「……あれ?」
熱いハーブティーの入ったティーポットとカップを盆にのせ、とネノフが談話室へと戻った時、そこにイグラシオの姿はなかった。
明かりの灯った燭台だけがテーブルの上に鎮座する部屋を見つめ、は戸口に立ったまま小首を傾げて瞬く。そんなの横に並び、同じく部屋を見渡したネノフが呟いた。
「居ないわね」
「そんなはずは……」
きょろきょろと暗い部屋を見渡しながら、は盆をテーブルの上に載せる。テーブルに燭台が載っているのだから、まさか自分が夢を見ていたということはないだろう。そう思い、は燭台を手に取る。
そういえば、イグラシオは雨具を纏って来た。自分はそれを脱がせ、壁にかけ――――――燭台の明かりに照らし出された床の水滴に、確かにイグラシオは居たのだと確認できた。
床に残った水滴をに示され、ネノフは首を傾げる。
大雨の降る深夜に『イグラシオが来た』などと、が寝ぼけていた訳ではない。それは証明された。
「何か、また用事でもできてしまったのかしらね」
だから、お茶の準備をしている間に何も告げずに帰ってしまったのかもしれない。
そもそもイグラシオが訪ねてくる時間としても、別の誰かが訪ねてくる時間としても、真夜中という時間帯は常識外れだ。
首を傾げてそう呟くネノフに、は納得ができず、そっと目を伏せた。
「でも、イグラシオさん……自分でお茶を淹れてくれっていったのに……」
部屋の中にイグラシオの姿を求め、見つからない。
諦めきれずには玄関の扉を開いてみたが、外は暗闇。厚い雲から洩れるわずかな月明かりのお陰で数メートル先は見えたが、それ以上先は見えない。雨脚は相変わらず激しく、止む気配はなかった。
は玄関先に立ち、見える範囲を見渡してみたが――――――やはりイグラシオの姿は見えない。
地表を覆う雨水と、そこに落ちて跳ねる雨粒を見つめ、は何も告げずに帰ってしまったイグラシオの事を考えた。
こんな天気の日に、それも真夜中でなければ時間が取れないほどに、イグラシオは忙しい。
とても疲れた顔をしていた。
雨の中、トランバンからここまで来たせいもあるだろうが、体も冷え切っていた。
それに、イグラシオには元々とは関わりのない悩みがある。
それもまだ解決はしていないはずだ。
悩みを増やしたyと交わしたひと月以上前の約束を果たすよりも、『騎士』としてのイグラシオには重要な悩みが。
(……ハイランドって、どれぐらい遠いんだろ……)
降りしきる雨を見つめながら、ぼんやりと考える。
イグラシオの悩みは、自分が無理矢理聞き出したりせずとも、じきに解消される。それをは知っているが――――――それが『いつなのか』までは解らない。
イグラシオの話では、『ゲームの中』で『トランバンを開放』した『ウェイン王』はまだ王子だ。ハイランドの王は未だに現役で、いつウェインが王位に着くかも判らない。
この電話などの情報伝達網が発達していない世界では、どこの国の事情であれ、最新の情報を得ることは難しい。
(……行って、みようかな……)
おおよそ現実的ではない案が浮かび、は自嘲の笑みを浮かべる。
否。現実的ではないという否定こそが『現実的ではない』。
にできる一番現実的で実現性のある考えが、『ハイランドまで行ってみよう』であろう。
少なくとも、孤児院でじっとしているよりは世情を知ることができる。
ハイランドがどんなに離れた場所にあろうとも、そこへの道は地続きだ。が自分の家に帰るよりはずっと簡単な道のりだろう。足をただひたすらに前へ、前へとだしていれば、いずれ必ず辿りつく。
ただ一つに足りないのは、勇気だ。
イグラシオに本当のことを未だに話せていないように、には孤児院の敷地から一歩踏み出すための勇気が足りなかった。
降りしきる雨をが眺めていると、ネノフが玄関の扉を閉めながら口を開く。
「さあ、イグラシオ様はもういないようだから、あなたも寝なさい」
ネノフにそう促され、は反射的に頷きかけたが止めた。
閉められた扉から視線をティーポットに移し、は歯切れ悪くネノフに答える。
「ん、でも……お茶を淹れてくれって言ったの、イグラシオさんだから。
少しだけ外に出てるのかもしれないでしょ?」
もう少し待ってみます。
そう答えたにネノフは僅かに眉をひそめたが、ややあってからそれを認めてくれた。
「そう? あまり夜更かしはしないようにね。
それと、暖かくしていなさい」
「はい」
そっとの肩に自分のはおったショールをかけて、ネノフは自室へと戻っていく。
その背中を見送った後、は燭台をテーブルに置き、ティーポットの前に陣取った。
ネノフが言ったように、イグラシオは何も告げずに帰ってしまったのかもしれない。
が、何も告げずに帰るのはおかしい。
一度は断ったお茶を淹れてくれといったのは、イグラシオ本人なのだから。
諦め悪く、は燭台の焔を見つめた。
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