パタパタと廊下を歩く軽い足音に、の意識は浮上する。
 夢は見ていなかった。
 孤児院で暮らすようになって身に付けた新しい生活習慣が、いつもの起床時間を教えてくれている。
 もう少し眠りたい。というよりも、寝足りない。そもそも、いやに肩が凝っている気がして――――――の意識は完全に目覚めた。

「……朝?」

 明るい室内に、はぼんやりと室内を見渡し思いだす。
 どうやら昨夜の大雨はすでに止んでいるらしい。明るい日差しに、小鳥のさえずりが聞こえた。
 すでに一日の活動を開始している世界に、はそっとため息をもらす。

 イグラシオが戻ってくるかもしれない。

 そう思って談話室の椅子に陣取っていたのだが、結局そのまま眠ってしまったらしい。どうりで肩が凝っているはずだ。座ったままテーブルに突っ伏して寝るなど、体に良いはずがない。
 が両手を伸ばして大きくのびをすると、肩からネノフと自分のショールが落ちた。2重にショールをかけていたため、秋近い季節に寒い部屋で寝ていても風邪をひかずにすんだようだ。体を伸ばすついでに深呼吸をし、大きく息を吸い込むと――――――ドアを開けてネノフが談話室へと入って来た。

「結局、そのまま眠ってしまったのね?」

「……すみません」

 呆れた響きを持つネノフの言葉に、は大きく開いた口を閉じる。
 が視線をネノフに向けると、ネノフの後ろからビータが首を傾げながらこちらを覗きこんでいた。
 無理もない。昨夜イグラシオが来たことを知らない子ども達にしてみれば、自分の部屋があるにも関わらず、テーブルで寝ていたらしい人間の考えなど解らないだろう。
 首をかしげているビータに苦笑で答え、は冷め切ったティーポットを片付けるため、盆を持ち上げた。






 テーブルに突っ伏して眠っていたにビータはしきりに首を傾げていたが、がティーポットをもって台所に入ると、早々に裏口から顔を洗いに出て行った。
 耳を澄ますとアルプハと双子の声が聞こえた。どうやら井戸端には先客がいたらしい。
 子ども達はこれから顔を洗い、そのまま水汲みの仕事を始める。
 いつもならばはもう少し早く起き、着替えて顔を洗い、ビータに手伝われながら朝食を作るのだが……今日は完全に出遅れていた。
 活発に一日の活動を開始した子ども達に比べ、は夜着のままぼんやりと台所に立ち、ティーポットを作業台に置いて――――――遅れて台所に来たネノフに呟く。

「何か……イグラシオさんに恩返しができたらいいんだけど」

 イグラシオを待ちながら散々考えたが、良い案は浮かばなかった。ほんの少し勇気があれば実行に移せそうな案は、いくらでも浮かんできたが。

 早速外から聞こえてきたビータとアルプハの笑い声を聞き、は目を伏せる。
 孤児院で待っていても恩人であるイグラシオの役には立てない。
 孤児院を出てトランバンへ行ったとしても、自分に何も話さないイグラシオの悩みを軽くする事はできない。
 孤児院を出てハイランドまで王が誰か、あとどのぐらい待てばトランバンへ来るか、を確認するための勇気もない。

 深いため息を吐いて目を伏せるに、ネノフは苦笑を浮かべる。
 は自分からは何も言わないが、やはりイグラシオの側にいたいのだろう、と。

「……それじゃあ、トランバンに行ってみる?」

「え?」

 ネノフの口から洩れた意外な言葉に、は瞬く。
 自分でも一度は考え、すぐに否定した選択肢を他人の口から改めて聞かされ、は驚いてネノフを見つめた。

「お側に行っても、何もできないかもしれない。
 けれど、ここでじっと待っているよりは、いいかもしれないわ」

「でも……」

「あなたにその気があるのなら、紹介状を書いてあげるわ。
 トランバンの教会へ移ってみる?」

 思案するを尻目に、ネノフは自分の提案を続けた。

「今の時代、癒しの奇跡が使える僧侶は貴重なの。
 どこの教会だって、もろ手を挙げて歓迎してくれるわ」

 神と対話できるほどの信仰心をもった者など、ほとんどいない。それが本職の僧侶であっても、かわりはない現状だ。のように、神の力を借りられる存在は珍しい。ゆえに、どこの教会であれ、権威の象徴として歓迎されるだろう、と。
 ネノフにトランバンへ移った後の住処を保証され、それでもは迷う。
 心配なのは、生活面だけではない。
 心配なのは――――――

