イグニスの用意してきた馬車に彼と対面に座り、クレアはそわそわと視線を泳がせる。機嫌の直ったクレアに気を使ったのか、クロードは御者台に座っているため、馬車の中はイグニスとクレアの二人だけだ。
自分の恋心を自覚したクレアは、イグニスに対して自分が行った数々の蛮行――秘するべき場所を洗えと命じたり、一緒に寝ようなどと誘ったりした事――を思いだし、恥らう。無知というのは、本当に恐ろしい。
馬車の中に入れば外からは見えないのだから、と早々に頭から降ろしてしまったショールが悔やまれる。せめてコレを被っていれば、赤くなったり青くなったりとしていると思われる自分の顔色は隠せたはずだ。それでなくとも顔を合わせづらい状況に、クレアは口を閉ざしたまま正面に座るイグニスの胸元を見つめる。
「……姫様」
「はいっ!」
クロードが上手く宥めたらしく、すっかり機嫌の直ったクレアに、イグニスは口を開く。馬車の外では先に怒りはじめたクレアに気勢を殺がれ、話すことが出来なかったが、色街へと遊びに来た姫君にはお説教が必要だ。
そうは思うのだが、なにやら可愛らしく百面相を披露するクレアに、イグニスの中の怒りまでもが鎮火されてしまった。
叱るべき時には、しっかりと叱らなければならないのだが。
イグニスの呼びかけに即反応し、身を硬くして何事かを構えるクレアに苦笑し、イグニスは小さく頭を振った。
そんなに愛くるしい顔をされては、何もいえない、と。
これが惚れた弱みか、とイグニスは苦笑する。
「……あの」
呼びかけたくせに何を言わないイグニスに痺れを切らし、今度はクレアが口を開く。
はい? とすぐに応えはあったが、特に用事があったわけではないクレアは、俯いてイグニスの視線から逃れる。自分の行動を考えれば、イグニスは怒っているはずである。それなのに、穏やかに瞳を細めて微笑まれてしまっては、クレアでなくとも居心地は悪いだろう。
「その……」
何か用件はなかっただろうか。
忙しく思考したクレアは、自覚したばかりの感情に従い、素直な疑問を口に出してみた。
「イグニスは、わたしのこと……」
どう思っているのか。
うっかり直球で聞いてしまいそうになり、クレアは慌てて言葉を区切る。
自覚したばかりの恋心では、女性として好きか嫌いかまでは聞く勇気がなかった。
「その、……守ってくれる?」
例えば、父の毒牙から。
「もちろんです!」
一瞬の迷いも見せず即答したイグニスに、クレアはホッと胸を撫で下ろす。これまで数々の蛮行、奇行で振り回してきたが、愛想は尽くされていないらしい。
「じゃあ、連れてって」
「どちらへですか? さすがに、色街にはもう二度と……」
姫君の足を踏み入れさせるわけにはいかない。もとより護衛をつけようと、姫君でなかろうと、若い娘の来る場所ではない。
「わたしを連れて、どこかへ……逃げて欲しいの」
場所はどこでも構わない。父と縁談相手から逃れることができるなら。
「……は?」
聞き間違いかと耳を疑い、イグニスは瞬く。一拍、二拍と間を置くと、徐々にクレアの言葉が脳に浸透していった。
「それは、つまり……」
「お父様の選んだ方に嫁ぐのは嫌です。
だって、お父様がわたしにしようとした事を、その方もするのでしょう?
