(足痛い……)
沸々と湧いた怒りに、力任せに歩を進める。乱暴に歩いているため、クレアの足はすぐに悲鳴をあげた。
(イグニスが悪いのっ! 足が痛いのも、全部イグニスのせい!)
胸が息苦しいのも、足が痛いのも全てをイグニスのせいにして、クレアは先頭を歩く。すぐ後ろにイグニスとクロードの足音が聞こえるが、振り返る気にはならなかった。
「あっ?」
「姫様!?」
不意に足を捻り、バランスを崩す。路上へ倒れる前にクロードに抱きとめられ、大事はなかったが驚いた。
いったい何が原因で、とクレアが足元を見下ろせば、靴の踵が割れてしまっている。
仕立ては良い物のはずだが、元々街中を長く歩くためには作られていない。それに加え、クレアの怒りに任せた乱暴な歩き方が引き金となったのだろう。
「これでは歩けませんね。すぐに馬車の用意を……」
「私が行く。おまえは姫の側に」
「……はい」
イグニスに側に残れ、と珍しくも口を挟まないクレアにクロードは違和感を覚える。が、それをクロードが口にする前に、イグニスは馬車の手配をするため街角へと姿を消した。
完全にイグニスの姿が消えるのを確認して、クロードは口を開く。
「どうしたんですか、姫様? さっきまで、あんなにご機嫌だったのに」
「……わからないわ」
クロードに助け起され、彼を杖代わりに寄りかかりながら、クレアは俯く。
「ただ、なんだかすごく……えっと……」
必死に自分の感情を表す言葉を探すが、なかなか見つからない。元より、何不自由なく箱庭のような離宮で育てられたクレアは、他者と比べれば恐ろしく不平不満を感じたことがない。突然自分の中に芽吹いた感情が、これまで感じたものでなかった場合、その名前がわからずとも無理はなかった。
「すごく、嫌だったの……」
散々悩んだ末に見つけた一番単純な感情を口に出し、クレアは戸惑う。
自分は、いったい何が嫌だったのだろう、と。
「……じゃあ、何がそんなに嫌だったのか、思いだしてみましょう」
「思いだしたくもないわ」
「でも、それじゃあ姫様が何に対して怒っているのかわかりません。
僕も兄上も対処ができなくて、困ります」
もっともな言い分ではあったが、クレアは躊躇う。もやもやとした陰鬱な気分は、今も胸の中にある。それが一瞬とはいえ弾けた瞬間を思いだす事には抵抗があった。
「口に出さなくていいですよ。姫様の心の中でだけ、整理してみましょう」
口を閉ざしたクレアをどう思ったのか、クロードはそう言った。いつになく優しいクロードを見上げ、クレアはようやく口元を緩める。
「クロードって、時々年上みたいなこと言うわよね」
「お忘れのようですが、僕の方が姫様より二つ年上です。
……それじゃあ、兄上が戻ってくるまでに解決しましょう。
考えてください。兄上の何がそんなに気に障ったんですか?」
「イグニスが?」
意外な名前を挙げられ、クレアは瞬く。しかし、クロードはクレア本人ですら理解できない怒りの正体に気がついているのか、確信を持って重ねた。
「兄上ですよ。姫様の不機嫌の原因は」
色街を楽しく探索していたクレアが急に腹を立て、離宮に帰ると踵を返したのは、イグニスを発見してからだ。
イグニスと娼婦が口付ける瞬間に、クロードの背中に隠れていたはずのクレアが大声をあげた。
タイミング的には、これ以上の時はない。
(イライラしたのは、イグニスがあの人にキスしたから……?)
他にも気になったところはある。
イグニスの娼婦への接し方。触れ方。乞われて簡単に唇を許した事。
それらの全てが、ことごとくクレアには面白くなかった。
自分の騎士であるイグニスは、常に自分を優先すべきだと思い込み、自分以上の接し方をされた娼婦に嫉妬した。
(わたしは、イグニスが……)
好きなのだ。
ようやく見つけた感情の名前に、クレアは驚く。だが、そう考えて見れば、色々納得のいくこともある。カルバンのような触れ方を顔も見たことのない縁談相手にされると思えば身も竦むが、同じ事をイグニスに置き換えてみれば平気だと思った。
それはつまり、そういう事だったのだ。