燭台に明かりを灯して、は暗い廊下を歩く。
 子ども部屋、食堂、と各部屋の前を通り過ぎ、すぐに玄関へとたどり着いた。
 厚い扉の向こうには、真夜中―――それも大雨の夜―――に孤児院へ用のある者がいる。
 扉の前に立つとはっきり聞こえるノックの音に、は首を傾げた。
 ノックの音は聞き間違いではなかったが、こんな時間に来客というのもおかしい。

 は不審な来客に、声をひそめて訊ねる。

「……どなたですか?」

「私だ」

 恐るおそる声をひそめて聞くに、玄関の前にいる人物からの答えはすぐに返ってきた。

「……イグラシオさん?」

 聞き覚えのある声に、は眉をひそめながらもすぐに扉の閂を外す。あまり大きな音を立てないようにと、そっと扉を開けると――――――そこには確かに雨具を纏ったイグラシオが立っていた。






「いったいどうしたんですか? こんな時間に……」

 イグラシオの突然の訪問にも驚いたが、その時間帯にも驚いた。が、はそんな事は脇においてイグラシオを家の中へと招き入れる。扉を開けたままでは自分も寒かったし、何より明かりに照らし出されたイグラシオの顔色があまり良くないように見えた。
 とにかく早く部屋へと招き、体を温めるなり、濡れた髪を拭くなりしなければ――――――と、は無言のまま家の中へと入って来たイグラシオの雨具の留め金に手を伸ばす。ぽたりっと、冷たい雫が一つの手の甲に落ちた。

「身体、冷えていませんか? すぐに何か……」

 温かい飲み物でも、と続けようとしたのだが、にされるがまま雨具を脱いだイグラシオはそれを遮る。

「いや、構うな」

「でも……」

 眉をよせて言い淀むに、イグラシオは苦笑いを浮かべた。
 本当ならば、雨具を脱ぐことなく玄関先で用件を片付ける予定だった。に誘われてつい家の中に上がりこみ、世話をされるままに雨具を脱いでしまったが、あまりゆっくりできる時間はない。

「無理矢理時間を作ってきた。長居はできない」

「……そうですか」

 イグラシオから預かった雨具を壁にかけ、は視線を落とす。
 仕組みはわからないが、なにかしらの防水加工のなされた布なのだろう。雨具の表面は雨粒を弾き、水を下へしたへと流していた。とはいえ、日本で売っているようなビニール傘やカッパのほどの威力はないらしい。雨具の表面は確かに水を弾いているが、形を整えて壁にかけようとしたはその内側にも触れている。しっとりと水気を含んだ内側は、トランバンに帰る途中で用をなさなくなるだろう。
 は改めてイグラシオを見上げる。

 よくよく考えると、もうひと月以上逢ってはいなかった。

 雨具と同じく水気を含み、重く顔に張り付いたイグラシオの銀髪から、雨粒が伝い床に落ちる。
 は、まずは髪を拭く物をとも思ったが、自分のショールをイグラシオの肩にかけた。顔に疲労が色濃く滲むイグラシオには、まずは休息が必要だ。孤児院に来たということは、ネノフに用があるということだろう。ネノフを起して取り次ぐ合間に、本人が辞退しようとも温かいお茶を入れる。そうは考えた。

「すぐに、シスターを起して……」

「いや、用があるのはおまえだ」

「え? わたしですか?」

 イグラシオの意外な言葉に、は瞬く。
 イグラシオが孤児院に来る用事といえば、ネノフの様子を見にくるか、子ども達のために食料を運びに来るぐらいだ。を目当てにやってくることなど、これまで一度もなかった。

 瞬いた後、首を傾げたの変わらない仕草に、イグラシオは僅かに口元を綻ばせた。
 先日―――といっても、もうひと月以上過ぎている―――別れ際に見せたの異変が気になり、どうにか時間を作って顔を見に来たのだが、それは取り越し苦労だったらしい。不思議そうに瞬くの顔に、先日見せた混乱はない。

「……先日の、別れ際の様子が気になってな」

「あ……」

 ひと月以上前に交わした『もう一度来る』という約束を、は遅れて思いだした。
 それから、そっとイグラシオから顔を背けて俯く。
 ひと月も前の話を気にかけていてくれた事が嬉しくも気恥ずかしく、また申し訳がなかった。

