「……イグニス、町があるわ」
雨避けに目深くかぶった外套を持ち上げ、クレアは西の方角を指差す。クレアの乗った馬の手綱を握っていたイグニスは、導かれるままにクレアが示す方向へと顔を向けた。
「町、ですか……」
誘導された視界には、たしかに町が見える。
雨宿りができる場所を探していたが、町ともなれば巨木の下で雨脚が弱まるのを待つより確実だ。雨が避けられるどころか、宿屋があれば久しぶりに寝台で休むことが出来る。底を尽きつつある食料の補充もできるし、情報も仕入れられる。
――そして、駆け落ち者である自分達の追っ手が待ち構えている可能性もあった。
それを考えれば、人との接触は極力避けたほうが良い。あと少しでカルバンの領地から出られるところまで来たのだ。ここで捕まってしまっては、元も子もない。
(ずっと山道を進んできたから、そろそろ情報も欲しいが……)
食料は獣や山菜で補えるが、情報というものはどうしても人がいる場所にしか集まらない。
クレアは美貌で人目を引くが、黒髪は別段珍しい色ではない。人里に降りても町娘風の服を着ているため、ちょっと可愛い娘と関心をひくだけだ。とても貴族の娘には見えない。
しかし、イグニスは違う。外国人の母を持つイグニスの肌は褐色で背も高く、銀髪の人間もあまり居ない。先を急ぐ逃避行にもかかわらず、山道を選んで移動しているのは、そのためだ。
姿を隠しながら山道を歩くので、馬での移動であっても追っ手に比べて機動力で劣る。隠れる必要も、歩を緩める必要もない追っ手は、簡単に自分達を追い抜いているはずだ。
(追っ手に先回りされている危険があるな)
遠目に町を見つめたまま難しい顔をするイグニスに、クレアは馬の背でほんの少し屈む。こうすると、イグニスと同じ目線で世界を覗くことができた。
「……ねえ、イグニス。久しぶりに寝台で寝たいわ」
どちらかと言えば、イグニスを寝台で寝かせたいのが本音だが。
疲れが色濃く覗くイグニスの顔に、クレアは自分の要求として囁いた。
「久しぶりですね、姫様の我侭は」
「そうだったかしら?」
「そうですよ」
すぐに音を上げると思っていたのだが、意外にもクレアは、野宿と湯浴みのない逃避行に対して一言も文句は言わなかった。クレアが言った文句らしい文句といえば、罠にかかった獣を目の前で捌かれた時ぐらいだ。自分達が食いつなぐため、とこれもやがて慣れたが。
むしろ、ここまで来る間に疲れているのはイグニスの方だった。姫君に不自由をさせぬよう気を使い、追っ手に見つからぬよう気を張り続け、満足に睡眠も取れていない。
クレアもそれを承知しているので、久しぶりに我侭を言い出した。
「野宿は無理ですか?」
「イグニスが居るから平気よ。虫も獣も、わたしのトコまで来ないし」
全て見つけ次第イグニスが狩るため、クレアがそれに怯えさせられる事はない。
「でも、イグニスが平気そうじゃない」
「……私なら大丈夫です。姫様とは、鍛え方が違いますから」
久しぶりの我侭の発端が自分にあると気がつき、イグニスは苦笑する。以前はまったく相手の体調など気付かない姫君であったが、今は時々こんな風に変化を見せる。
「じゃあ、たまには新鮮な果物が食べたい。ミルクが飲みたい」
「今日はやけに我侭ですね」
ポロポロと零れ出る姫君の我侭に、イグニスは屈んでいたため近くに来ていたクレアの頬に口付ける。イグニスが唇を離すと、クレアは恥らって背筋を伸ばし、顔を背けた。
「だって、イグニスが自分じゃ踏み切れないみたいだから」
疲労の蓄積が気になるのは本当だ。
しかしそれ以上に追っ手に捕まる危険と、逃避行には必要となる情報とを秤にかけ、身動きが取れなくなってしまっている自分の背中を、クレアは押そうとしているのだ。
ややあってから、イグニスはそのことに気がついた。
敵わない。
自分は気を使う側であるはずなのに、いつの間にか気を使われてしまっていた。
長いため息を吐いた後、イグニスは馬の手綱を操り町へと頭を向ける。
「……では、あの町に寄るとします。果物はわかりませんが、ミルクと寝台はありそうですね」
「……うん」
苦笑を浮かべたままのイグニスではあったが、これで少しは彼も休めるはずだ、とクレアは嬉しくなって微笑んだ。