クロードに言わせれば『お忍び中の下級貴族令嬢』といった風体ではあったが、クレアとしてはどこにでもいる町娘に扮したつもりだ。クレアは町娘らしく徒歩での移動を選択し、たっぷり一時間以上をかけて色街とされる一区画へと到着した。
離宮にはない喧騒に包まれて、クレアはきょろきょろと辺りを見渡す。
油断をするとふらふらと興味を引かれるままに横道へとそれてしまうクレアの手を引きながら、クロードはため息をついた。
いっその事、入り口付近の露天商を覗くだけで満足してくれないものだろうか。
そうは思うのだが、クロードとしても異母兄の恋人については気になる。自分の言い出した事ながら少しもイグニスを探す素振りを見せないクレアとは反対に、クロードは露天商ではなく、行き交う人々の顔へと視線を巡らせた。
「兄上に恋人か……」
年齢的には居てもおかしくはないのだが、不思議とそういう話は聞いた事がなかった。
あの兄に恋人が居るとしたら、どのような女性だろうか。
クロードとしては、ちゃんとした家の淑女であって欲しい。その方が、後々イグニスのためとなる。だが、ここは色街だ。色街に居る女性となれば、それは高い確率で娼婦であり、兄の恋人としては相応しくない。
客と娼婦という後腐れのない関係であれば問題はないが、これが恋人であったとしたら――
「……兄上」
「え? どこ?」
母方の外国の血を引いたおかげで、イグニスは領内の一般男性よりも頭一つ分背が高い。その上、浅黒い肌と見事な銀髪を有しており、クレアとは違う意味で人目を引く。
人ごみの中から探し出すのに、これほど楽な人間はいない。
クロードの視線を追い、すぐにイグニスの姿を見つけたクレアは、反射的にクロードの影に隠れた。
「なんか……本当に馴染みきっていますね」
少し先を歩くイグニスは、時折娼館の中から女性に声をかけられている様子だが、軽く手を上げてあしらっている。
威風堂々と色街を歩くイグニスに、兄の知らぬ一面を見た、とクロードは驚く。
自分など、後ろに隠れたクレアに対する見栄でなんとか胸を張って立っていられるが、クレアが居なければ色街界隈など足を踏み入れることも出来ない。
歳若い健全な青少年であるクロードにとって、色街は馴染みがないどころか、居心地が悪い場所だった。
「あ、誰か来た」
クロードの背に隠れながら、クレアはイグニスの背中を睨む。クレアとクロードに観察されているとも知らず、イグニスは前方から歩いてきた黒髪の女性に片手を上げた。女性はイグニスに気がつくと艶やかに微笑み、立ち止まる。
「あの人が、イグニスの恋人?」
「違いますよ、姫様。色街で会う女性といったら、娼婦のはずです」
立ち止まって談笑をはじめた二人を遠巻きに見つめ、クロードとクレアはどうにかして会話の聞こえる距離まで近づけないものかと考えた。
「……すごく仲良さそうね」
「当たり前でしょう、相手も商売なんですから」
「それは、そうなのだけど……」
なんとなく面白くない。
目深にかぶったショールの下で、クレアは唇を引き結ぶ。
――と、話がまとまったのか、イグニスと女性は同時に同じ方向を向く。親しげに身体を寄せる女性に、イグニスも満更ではないのか腰に手などを添えて。
(……イグニスも、あんな風に女の人に触れる事があるのね)
自分に触れる時のイグニスは、真綿に包むように大切に、大切に触れてくるのだが。
娼婦と思われる女性に触れるイグニスの手つきは、自分に対する物とはまるで違う。
(……。……わたしの髪の方が綺麗よ。毎日フィリーがお手入れしているもの)
何気なくかき上げられた女性の髪が気になり、クレアはショールから零れている自分の黒髪を見つめた。繻子のリボンで飾られた黒髪は、日夜最高の道具と香料、そして手入れを施されている。艶も質も女性に負けてはいないはずなのだが、なんとなく惨めな気持ちになってしまうのは何故だろう。イグニスと先を歩く女性と自分の髪など、共通点は色だけだ。黒髪など、珍しくもない。
「あ、なんか言い合いをはじめましたよ」
一人こっそりと落ち込むクレアの横で、生真面目にも二人の様子を窺っていたクロードが声をあげる。
クレアが釣られて顔を上げると、確かにイグニスと女性は何事かを言い争っていたが、すぐに決着がついたのか、イグニスが小さく頭を下げた。
どうやら、イグニスが負けたらしい。
女性の方はそれに気を良くしたのか、トントンと自分の唇を指差した。その仕草がさす要求を正確に汲み取り、イグニスは少しも躊躇うことなく女性の唇へと自分の唇を落とし――
「イグニス!」
およそ居るはずのない場所で、聞こえるはずのない声に名を呼ばれ、イグニスの思考は停止した。
しかし、長年の生活で染み付いたものか、身体だけはその声の主を正確に聞き分け、自然に声の聞こえてきた方向へと向きを変える。常連といって良いほど世話になっている娼婦セシリアから視界が切り替わり、次に捉えた視界では弟の背中に隠れた姫君の姿が見えた。
「……姫様?」
目深くショールを被り、町娘にも姫君にも見えない服を着ているが。背格好、顎の輪郭、肩から零れ落ちる艶やかな黒髪。どれ一つとっても、イグニスの姫君だった。
聞こえるはずのない声に戸惑いはしたが、正体を確認してしまえば、何の事はない。
近頃は乳母の用意した恋愛小説の他に、自分からも冒険活劇などを借り受け、夢中になって読んでいた。その中の一冊にでも影響され、ついにはクロードを護衛にお忍びと称して色街まで遊びにきてしまったのだろう。
「姫――」
「帰る!」
「は? はい」
これはすぐにでも窘め、離宮へと連れ帰らねばならない。その後、乳母へ報告をした上で改めてお説教をと考えたのだが、イグニスが何か言うよりも早く、帰ると一言だけ口を開いたクレアがくるりと身を翻した。
ほとんど反射で返事をし、肩を怒らせて歩きはじめたクレアに、イグニスは困惑しながらも従った。
怒られる覚えはない。
むしろ、自分が怒る側にあるはずだ。
にもかかわらず、先に怒りはじめたクレアに気勢を殺がれ、イグニスは黙ってそれに従った。