 イグラシオは無理矢理時間を作って来たという。無理に時間を作ったとしても、こんな雨の日に、しかも夜中にしか訪ねて来られないほどにイグラシオは忙しいのだ。そして、忙しい理由はなんとなく判る。先日の集会のように、領主への不満を爆発させた領民がトランバン周辺での蜂起を起しているのだろう。村から出ないには、そういった話の詳細は聞こえてこないが、本来ならばイグラシオがトランバンを離れられない状態にあることぐらいは想像できる。
 そのイグラシオに無理矢理時間を作らせてまでトランバンから遠く離れた孤児院へと足を運ばせた事が申し訳なく――――――久しぶりに逢えたイグラシオの存在を心の片隅で喜んでいる自分もいる。
 それがたまらなく恥ずかしかった。

「わたしの事より、イグラシオさんは大丈夫なんですか?
 なんだか、すごくお疲れのようですが……」

「私のことは心配いらぬ。
 少しばかり疲れているだけだ」

 予想通りのイグラシオの答えに、はそっとため息をはく。それから沈む気持ちを誤魔化すように微笑み、イグラシオに視線を戻そうとして――――――向けられていた真摯な青い瞳に目を伏せる。正面から見据えることが、少しだけ怖かった。

「それで、なにかあったのか?」

 わずかに目を伏せたに、何かあったのか? と聞きつつ、イグラシオは悟る。これから聞こえるの答えがどうであれ、『何かあった』事は間違いない、と。
 自分の質問に再び視線を上げ、またすぐ俯いたに、イグラシオは眉をひそめた。

「私では、力になれぬことか?」

「そんなことは……」

 静かなイグラシオの言葉に、は迷う。
 イグラシオと最後にあった日、に起こった変化といえば、『ここ』が『レジェンドラ大陸』だと自覚したぐらいだ。あまりのことに動揺し、あの時は何ともいえなかったが――――――よくよく考えてみれば、ここを『レジェンドラ大陸』と知る前と、の状況にはなんの変化もない。が『別の世界』から『ここ』へきて、またそこへ帰りたいのだという事に。

 静かに自分を見下ろすイグラシオの視線から逃げるように、は俯く。

 先日の集会では、大人の男達相手に一歩も引かずに自分の意見が言えたというのに。
 なぜイグラシオを相手にすると、こんなにも自分は相手の反応が気になるのだろうか――――――?

 答えの出ない問いに、はそっとため息をもらした。






 2人向かい合っての、しばしの沈黙。
 先に沈黙を破ったのはイグラシオだった。
 俯いたまま言葉を捜しているに、イグラシオは諦めてため息をはく。

 頑固なところまで、ネノフに似てきた、と。

 雨音以外音のない部屋に、イグラシオのため息は奇妙に大きく響いた。
 その音にびくりと震えたの肩を見て、イグラシオは目を細める。
 あまりこういうことは、得意ではないのだが――――――俯いたまま視線を逸らしているを見下ろし、イグラシオは口を開く。

「……たしか、ヒックスの事を聞いてきたな」

 イグラシオはひと月前の記憶を手繰り、話題を振る。
 ややあって顔を上げたに、それは『はずれ』だと解った。の異変に、ヒックスは関係していない。

「ヒックスの出奔と、関係があるのか?」

「そういう訳では……」

 一瞬だけ自分を目を合わせ、また逸らすにイグラシオは考える。
 他にあの場で交わされていた会話となると、トランバンに暴徒が向かっているとエンドリューが知らせを持ってきたが、それはやネノフには聞かせなかったので関係がない。
 ヒックスについては、の方から聞いてきた。
 さらに他に何かなかったか、と考えてはみるが、これと言って何も浮かんでこない。
 ただあの日は子ども達が疲れ果てるまで遊んでやり、自分はに家事を手伝わされた。とはいえ、孤児院にきた時は可能な限り子ども達とは遊んでいたし、家事を手伝うこともあった。別段、あの日に限ってしたことではない。
 では、他にも何かあっただろうか? 何かあったはずだ。そう記憶を探るイグラシオに、は再び視線を合わせてきた。

