「……。……何を、していらっしゃるんですか?」

 そろそろ好奇心を満たされたのか。
 ある日を境に、クレアはぱたりとクロードの部屋へと赴き、艶本を閲覧することを止めた。
 最近は誰かに新しい本をねだる事もやめ、部屋で乳母の用意した教科書を読んで過ごしていると聞いていたのだが――クロードにはとてもそうは見えない。
 姫君に呼び出され、支度部屋の扉を開けたクロードは、目の前に広がった光景に、嫌な予感しかしなかった。

「見てわからないの? 着替えよ、着替え」

 フィリーに手伝われながら、彼女の私物である服を拝借する。普段クレアが着ているドレスと比べれば地味な服ではあったが、それでも年頃の娘が着る服としては華やかな上物だ。とても幻の美姫と噂される城主の愛娘には見えないが、かといってその辺の町娘にも見えない。せいぜい下級貴族の姫君がお忍びと称して精一杯粗末な服を用意した、といったところか。
 髪に編みこんだ繻子のリボンを結び、クレアとフィリーは鏡を覗いて最終確認。
 完全に結託しているとわかる侍女に、クロードの胃がキリキリと悲鳴をあげた。

「聞きたくはありませんが、一応聞きますけど……何か御用ですか?」

「今日はイグニスが半日お休みなの」

 リボンの位置が気になるのか、鏡を見ながら微調整をするクレアに、クロードは着実に自分の背後へと忍び寄る嫌な予感に抗う。万が一でもいいから、気のせいであって欲しい。

「それって……昨日の夜、姫様が無理矢理取らせた休暇ですよね?
 確か、僕を片時も放さず側に置くから、久しぶりに羽を伸ばして来いって追い出した」

「追い出してなんていないわよ。
 ただ、お父様の一件以来、イグニスって休暇を取らなくなったでしょ?
 色々大変なんじゃないかなぁって、わたしなりに考えたの」

「まあ、兄上に休んでいただく事に異論はありませんが」

 異母兄とはいえ、兄に対して絶対の信頼と敬意を持つクロードは、イグニスのためという言葉に弱い。
 うっかりクレアの言を受け入れ、頷きかけて――すぐに気がついた。
 我侭な姫君に、騙されてはいけない。

「それと姫様が着替えているのと、どういう関係があるんですか?
 嫌な予感しかしませんが」

 言い包められないぞ、と気迫を込めて目を細めたクロードに、クレアはウフフと笑顔を貼り付ける。わかり安すぎる作り笑いにクロードは逃げ出したくなったが、ここでクレアを野放しにしてしまえば、あとで兄の不興を買うことは間違いない。

「この間、クロードの部屋で面白い噂を聞いたの」

「噂は噂です。どんなに面白おかしくても、惑わされないでください」

 可愛らしく微笑みながら告げられるクレアの報告に、クロードは素気無く答える。ここで飲まれてしまうわけにはいかない。

「イグニス、恋人がいるのですって」

「そりゃ、兄上だって二十三歳ですから。恋人の一人や二人……」

 めげずに続けるクレアに、こちらもめげずに抵抗していたのだが、耳慣れぬ単語にあっさりとクロードは捕まってしまった。

「……兄上に、恋人?」

「クロードも知らないの?」

「初耳です」

 髪と同じ黒い瞳を瞬かせるクロードに、クレアは少しだけ安堵した。
 知らなかったのは自分だけではなかったらしい。

「久しぶりの休暇だもの。きっと会いに行くと思わない?」

「それは……そうかもしれませんが」

 自分の兄が、いったいどのような女性と付き合っているのか。
 確かに興味はある。

「いや、でも……」

「ちなみに、わたしは是非見てみたいわ。色街に居るっていう、恋人さんに」

「……色街? それは、つまり……」

 恋人ではなく、娼婦である。
 近頃は熱心に大衆小説等を読んで知識を仕入れていたようだが、肝心なところを未だに理解していないのだろうか。
 一向に去る様子のない予感に、クロードは肩を竦める。

「まさか姫様……」

「うん。行くのよ、色街」

 ようやくリボンの位置に納得できたのか、会心の笑みを浮かべてクレアは答えた。近頃お気に入りらしい耳飾りが、今日もクレアの耳で揺れている。

「ダメです。色街だなんて、とんでもない!
 姫様が一人でふらふら歩けるような治安はしていません。
 馬車の中から大通りの店を覗く程度ならまだしも、こっそり変装までして色街見学だなんて……何考えてるんですか!」

「だから、クロードも行くのよ」

 これなら一人ではない。
 すでにクレアの中では色街探検が午後の予定として決定事項になっていた。これを覆せる人間は、残念ながらこの場には居てくれない。

「……フィリー、ショールを」

 我侭姫の要求を却下できるのは、乳母か兄だけだ。敬愛する兄ですら、その勝率は三割と低い。とてもではないが、クロードに太刀打ちできる物ではない。本来なら乳母を呼び出してクレアを止めるという方法もあるのだが、繋ぎを取る役を担うフィリーまでもが協力しているので、今回に限ってはそれもできない。
 クロードは早々に抵抗を諦めると、フィリーの手にあるショールを受け取る。
 自分ではクレアの外出は止められない。ならば、少なくとも人目を引くクレアの容姿だけは隠さなければならない。それでなくとも、嫁入り前の姫君が色街で遊ぶなどと、醜聞もいいところだ。
 クロードの手に渡された精緻なレースに縁取られたショールを見つめ、クレアはいぶかしむ。思いのほか、クロードの諦めが早かった。もう少し抵抗すると思ったのだが。

「せめて、姫様の姿はしっかり隠しませんと」

 ふわりとショールを広げ、クロードはクレアの頭をすっぽりと隠した。せっかく位置にこだわったリボンが隠れてしまい、クレアとしては面白くない。
 クレアは目下まで深々と降ろされたショールに手をかける。もう少し視界をよく出来ない物か、と縁取られたレースを摘まんだところで、すぐにそれに気がついたクロードが口を開いた。

「そのショールを少しでも上げたら、即刻お忍びは終了ですからね」

 これがクロードに出来る最大限の譲歩。
 わざと目深にショールをかけられたのだと、遅れて気づいたクレアは不満を瞳に浮かべてクロードを睨んだ。

「クロードの意地悪!」

 妙にあっさりと要求を受け入れたと思えば、こんな意趣返しをされるとは思わなかった。
 クレアは唇を尖らせて不平を口にすると、逆にレースを引き下ろす。ここまで完全に顔を隠してしまえば、偶然にもショールがずり落ちることはないだろう。
 これで文句はないか? とクロードに挑むように、クレアは胸を張った。

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