鏡台の正面に座り、クレアは鏡に映った自分を見つめる。フィリーの手によって器用に編みこまれる黒髪を眺め、毎日のことであるのに感心した。
乳兄弟なのだからフィリーと自分は同じ年齢のはずだが、クレアから見れば彼女の手は魔法の手に思える。自分ではどんなに頑張っても彼女のように綺麗には髪を編みこめない。というより、編みこみはおろか、髪を纏めるだけの事もできないだろう。
貴族の姫としては恥じる必要のないことだが、器用に働くフィリーの指を見つめていると、自分の手で自分の髪を纏めることが出来たら、とても素敵なことのような気がしてきた。
(そうよ。髪の結い方を、フィリーに教わってみようかしら?)
そうすれば、残された少ない時間であっても、できるだけフィリーと一緒にいられる。
これは良い事を思いついた。
そうと決めたら、つぶさに手の動きを観察して――と、クレアが背筋を伸ばした瞬間、無情にもフィリーは作業を完成させた。
「いかがですか?」
「……結い上げたのね」
内心でほんの少し肩を落としながら、クレアはフィリーの手によって仕上げられた鏡の中の自分を見る。
フィリーの手元を見ていたため、どんな風に髪を弄られているのか、全体は見ていなかった。
「姫様ももう嫁がれる年齢ですから、そろそろおろし髪は卒業しましょう」
はにかみながら飾り櫛の位置を調整しているフィリーに、クレアは鏡に映った自分の姿を複雑な心境で見つめる。
フィリーの手によって高い位置で結われた髪は、いつものように肩から零れ落ちることはなかった。
そして、髪を結い上げた自分の顔は――
「そうすると、姫様の母上に驚くほど似ていますよね」
「……そうよね」
少し離れた場所で見ていたクロードからの感想に、同じ事を考えていたクレアは素直に頷く。
これまで父に何度となく母に似ていると言われてきたが、自分で似ていると思ったことはなかった。
同じ離宮で暮らしているはずなのに、母がクレアに会いに来る事は一度もなく、クレア自身も母に会いに行こうと思ったことはない。
聞くところによると、母はクレアが産まれる前に心を壊してしまったらしい。
こんな状態では赤ん坊は育てられない、と生まれたばかりのクレアは乳母と沢山の子守に預けられた。
一度だけ、遠くから正気の母を見かけた事はあるが、気を使ったイグニスがすぐに間に入ったため、直接言葉を交わすこともなかった。
母は娘を産んだことすら忘れているくせに、クレアの顔を見ると錯乱する。
そうなってしまえば、もう手が付けられない。日々の侍女たちの働きも空しく、美しく結い上げられた髪を振り乱し、何事かを叫び続ける。
そんな様子の母しか知らないので、鏡に映る自分を見ても、母と似ているなどと思った事は、これまで一度もなかった。
おそらくは、母が正気で自分の前に立てば、きっとこんな顔をしているであろう。
そんな程度だ。
「……どう?」
ユラユラとフィリーの選んだ飾り櫛を揺らし、クレアはイグニスを振り返る。この場にいる人間で、まだ感想を聞いていないのは彼だけだ。
「よくお似合いです」
「そう」
簡潔な感想ではあったが、満更ではないとわかるイグニスの表情に、クレアは気をよくして鏡を覗く。
三国一の美女と謳われた母に似ている自分の顔はそんなに好きではなかったが、イグニスやフィリーが喜ぶのならそれでいい。ついでにクロードの世辞も有り難く頂戴しておく。
鏡台に向き直り、クレアが飾り櫛を揺らして左右の出来を確認すると、不意に扉がノックされた。
「クレアや。今日も可愛いおまえに――」
短いノックの後、先触れの小姓すらはぶいたカルバンが、部屋の主の返事も待たずに扉を開けて乱入する。
父親が娘の部屋を訪ねただけとはいえ、女性であるクレアへのあまりに非礼な態度にイグニスとクロードは揃って閉口した。
相手が城主であるため口を閉ざすしかないが、この場にクレアの乳母がいたのなら、途端に説教がはじまったことだろう。
クレアへの土産として庭から持ってきた両手いっぱいの花を抱いたまま、カルバンは髪を結い上げた娘に、その動きを止める。
呆然とクレアを見つめ、息さえ忘れたようにゆっくりと瞬いた。
「……これは驚いた。髪を結い上げたのか。
そうしていると、おまえの母に生き写しじゃな。実に美しい」
上から下まで緩慢な動作で娘を見た後、腕に抱いた花を降ろす事も忘れ、カルバンは感激のままにクレアを抱きしめる。
父の髭と沢山の花に埋ったクレアは、クスクスと笑いながら身じろいだ。花と髭がうなじにあたって、くすぐったい。
カルバンは無邪気に笑う愛娘に目を細め、いつもは黒髪に隠されて見えない白いうなじに目を留める。
妻に生き写しの愛娘。
クレアを抱きしめたまま息を飲んだカルバンに、イグニスは無意識に一歩前へと足を踏み出した。
姫君を守る騎士として、カルバンの笑みには腑に落ちないものがある。――ただの勘でしかなかったが。
「お父様、今日はどんな御用ですの?」
カルバンの腕の中で、異変に気づかぬクレアが上目使いに父を見つめる。