「いえ、その……ヒックスさんの出奔は、
 わたしが余計なことを言ったからかもしれません」

「余計なこと?」

「時々礼拝堂で、何か考え込んでいるようでした。
 その時に、少し……」

 先ほどまでは目を逸らしていたくせに、急に饒舌になったに、イグラシオは眉をひそめる。
 嘘は言っていない。が、話題を逸らそうと『乗って来た』だけだ。自分から視線を合わせながらも度々逸らされる視線に、が言葉を捜しながらしゃべっているのが解った。

 なにか自分に対して言いたいことはあるが、言い出しにくい。
 そういう事だろう。

 時々何かを言おうと口を開き、またすぐに閉じるに、イグラシオはため息をはく。
 は自分を軽んじて何かを打ち明けないのではない。
 言おう、言おうとはしているが、あと一歩の勇気が足りないのだ。

「……ヒックスのことなら、おまえの気のせいだ。
 あれは……おまえが何を言おうと、そう遠くないうちに騎士団を抜けていただろう」

 ぱくぱくと口を開いては閉じるに、イグラシオはこれ以上の言及を諦めた。
 言葉にすることを迷うということは、にとっては必要なことだ。
 今無理矢理イグラシオがしゃべらせなくとも、時が来れば自分から話すだろう、とを信じた。






 会話を結んだイグラシオに、は瞬く。
 言おうか、言うまいかと散々悩みはしたが、今一歩の勇気がなかった。折角のチャンスではあったのだが――――――はぐらかすことをイグラシオに赦されてしまい、としてはホッとしたような、残念なような、複雑な心境でイグラシオを見つめる。身だしなみを整える暇もないのか、たまたま深夜という時間帯のためか、見上げたイグラシオの顎周りには髭が少し伸びていた。

(……あ、れ?)

 イグラシオからの会話の終了にホッと息を吐いたは、気が付く。
 の知っている『レジェンドラ大陸』では、『ヒックスは閃光騎士団にいなかった』。
 ということは、つまり――――――

(ヒックスさんが出奔したってことは、
 ハイランド軍が来るのって、もう少し……なの?)

 あと少し待てば、イグラシオの悩みは解消されるのかもしれない。
 その可能性に気が付き、は改めてイグラシオの目を見た。

「あの、イグラシオさん」

 散々迷い言葉を濁していたに、急に元気良く顔を上げられ、イグラシオは瞬く。が、はそれには構わず続けた。

「ハイランドって国はありますか?
 そこの王様、どんな人かわかりませんか?」

 ここが『レジェンドラ大陸』だとは思っている。『イグラシオ』や『ヒルダ』という情報も揃いすぎていた。が、それ以上の情報を、自分はまだ確認していなかったとは思いだす。もしも『ハイランド』という国がなければ、ここは『レジェンドラ大陸』ではないという事になる。すべてがの勘違いであれば、待っていてもイグラシオの悩みは解決されない。勘違いでなかったとしても、後どれぐらいの期間村人を抑えておけばハイランド軍が来るのかを知りたかった。

 急に態度を変えたにイグラシオは瞬いていたが、すぐに眉を寄せて記憶を探る。
 の問いへの答えを、イグラシオは満足には返せなかった。

「ハイランド王国は、トランバンの東南にある。
 現在の王は確か……40代だったか」

「40代? 17歳ではなくて?」

 イグラシオの答えに、は首を傾げる。
 確か『ハイランド王ウェイン』の年齢は17歳だったはずだ。

「ハイランド王国は騎士の国というだけあって、王も臣民を健全な魂と肉体を有している。
 先の王が暗殺でもされぬかぎり、17という若さで王位に着くことはないだろう」

 普通に王位を継ぐのなら、王が年老いて位を退くか、崩御してからということになる。今の王が40代ということは、位を降りるにしても、崩御するにしても、まだまだ先の話だろう。
 『普通』であれば。
 医療技術の発達していない『ファンタジー世界』では、平均寿命も短いのだろう。はそう漠然と考えていたのだが、孤児院で暮らすようになり、その考えが間違いであったことを知った。平均寿命そのものは現代とそう変わらない。出生率は現代日本と比べて恐ろしく高いが、無事に育つ確率は逆に低い。
 そこから考えるに、現在40代の王が位を退くか崩御するのはまだまだ20年はあるだろう。

