「ザイ? ザイ!」

 身近く聞こえる男の大声に、温もりを感じてまどろんでいたの意識は覚醒した。

 気が付いてみると、もうどこにも女神の気配は感じない。永遠にも感じられた母の温もりも失われていた。請われて現出した女神は役目を追え、もうどこかに去ってしまったのだ。
 それが少しだけ寂しく、また当たり前の事なのだとには解った。
 神が人間の願いを聞き届けてくれるのは、ただの気まぐれに過ぎない。優しい性質をもった女神アステアであったからこそ、に応えてくれただけだ。これが気性の荒い女神や破壊を司る男神であった場合、そもそも呼びかけに応えてくれる可能性は少なかっただろう。もっとも、が祈る女神といえば、『神々が去った後も人の求めに応え、レジェンドラ大陸に戻ってきた女神』だ。相当なお人好しであることは間違いない。請われれば、きっといつでも力を貸してくれるだろう。とはいえ、やはり過信してはいけない。相手は神であり、人間の常識とはかけ離れた存在なのだから。

 知覚することはできないが、女神の気配を追ってから、は視線を大声の方向へと向けた。
 視線の方向―――というよりも、すぐ隣で―――で、ザイの父親が少年の体をきつく抱きしめている。

「父ちゃん? あれ? 僕……なんで礼拝堂にいんの?」

 きょとんっと瞬いた後、ザイは父親の腕の隙間から周囲を窺い、見覚えのある天井にここが礼拝堂であることを悟った。
 それから改めて周囲の様子を見渡して首を傾げている少年の顔色は、良いとは言えないが、悪くもない。

「あれ? シスターに?」

 自分の周囲にいる大人達とネノフ、に気が付いてザイはますます首を傾げた。

「シスター?」

 父親の腕の中で窮屈そうに身じろぐ少年に、ネノフは近づく。そっと父親の束縛を解くと、ネノフはザイの腹部に巻かれた包帯を見下ろした。
 血の染みは、もう広がってはいない。
 ザイはネノフの視線を追い、自分の腹に巻かれた包帯―――しかも夥しい血の染みがある―――にぎょっと目を見開く。

「え? あれ? なんで……っ!?」

 そう瞬くザイの包帯に手をかけ、ネノフはと父親の見守る中で赤い包帯を解いた。
 するすると解かれた包帯の下に、ネノフが縫いとめた傷跡と糸は残っていない。
 文字通り跡形もなく消えたザイの傷に、ネノフとは瞬き、ザイの父親は目を逸らした。

ママすごーい」

 遠巻きにザイの腹部を見て、その傷が消えたことを確認したビータが歓声を上げる。もっと近くで見てみようと身を乗り出し、の肩に抱きついた。くりくりと好奇心を隠さずにザイを覗いているビータを肩越しに見つめ、ゆっくりと『癒しの奇跡』の成功を実感したは苦笑を浮かべる。
 『存在を疑わなければ良い』というだけの条件でなら勝算はあった。
 が、可笑しな話になるが、まさか本当に成功するとも思ってはいなかった。

「……ママ」

 微妙な周りの雰囲気には気づかず、アルプハが小さくに声をかける。
 その声に僅かに安堵し、はアルプハに振り返った。

「なに?」

「俺の怪我も……」

 自分の怪我も治してくれ。そう自己主張したアルプハに、は一瞬だけ瞬いた後、微笑みながら――――――申し出も却下した。
 今回の一件は、もともとアルプハがザイを巻き込んで寄り道をしたことから始まっている。その反省と罰を込めての『却下』だ。

「だーめ。アルプハは腕白しすぎ。
 しばらくそれで反省していなさい」

「えーっ!」

 の答えに唇を尖らせるアルプハを見て、は微笑みを苦笑に変える。

「それに、やっぱり軽度なら自然治癒が一番いいと思うの」

 そう言ったに、アルプハはしばらく唇を尖らせて拗ねてはいたが、以外にもあっさりと引いた。もう少しごねると思ってのだが。拗ねるどころか、どこか機嫌良くも見えるアルプハに、は首を傾げた。早速ザイの元へと駆け寄るアルプハは、お尻に尾があったのならば勢い良く振られていただろう。

 首を傾げながら喜び合う子どもを見つめるの横に移動し、デルタは口を開く。

「あんまり無茶しないでよ」

 くいっと袖を引き、小さく囁かれたデルタからの忠告の言葉に、は肩をすくめる。
 勝算はあったが、確かに無茶もした。興奮状態にある一度突き倒された成人男性の前に、自ら進み出るなどと。

 心配してくれたらしいデルタに礼を言おうとが視線を下げると、デルタはふいっと顔を背けてしまった。
 それから、本当に小さな声で一言呟く。

「あんたは僕たちの『ママ』なんだから、怪我でもされたら大変だ」

「え……?」

 自分の言葉にが戸惑っている事は判ったが、あえてそれ以上の追加はせず、デルタはの側を離れザイの側による。
 アルプハの機嫌が良いのは、ザイが助かったからだけではない。
 自分の口から『ママ』などという久しく使っていなかった単語が出たのと、同じだ。
 
 ザイの父親を一蹴する時、は言った。
 自分の事を『この子たちのママ』だと。

 当たり前のように感じ始めていた言葉ではあったが、の口から改めてそう宣言がなされ、それが嬉しくも――――――照れくさかった。