「やだっ!」

 突然の大声に会話を遮られ、ネノフとは声の聞こえてきた方向――――――裏口へと目を向ける。
 そこには手ぬぐいを握り締めたビータが立っていた。

「ビータ」

 もう一つの『心配事』である『孤児院の子ども』を見つめ、は眉をひそめる。
 ビータは眉間に皺を寄せると、眼光鋭くネノフを睨みつけながら裏口から台所の中へと入って来た。

「やだ、やだやだ!
 何それ? なんの話?
 ママがいなくなっちゃうなんて、嫌っ!」

 大声でそう捲くし立てるビータに、ネノフは眉を寄せて声をひそめる。
 まずはビータを落ち着け、声をひそめさせなければならない。決定事項ではないとはいえ、自分達の会話は他の子どもにとっても歓迎しがたい内容だ。ビータと同じように騒ぎ出すことは、火を見るよりも明らかだろう。

の来る前の生活に戻るだけよ」

 ネノフは膝を落とし、ビータと視線を合わせる。ネノフがビータの肩に手を置き宥め始めると、ビータはその手を払いのけた。

「でもやだ!
 ママは子どもじゃないもん!
 貰われてったりしないから、ママなんだもんっ!!」

 自分の肩を捕まえようとするネノフから逃げ、ビータはの腕を掴む。しっかりと両手で捕まえ、どこへも行かせないぞ、とでも言うように力を込めた。

「ねえ、ママ。どこにも行かないよね? ここに居るんだよね?
 だって、ここのママだって、この前言ってたよ?」

「それは……」

 ビータの言葉には心当たりがある。
 癒しの力を得た日に、ザイの父親に対してきった啖呵だ。
 あの時、確かに自分はいった。
 子ども達が望んでくれる限り、自分は子ども達の『ママ』だ、と。

 が、イグラシオと子ども達を秤にかけ、天秤が傾くのは――――――

 僅かに迷いを浮かべたに、ビータはいち早く気が付いた。
 の結論を待つまでもない。
 眉をよせて困惑したの表情こそが、答えだ。

「嘘つきっ!」

「ビータ!」

 の手を払い、ビータは台所を飛びだす。
 はすぐにビータを追いかけようと足を踏み出すが、腰を上げたネノフに止められた。

「大丈夫よ。あの子は子ども達の中で一番しっかりしているから。
 そのうち解ってくれるわ」

「でも……」

 確かにビータはしっかりしている。
 今は癇癪を起して飛び出していったが、やがては落ち着いて戻ってくるだろう。そして、ネノフの言葉も理解して割り切るはずだ。が来る前の生活に戻るだけなのだと。
 言い淀むに、ネノフは「でもじゃないの」ときっぱりと言い捨てた。
 たしかに、イグラシオを優先し、『ママ』と呼ばれることに対して躊躇した自分には、ビータを追いかける資格はないのかもしれない。
 そう思い至り目を伏せたに、ネノフは苦笑を浮かべながら言葉を続けた。

「イグラシオ様のことが、気になるんでしょう?」

「子ども達のことも気になります」

 イグラシオも気になるが、子ども達のことが気になるのも本当だ。
 ただ、緊急性を考えると、どうしてもイグラシオが優先されてしまう。今のところ子ども達には目に見える危機はない。イグラシオに庇護され、孤児院での生活は村人の生活ほど困窮していなかった。

「子ども達のことは気にする必要はないわ。
 さっきも言ったように、あなたの来る前の生活に戻るだけだから」

 元々孤児院はが居なくとも、子ども達がネノフを良く支えやってきていた。
 それはそれで寂しい気もするが、が文句を言えた義理ではない。

「ああ、でも……そうね。
 ひとつだけ条件があるわ」

「条件?」

 口調を明るく変えたネノフに、は瞬きながら顔を上げた。

「あなた、まだ文字を覚えていないでしょう」

「うっ」

 必要ないか、と考えないようにしていた事実をネノフに突っ込まれ、は顔を引きつらせる。
 頭の柔らかい子どもであれば何とかなったかもしれないが、の年齢で今更別の世界の文字など、覚えきれるとは思えなかった。

「文字を覚えて、時々でいいから手紙をちょうだい」

 眉をひそめて渋面を浮かべたに、ネノフは苦笑を浮かべる。
 確かに、が居なくなったとしても、『が来る前の生活に戻るだけ』であると解っている。が、だからといって年齢を重ねたネノフであっても『寂しくない』という事はない。自分達とイグラシオを秤にかけ、イグラシオを選んだには、ちょうどいい意地悪にもなるだろう。

 苦笑を浮かべながらも自分の背を押してくれているネノフに、は心の中で感謝し、そして詫びた。

 トランバンへ、と送り出してくれることはありがたいが、どうせ孤児院を出て行くのならば――――――






 行き先はハイランドだ。