わたし、もうあんな怖い思いはしたくないわ」
同じ事をされるならイグニスが良い、という言葉は飲み込んだ。
ほんの少し前まで、自分の結婚に対してなんの疑問も持っていなかったはずなのに。
急に連れて逃げろなどと言い出したクレアに、イグニスはカルバンを恨んだ。
実の娘に下手なすけべ心など出すから、こんな事を言い出すようになったのだ。軽い男性不審から来る、父親への反発。そうでもなければ、クレアが父親に逆らおうなどと言い出すはずもない。我侭なクレアではあったが、過去一度も父親に逆らったことなどなかった。
「姫様、アレはお館様が少々順番を無視されたから驚かれただけです。
ちゃんと段階を踏み、神の前で愛を誓い、旦那様と夫婦としての愛を育めば――」
「嫌っ!」
むぅっと子どものように顔をしかめたクレアは、聞く耳を持たない。こうなってしまえば、説得ができるのは乳母ぐらいだ。イグニスにはどうにもできない。
「……足は、大丈夫ですか?」
「うん? ちょっと痛いわ」
意地になってしまったクレアに、イグニスは作戦を変える。頭ごなしに説得をしても我が強いクレアは貝のように耳を塞いでしまうだけだが、幸いなことにとても素直な性質も持っている。我侭ではあるが、言ってわからない姫君ではない。
「その靴は町を歩き回るようには作られていませんからね」
足元を指差され、クレアは示されるままに見下ろす。そこには自分の小さな足を包み込む、柔らかい布製の靴があった。
「整備された城の庭と、離宮の中でお暮らしになる姫様のための靴です。
そのあたりの町娘が、舗装もされていない道を何キロも歩くための靴とは、素材からして違います」
言われて改めて自分の靴を眺め、車窓から見える町娘の靴と見比べる。クレアの靴は絹とレースがふんだんにあしらわれたお洒落な靴であったが、町娘の足にある靴は皮製だろうか。色とりどりのクレアの靴とは違い、濃淡の差はあるが、多くの物は茶色だった。
「お館様の庇護の下、何不自由なく育てられ、
食事の用意はおろか、着替えすら他人の手を借りなければできないお姫様に、城の外で暮らすことはできません」
「してみなくちゃ、わからないわ」
どうやら自分の要求を聞く気はないらしいイグニスに、クレアとしては面白くない。チクチクと説教をはじめたイグニスに、クレアはふてくされて顔を車窓へと向けた。
「わかります。それに、お忘れですか?
『貴族の娘が政略結婚に使われるなど、珍しいことではない』と、ご自分でおっしゃっていたではありませんか」
当人であるクレアが縁談を受け入れるのだから、縁談相手の素行を承知でイグニスも想い人に来た縁談を受け入れた。
それを今更、クレア本人に覆されては、イグニスとしても困ってしまう。
「イグニスが居れば、平気よ」
「は?」
「イグニスが居れば、平気よ。イグニス、何でも出来るじゃない」
小さなクレアが喜んでくれるから、と少年期のイグニスは様々なことを学んだ。外国の童話集を読むためには、その国の言葉を。珍しい楽器を手に入れたとカルバンが持ってくれば、それを奏でるための技術を。年頃となった今はさすがに控えているが、クレアの髪をフィリーよりも複雑かつ綺麗に結い上げることもイグニスには可能だ。
「さすがに……とんでもない我侭ですね」
「自覚はあるわ」
過去の蛮行を振り返り、反省した上で、さらに我侭を重ねる。我ながら学ばないものだと恥じらい、クレアの頬には優しい朱が差し込んだ。
「……わかりました」
「え? それじゃあ……」
イグニスの言葉に喜び、クレアは僅かに腰を浮かせる。けれど、すぐに続けられた言葉に、それが了承の言葉ではなかったのだ、と肩を落として座りなおした。
「では、私の側からお話しましょう」
重たげに瞼を下ろしたイグニスに、クレアは気がついた。
そういえば、自分の視点でばかり物を言っていた。イグニスが居れば、クレアは何の不自由もないが、イグニスにしてみれば普段フィリーやカーラが行っている仕事の全てを押し付けられるような物だ。
「嫁ぎ先の決まった姫君を、その騎士が攫って逃げた場合……騎士の家族は、どうなるとお思いですか?」
「あ……」
イグニスの側で考えていなかった。そう気がついた事柄さえ、間違いだった。イグニスの側というのは、イグニス個人の負担ではなく、その背後の――家族の事だったのだ。
ようやく事の重大さに気がつき、口を噤んだクレアに、イグニスは安堵のため息をもらす。
「父と弟は解雇。親類縁者にいたるまで、家の人間は断罪されるでしょう。
異母妹はお館様のご機嫌取りに献上されるかもしれませんね。年頃ですし。
カーラ殿とフィリーは職を追われて、たぶんこちらも親類縁者すべての御家断絶。
フィリーも捨てられる前にお館様に差し出されるかもしれません。なかなかの美少女ですから」
常にクレアの傍らにいるため、霞みがちではあるが。金髪碧眼のフィリーは器量良しで、兵士・下男を問わずに人気は高い。母親の躾けの賜物か、寄り付く男を見事な手さばきであしらうため、傷も付いていない。
「……少し、意地悪が過ぎました」
口を閉ざしたまま震えるクレアに、イグニスは目を逸らす。
自分が逃げだせば、自分に近しい人間がその責を問われ、累が及ぶ。
そんな事、考えたこともなかった。
気遣わしげに頬へと伸ばされたイグニスの手を、クレアは小さく首を振って拒む。
考えの足りなかった自分を恥じ、悔やんだ。
誠意を持って自分を窘めてくれたイグニスに、言葉には出さずに感謝する。
そして、物語のようには、騎士は姫を攫ってくれないのだと涙した。