山道を降りて街道へと合流し、町へと辿りつく頃にはあたりは夕闇に包まれていた。
勢いを増す雨から逃れるように一軒の宿屋へと飛び込むと、馬小屋に馬を預ける。イグニスが荷物を降ろしながら簡単に体を拭いてやると、鼻筋にのみ白い毛が生えた栗毛の馬は気持ち良さそうに目を細めた。
降ろした荷物の上に腰掛けながら、クレアはなんとはなしに馬の黒い瞳を見つめる。馬の背に乗ることなど離宮での生活ではなかったが、ひと月近くも背に揺られていたため、すっかり慣れた。――初日はすぐにお尻が痛くなってしまい、イグニスを困らせもしたが。
今では愛着のある旅のお供だ。
「部屋は空いているか?」
「ああ、空いてるよ。今日は天気がこんなだからね」
受付に座った初老の男性は、わずかに通りを覗くとそう答える。
雨降りでは野宿もできないと宿屋を利用する旅人が多いのではないかと思ったが、そうでもないらしい。イグニスの背中でクレアが不思議そうな顔をすると、店主は人好きをする笑みを浮かべて、隣に大きな町があり、それを知っている商人や旅人はそちらの町で宿を取るのだ、と教えてくれた。
「では、部屋を二つ――」
「一部屋よ、クロード」
「ひ、……フィリー」
姫、と窘めそうになり、イグニスは息を飲む。町に下りるからには偽名を使おうと取り決めたが、クレアは存外したたかで淀みなくイグニスを弟の名前で呼んでみせる。偽名として候補に挙げたのが侍女と姫付きの騎士の名前と、クレアの狭い世界を披露してはくれていたが。まったく馴染みのない名前よりは良いだろう、とイグニスもそれに賛同した。
とはいえ、やはりうっかり姫と呼んでしまいそうにはなるが。
「お金は大切に使いなさいって」
セシリアが言っていたわ、と続けるクレアに、イグニスは渋面を浮かべる。
「いや、しかし……」
いかに駆け落ち中とはいえ、若い男女が同じ部屋に泊まるというのは、いかがなものか。
躊躇うイグニスを見上げ、クレアは店主へと視線を移す。
「一部屋でお願いします」
「こら」
「一部屋で」
「……」
ささやかに繰り広げられる押し問答。
クレアとイグニスの顔を見比べていた店主は、やがてどちらに主導権があるのかを正確に見極め、鍵かけから鍵を一本だけ外した。
部屋へと案内する店主に続いて階段を上がりながら、クレアは天井を見上げた。
宿屋は三階建てで、泊まる部屋は二階にあるので、天井といっても三階の床だ。上の階にも客がいるのか、僅かに天井が軋む。久しぶりの人の気配と低い天井に、クレアはホッと息を吐く。屋内で睡眠を取るなんて、本当に久しぶりだった。
「お風呂はないの?」
気が緩んだクレアは何気なく呟いたのだが、すぐにイグニスに却下されてしまった。
「ありません」
「入りたい……」
「姫!」
思いのほか大きな声で窘められ、クレアは目を丸く見開く。すぐに唇を尖らせて、わざと拗ねて見せた。
「クロードの意地悪」
独特のアクセントをつけて呼ばれた名前に、イグニスは背筋を伸ばす。咄嗟のことに、ついいつものように姫と呼んでしまった。
無表情を装って店主を振り返ると、イグニスの言葉になど気づかなかったのか、店主は苦笑を浮かべていた。
「この町には風呂屋があるから、うちには風呂はないよ」
「……そう」
ほんの少し贅沢を言ってみただけなのだが。しゅんっと肩を落としたクレアに、苦笑を浮かべたままの店主が一言つけたした。
「盥(たらい)でよければ、あとでお湯と一緒に用意してあげるよ。
狭くて悪いけどね。こんな天気で、また外に出るよりはいいだろう」
「ホント!?」
「今日はお客も少ないからね。サービスしとくよ」
店主の提案にクレアは歓声を上げて喜ぶ。足取り軽く、イグニスと店主を追い越して残りの階段を上りきると、うきうきと踊りながら廊下に点在する扉の番号を確認しはじめた。
「……うちの我侭姫が、手間をかける」
わざと印象つけるように『姫』と呼び、イグニスは店主を観察する。今更姫と呼んでしまったことを否定すれば、そちらの方が怪しく、店主の記憶に残る恐れがある。ならばいっそのことわざと姫と呼び、愛称か何かだと誤解させておく方が得策だ。
イグニスの探るような視線には気づかず、店主は先に行ったクレアを視線だけで追い、あいも変わらず苦笑交じりに答えた。
「いいってことよ。
あんだけ可愛い恋人だったら、本物のお姫様みたいな我侭も許してやりたくなるさ」
うちの女房も若い頃は町一番の美人で、俺にとってはお姫様だったもんよ、と惚気はじめた店主に、考えすぎだったかとイグニスは緊張を緩めた。