本当ならば町中まで付いていきたかったのだが、雨降りという事もあり諦めた。元々自分達は追われているはずだ。二人一緒に行動することも控えた方が良い。
 寝台に腰を下ろして靴を脱ぎ、足を伸ばしながら窓の外を眺める。
 宿の店主が盥を持ってきてくれると言ったが、いつ頃になるのだろうか。
あくまで店主の好意なので、催促することは憚られた。だが、久しぶりに湯に浸かれると、クレアの心は弾む。

「……盥を持ってきました。こちらの部屋でよかったですよね?」

「はい! ここです!」

 ノックと同時に聞こえた男の声に、クレアは喜んで寝台を飛び降りる。裸足のまま扉へと近づくと、そのままの勢いで扉を開いた。
 扉の向こうには、三十代半ばだろうか。少なくともイグニスよりは年上とわかる男が、不釣合いな盥を持って立っていた。

(……宿の人の息子さん、かな?)

 一瞬覚えた違和感に、クレアはまじまじと男を観察する。粗末な服を纏ってはいるが姿勢が良く、髪も手入れがされていた。
 どこにもおかしな所はない。
 それでも拭い去れない違和感にクレアが戸惑っていると、男は困ったような微笑を浮かべた。

「えっと……部屋に入ってもいいですか?」

「え、ええ」

 クレアが道を譲ると、盥を持った男に続いて大きな水瓶を抱いた少年が二人、部屋の中へと入ってくる。重たい水瓶のせいで時々ふらつく少年達を見つめ、クレアはますます奇妙な気持ちになった。
 何がおかしいのかはわからないが、何かがおかしい。
 困惑したままクレアが男を見上げると、男は何やら嬉しそうに笑みを深めている。微笑まれる理由のないクレアとしては、客商売とはこういう物なのか、と拭い去れない違和感に無理矢理蓋をした。

「失礼します」

 一言断ってから水瓶を床に降ろし、少年二人はかいがいしく湯浴みの場を整える。
 衝立を移動して扉の前に置き、手拭と足拭き用の布を用意し、手際よく準備を進め――ぴたりとその手を止めた。

「あ、あの……ご主人様」

 僅かに逡巡しているとわかる声音に、クレアは視線を少年達に向ける。眉間に皺を寄せた少年達はクレアにではなく、一緒に来た男を見つめていた。

「ああ、そうだった」

 手にしたままの盥に気がつき、男はそれを床に降ろす。盥が男の手にあるままでは、いつまで待っても湯浴みはできない。
 やっと床へと降ろされた盥に、少年達は場所が気に入らなかったのか、盥を衝立の側へと移動させた。

「大丈夫?」

 そっと盥に水瓶を傾けた少年に、クレアは傍らに腰を下ろして問う。
 どう見ても重そうな水瓶だ。
 おそらくは、自分では持ち上げることもできない。

「あの……?」

 大丈夫かと聞いてはみたが、はいともいいえとも答えない少年達に、クレアはいぶかしむ。

「気にしないで。こういうモノだから」

 使用人とは本来こういう物だ。主人から話しかけなければ答えられないし、日常の雑務は主人の目を穢さないよう、前もって片付けておかなければならない。
 今のように、客人を前にして湯浴みの準備を整える方が珍しいのだ。
 使用人の扱い方を知っている男に、クレアは視線を戻す。

「……普通、重たい物って、大人が持たない?」

 今の場合なら、目の前の男が。
 少年達の主人という意味では男が優位なのかもしれないが、クレアを客人とするのなら、男と少年達の立場は同じだ。

「それもそうだったね。君、かしたまえ!」

 クレアの疑問にもっともだと頷いた後、男は少年のもつ水瓶へと手を伸ばす。それに気がついた少年は、ようやく反応らしい反応を見せた。

「は? いえ……」

「かしたまえ!」

 狼狽する少年から水瓶を取り上げ、男は盥へと湯を注ぐ。少年の細い腕とは違う、大人の男性の腕に抱かれた水瓶は、しっかりと支えられて傾けられた。

(……イグニスと同じトコに胼胝がある)

 水瓶を支える男の手の平に胼胝を見つけ、クレアはこっそりと笑う。
 声に出したつもりはなかったのだが、男はそれに気がついて苦笑を浮かべた。

「……面白いかい?」

 こんな単純な作業を観察していて。
 男にしてみれば面白いものなど何もないと思うのだが、クレアは楽しそうに笑う。

「ええ、盥のお風呂なんて初めて。今から楽しみよ」

 さらりと答えたクレアに、男は驚いたように瞬いた。

「初めてって……これまではどうしていたんだい?」

「川があったら、水浴びをしたわ」

 驚いた顔をした男が面白くて、クレアはコロコロと笑う。

「わたし、川遊びも初めてだったから、苔に滑ってお尻を擦りむいちゃったのよ」

「それは……大変だったね」

「どうして?」

「どうしてって……」

「楽しかったわよ。お尻は痛かったけどね」

 離宮を出てからというもの、初めての体験づくしで、退屈を感じる暇がない。痛かったり疲れたりすることもあるが、それら全てが新鮮で楽しい。イグニスはそんな生活をクレアに強いていると気にしているが、クレア本人にしてみれば毎日がお祭のようで楽しかった。

「……一緒に来た男の人は、恋人かい?」

「え? ええっと……」

 不意をつく質問に、クレアはほんのりと頬を染める。
 恋人か、等と正面から聞かれたのは初めてだった。

「一緒にいて幸せ?」

 照れくさくて声に出しては答えられず、男の問いにクレアはこくりと頷く。

「水浴び生活でも?」

 ――こくり。

「盥のお風呂でも?」

 こくり――と頷き、クレアは男に艶やかに微笑んで見せる。

「どんな体験だって……あの人と一緒なら、楽しいわ」

 何故初対面の男にそんな事を問われるのか。
 何故自分はそれに対して素直に答えているのか。
 それはわからなかったが、クレアは心の底から幸せだと微笑んだ。

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