 やはり、ここが『レジェンドラ大陸』というのは、自分の勘違いなのだろうか? そう眉をひそめたの変化に、イグラシオは眉をひそめながらも続けた。

「いや、待て。
 確か……今年17かそこらになる王子がいたはずだな」

「確かって、正確には判らないんですか……?」

「なにぶん、他国の王族の情報だからな。こればかりは……」

「……そうですか」

 しゅんっと俯いたに、イグラシオは首を傾げる。
 元気になったかと思えば、またすぐに肩を落としたに、イグラシオは一度引っ込めた話題を戻した。

「何故、そんな事を突然?
 ……ハイランド王国が故郷なのか?」

 「え? あ、違います」

 自分の質問にゆるく首を振って答えたに、イグラシオは無意識に安堵のため息をもらし――――――すぐにそれに気が付き、イグラシオは内心で眉をひそめた。自分は今、いったい何に対して安堵したのか、と。

「帰る場所を思い出したのなら、必ず私が送っていってやろう。
 だが、しばらく待て。
 トランバンが落ち着くまで、時間が取れない」

 そう口に出して、思い出した。
 は元々、孤児院の人間ではない。いずれは帰るべき場所へと送って行き、離れる存在であったと。
 いつのまにか孤児院に馴染み、子ども達と共に自分を迎えてくれていたので、イグラシオはそれをすっかり失念していた。
 その事実に急速に気づかされ、イグラシオは眉をひそめる。

 陽気でムードメーカーの役割を果たしていたヒックスが出奔し、市民の領主への不満は募るばかり。ついには暴動に発展するケースも出はじめ、それらの鎮圧に忙殺されて孤児院へ向かう足が遠のき、今度はまでもが遠くへ行ってしまう。

 見下ろすの存在を、イグラシオは試しに『消して』みた。

 孤児院に食料を運ぶ自分を迎えるのはミューを抱いたネノフで、子ども達はビータを中心に纏まっているのだろう。
 一人いなくなったとしても、それだけだ。何も変わらない。ただ用に納屋から出した椅子が、また納屋の奥へと片付けられるだけだ。

 孤児院へを預ける前の状態に戻るだけだと、理性では判っていたが――――――目の前にいる娘が居なくなり、ただ一人で暗い部屋の中に立っているのだと考えると薄ら寒い。
 イグラシオにとってはすでに孤児院の一部になっている。
 そのが居なくなるのは、情けないことに寂しくもあった。
 手放したくない――――――そうも思っている。

「あの、イグラシオ様?」

 いつの間にか呼び方を『さん』から『様』に直したに、イグラシオの意識は現実へと引き戻された。
 『目の前』に、心配気に眉を寄せたが立っている。

「やっぱり、体が冷えているんじゃあ……?」

 じっと自分の顔を見つめたまま動かないイグラシオに、眉をひそめたままは手を伸ばす。
 試しに両手でイグラシオの右手を包むと、その手は氷のように冷たかった。

「ああ、やっぱり冷たい。こんなに冷えて……」

 ほぅっと息を吹きかけ、優しく自分の手をこすり始めたから、イグラシオは顔を逸らす。
 吐息以上に温かく柔らかいの手を『慌てて』振り払い、右手を背中へと隠した。

「気にするな」

「気にします」

 素っ気無く突き放されたは一瞬だけまたたき、眉をひそめてイグラシオを見上げた。
 先ほどは目の前に居ることに安心した存在を、今度は視界から締め出してイグラシオは眉を寄せる。
 なにやら急に不機嫌になったらしいイグラシオに、は僅かに首を傾げた。

「とにかく、今お茶を入れるから、少しだけでも休んでいってください」

「いらぬ」

「気にしなくても、井戸水はタダですし、
 お茶だってシスターの自家菜園だから、タダですよ」

 何をどう勘違いしたのか、はそう苦笑いを浮かべる。
 それから宣言どおりに台所へ移動しようとイグラシオに背中を向け――――――が背を向けたことで視線を戻したイグラシオは、髪の隙間から覗くの白いうなじに、無意識に手を伸ばした。






 腕の中にすっぽりと収まった細い体を抱きしめる。
 その白い首筋に、イグラシオは顔を埋めた。

 素肌の密着した部分―――というよりも、夜着が薄いため、触れた部分すべて―――から、の体温が伝わってきて温かい。

 首筋に顔を埋めたため、男の物とは明らかに違う女の香りが鼻腔をくすぐった。
 腕の中に捕らえた柔らかな女の体に、イグラシオの欲望が鎌首をもたげる。それに突き動かされるかのように、イグラシオはの白い首筋に唇を落とし――――――びくりっと震えたの肩に、はっと我に返った。

