「あの子がアンタのお姫様?」
イグニスが馬の手綱を馬車屋へと返却すると、待ってましたとばかりに背後から声をかけられた。
振り返らずとも、声の主には心当たりがある。
色街で売買契約が成立した後、クレアの登場で手も出さずに別れることとなった馴染みの娼婦セシリアだ。
「噂どおり、すごく可愛かったわね。アタシで選んだ耳飾りも似合ってたし」
近づいてくる明るい声音に、イグニスは振り返らない。娼婦と客としては一番古くからの付き合いで、お互いに気心もしれてはいるが、今はそっとしておいて欲しかった。
「何? 可愛いお姫様に『私を連れて逃げて!』とかお願いでもされちゃった?」
ため息を吐いたきり答えないイグニスに、セシリアは当てずっぽうに確信をつく。
馬鹿正直にもぴたりと動きを止めたイグニスに、自分の予想が当たった事を知り、セシリアはからりと笑った。
「嘘。マジ? ホント?
だってお姫様、この間まで男女のまぐわいも知らなかったんでしょ?
それでいきなり駆け落ち? やったじゃん、イグニス。大進歩!」
明るく囃し立てても反応を返さないイグニスに、焦れたセシリアは胸倉を掴んで引き寄せる。
「で、何でアンタはこんなトコでのんびりしてんのさ。
ずっと想ってたお姫様じゃないか。あっちがつれて逃げてって言ってんだから、さっさと連れて逃げちまえ」
「……出来るわけがないだろう。私は騎士で、相手は姫だ。後の事を考えれば――」
「ばっかだねぇ」
言葉とは裏腹に。
無表情を装った顔とも対照的に。
連れて逃げる算段を恐ろしい速さで模索しているとわかる瑠璃色の瞳に、セシリアは安堵のため息をもらし、イグニスの胸倉を開放した。
「若いんだから、そんな難しいこと考えずに走っちゃいなよ。
それとも、アンタ一生お姫様が他の男に抱かれるのを横で見ながら後悔してくつもり?
ああ、あの時姫を攫っていれば、って」
「後悔なら、すでにしている。私が何年姫を想ってきたかっ!」
イグニスがクレアに出会ったのは、彼が七歳の頃だった。小姓としてあがった城で、間違って城に届けられた絹を離宮へと運ぶ途中で、産着に包まれたクレアに出会った。
一歳にも満たないクレアは、ただ愛らしかった。イグニスにもその二年前に異母弟(クロード)が生まれていたが、妾腹のイグニスは養母である正妻に疎まれ、小さな弟の姿を見たことがなかった。
自分と似た境遇に産まれた末の姫に同情し、外国の血が入った肌の色等気にも留めず、まっすぐ自分へと伸ばされた小さな手に心救われ、純粋に守りたいと思った。
実際、イグニスはクレアを守るための努力を惜しまなかった。
クレアの騎士となるべく、文武を修め、小姓から従騎士、騎士へと。
姫君の誇りとなれるよう、外国人である母の血を他者に侮られぬよう、剣術以外の様々な能力を叩き込んだ。おかげで、後から小姓として城にあがった異母弟にも、模範として慕われることとなった。
騎士の鏡として。
女性としての成長がはじまったクレアに、いつものように抱きつかれたあの日まで。
守るべき姫君を女性として意識し、初めて色街に頼った。無邪気に慕ってくれるクレアを、己の獣欲で穢さぬように。
他ならぬ自分でさえも、クレアを穢すことを禁じ、大切に守り育てた姫君。
そんな姫君に、連れて逃げてくれと乞われた。
「お館様はもちろん、他の誰にも触れさせないよう、大切に大切にお守りしてきた姫を、
よりによって愛人をわんさか囲う四十五歳おっさんのトコに嫁にだされるんだぞ!
姫に命じられなくても連れて逃げたかった!
むしろ、姫に連れて逃げろといわれた時、即座に弟の頭を殴って気絶させなかったことが不思議なぐらいだ!
文句あるか!」
苛立ちから言葉の乱れた騎士様に、セシリアは少しだけ驚き、すぐにイグニスの鼻をつまむ。ぎゅっと捻ってやれば、イグニスの興奮はすぐに収まった。
「……そういうことはお姫様本人に言っておやり!」
「言えるか!」
「言え! このヘタレ幼女愛好家!」
幼女が好きなのではない。クレアが好きなのだと反論しかけ、イグニスは口を閉ざす。
セシリアとイグニスの関係は長い。というよりも、初めてで勝手のわからなかったイグニスの筆を下ろしたのが、セシリアだ。
セシリアは、いつ頃からイグニスがクレアに欲情を覚えていたのかを知っている。
「……すまない。言い過ぎた。忘れてくれ」
「いやだね。家でも城でも気を使って本音が言えないアンタの、世にも珍しい愚痴だからね。
たまにはいいんじゃない? 愚痴を言うぐらい」
声を荒げたことを恥じるイグニスの頬を両手で包み、セシリアは瑠璃の瞳を覗き込む。無理だ、言えないと否定しつつも、イグニスの瞳はまだ姫君を諦めてはいなかった。
「後のことなんて考えなくていい。
最初に面倒なアンタを生み出した父親と、兄上大好きな弟に任せちまいな」
「簡単に言ってくれるな」
「簡単なことだよ。アンタのお父さんって、滅茶苦茶優秀な騎士なんだろ。
城主だって簡単に首なんて切れないさ。弟さんも同じ。
もう独り立ちできる年齢なんだから、自分の身ぐらい自分で守れるさ」
ね? と艶やかに微笑み、セシリアはイグニスの瞳を捉える。
「それで、イグニス。自分で自分の身を守る力のない、アンタがこの世で一番守りたい大事な人は誰?」
はぐらかす事は許さない。
頬を捉えて静かに瞳を見つめてくるセシリアに、イグニスは苦々しげに目を閉じる。
自分の一番大事な人など、セシリアに諭されなくとも決まっている。
イグニスが守りたい、一番大切なものは、クレアの幸せ。
愛人を何人も囲った公爵に嫁ぐとしても、そこには飢えも貧困もない。カルバンの下で暮らすのと、なんら遜色のない暮らしが約束されているのだ。
自分が連れ去り、惨めな逃避行を強いる必要はない。
そうは思うのだが――