愛娘の青い瞳にじっと見上げられ、ややあってからカルバンは目をしばたたかせた。
「おお、そうだった。花嫁修業は順調かと様子を見に来たのじゃが……」
改めて腕に抱いた娘を見下ろし、カルバンは満足気に頷く。
「順調なようじゃな」
うんうんと何度も頷き、愛娘を値踏みするかのようにカルバンは黒い瞳を細めた。
母親譲りの愛らしい顔立ちと、絹糸のように艶やかな黒髪。空とも海ともとれる、青い宝石のような瞳。雪のような白い肌と、細い首を飾る――
「……こりゃいかん。すぐにおまえに似合う宝石を贈ってやらんと。
いつまでも子どもっぽい首飾りでは、おまえの美しさが損なわれてしまう。
より美しく装って、最高の姿で嫁に送り出してやらなければな」
カルバンは慣れた手つきで、不似合いの烙印を押したばかりの首飾りをクレアの首から外す。手にした首飾りは鏡台の隅へと放り投げた。仕立ての良い首飾りではあったが、カルバンが顧みることはない。カルバンにとって、クレアの美しさを損なう装飾品など、ゴミでしかなかった。
「待っていなさい、クレア。すぐに領地中の細工師を呼び寄せてやろう。
首飾りでも耳飾りでも、おまえの好きなだけ作りなさい」
「お父様ったら」
気が早いと苦笑するクレアの頬に乾いた唇を押し付けてから、カルバンは娘を解放する。
姫付きの兄騎士の存在は気になるが、輿入れに対してなんの疑問も抵抗も見せないクレアにとりあえずは安心した。
今は瑣末なことよりも、可愛い娘のために腕の良い細工師を集めることの方が重要だった。
城へととんぼ返りしたカルバンを見送り、イグニスは渋面を浮かべる。
一歩前へと足を踏み出たイグニスに、カルバンはすぐにソレを奥へと隠したが。
「……クロード」
「はい、兄上」
呼ばれて即座に視線をクレアから自分に向けた弟に、イグニスはクレアに聞こえぬよう声を落とした。
「私が姫の側に居ない時は、片時も姫から目を離すな」
一瞬、何の事かと瞬いた弟に、イグニスは続ける。
「特に、お館様に気をつけろ」
「は?」
「……お館様の悪い癖を思いだせ」
自分達の主人であるクレアの父親を疑えとはどういう事か。
疑問は残るが、クロードは兄に忠実である。釈然としないながらも、クロードは兄に言われるまま『お館様の悪い癖』について思いを馳せた。
御歳六十二になるカルバンには、公式に五人の妻と、十五人の子どもがいる。これが非公式の愛人・子どもとなれば、カルバン本人でさえも把握していないだろう。
つまりは、非常に色を好むという事だ。
とはいえ――
「姫様はお館様の血を引く実の娘です。さすがのお館様も……」
「おまえが赤ん坊の頃。お館様はご自分の息子の婚約者だった方を妻に迎えている」
十年以上昔の事件であり、婚約者を父親に奪われた息子は以来城に寄り付かない。そのため歳若い使用人はこの事を知らないし、禁句にも近く、勤めの長い使用人は口を閉ざす。
結果として産まれた子どもは、自分が母に疎まれる理由を知らず、父であったかもしれない兄の顔も知らない。
何も知らず、祖父であったかもしれない男を父と慕うことで子どもが幸せであるのなら、イグニスとしても文句はない。しかし、その父に我が子として弟妹を孕まされては、たまったものではない。
「いいな、片時も姫様から目を離すな」
「……はい」
異母兄という証拠を目の前にしながら、クロードは父と母の愛情を疑わない。真実、両親が愛し合ったから自分は生を受け、妹まで生まれたのだ。
両親の影響から一夫一妻という極普通の価値観を身に付けたクロードには、カルバンのような一夫多妻を実践している人間の思考は理解できない。
父親が娘に欲望を覚えることなど、本当にあるのだろうか。
兄の思い過ごしではないか。
そうは思うが、他ならぬ兄の命令だ。無駄になる事を願いながらも、クロードは心に留め置く。
納得できないながらも納得したとわかるクロードに、イグニスは鏡台へと視線を移す。
そこではカルバンに渡された花の世話をフィリーに任せたクレアが、物珍しそうに鏡の中の自分を覗き込んでいた。
イグニスはクレアを驚かせないよう静かに近づき、そっと飾り櫛を髪から抜き取る。
「あ!? 何するの、せっかくフィリーが……」
「たまには結い上げるのもいいかもしれませんが、やはり姫様にはおろし髪がお似合いですよ」
イグニスはふわりと広がって落ちたクレアの髪を櫛で梳き、一度編みこんだことで癖のついた髪を慣らす。すぐにいつものように真っ直ぐに伸びた髪を、イグニスは器用に編み込んだ。
「だって、さっきは……」
確かに似合うと言ったのに。
「さっきのはただの感想です。
確かに結い髪もお似合いですが、姫様でしたらどんな髪型でも似合います。
それに、私はおろし髪の方が好きです」
いつになくきっぱりと言い切られ、クレアは首を捻りながらもイグニスの言葉を受け入れる。
似合うと言われるよりも、好きと言われる方が嬉しかった。
「じゃあ、フィリー。またお願い。……今度はおろし髪で」