 柔らかい女の身体と温もりに、『誘われて』しまった、と。






「……あの、イグラシオさん?」

 背後から抱きしめられたため、自分の顔のすぐ横にイグラシオの頭がある。そのイグラシオの銀髪を見つめ、は眉をひそめた。
 肌に触れたイグラシオの体温は、驚くほどに冷たい。触れた部分から自分の体温が奪われているのがわかったが、それ以上に気になることが一つある。

「髭が……痛いです」

「…………」

 ちくちくと首筋に刺さる髭にがそう悲鳴を上げると、しばしの沈黙があたりを包んだ。その後、不意に項垂れていた銀髪の男は顔をあげ――――――の首筋に、自信の顎を―――つまりは髭を―――押し当てた。

「い、たたたたたたっ!
 痛い! 痛い! ってか、チクチクしますっ!!」

 意図的な首筋への『頬ずり』に、はたまらず悲鳴をあげる。ただし、夜中であるために声をひそめることは忘れていない。
 ひそめてはいるが明るいの悲鳴に、イグラシオは苦笑を浮かべる。それから最後に一度首筋に唇を落とし、顔を上げての頭の上に自分の顎をのせた。髭によるチクチク攻撃から開放されたは、未だにイグラシオの腕の中にいる。腰に回した腕から力を抜いても、がそこから逃げだす事はなかった。

「……おまえの身体は温かいな」

 素肌に触れた部分から伝わるの体温に、イグラシオはそう洩らす。
 それに対し、は僅かに首を傾げて答えた。

「ついさっきまで、寝てましたから」

 雨音になかなか寝付けなかったが、少し前までベッドの中でまどろんでいた事にかわりはない。今すぐベッドに戻れば、その褥はまだ体温で温まったまま、温かくを迎えてくれるだろう。

「……そういえば、『おやすみのキス』はちゃんとしているのか?」

 孤児院に預けたばかりの頃は、『おやすみのキス』などした事もされた事もないとは戸惑っていた。それを思い出し、イグラシオは漆黒の頭の上からを見下ろし――――――すぐに視線を戻した。真上というのは、よろしくない。薄い夜着を押し上げる二つの膨らみが真下にあるため、それがいつもより強調されて見えた。普段は厚い修道服に隠された胸元に、小さなホクロを見つける。下心から意図的に見下ろした訳ではないが、イグラシオはそれを記憶から追い出すことに苦労させられた。

「今では普通にできますよ」

 頭上の葛藤など露知らず、はイグラシオを見上げてそう答える。
 子ども達にするのと同じ気持ちでイグラシオにキスすることはできないが、ネノフからキスを受けることも、子ども達にキスをすることも慣れた。

「額は挨拶」

 見上げたためにむき出しになったの額に、イグラシオは唇を落とす。

「頬は親愛、手の甲へは尊敬、手のひらへは願い――――――」

 頬、手の甲、と挙げた箇所に唇を落としながら、イグラシオは自然な仕草での体を向きを変えながら開放する。
 向き合う形で手のひらに唇を落とし、最後に手首に口付け――――――イグラシオは口を閉ざす。

「……手首への意味は?」

 首を傾げてそう問うに、イグラシオは忍び笑う。
 それを教えることは、躊躇われた。

「……さあ、なんだったかな?」

「え? 言いだしっぺが忘れるなんて、ひどい」

 わざととぼけたイグラシオに、は眉を寄せて怒った。
 上目遣いに拗ねた表情で唇を尖らせている薄着の娘など、『今の』イグラシオには危険物以外の何物でもない。

「ははっ。すまないな。
 次に逢うまでに思いだしておく」

 自分の肩にかけられたショールをの肩へ戻し、イグラシオはの体の向きを変える。そっとその背中を押し出して、小さく笑った。

「すまないが、やはり茶をもらえるか?」

 熱いやつを。そう続いたイグラシオの言葉に、は笑う。
 どうやら時間はないが、休憩はしていってくれるらしい。

「はい」

 イグラシオの言葉には素直に答えると、押されるままに台所へと足を踏み出した。