膝と肘の処置を終え、頬の傷を消毒する。そこに当て布をつけてアルプハの手当ては終了した。

 手当ての合間に、いったい何があったのか、とはアルプハに聞く。
 嗚咽交じりではあったが、落ち着きを取り戻し始めたアルプハは、デルタに補足されながらゆっくりとの質問に答えた。

 曰く、アルプハとデルタ、ザイの3人でイパ―――妊婦の妻がいる村人だ。今日は彼の畑を手伝う予定で、アルプハとデルタは孤児院を出た―――の家に向かった。が、ほんの少し魔が差して寄り道をした。止めるデルタを無視して2人で木に登り、足を踏み外したアルプハに驚いたザイが木から転落した。アルプハは運よく擦り傷のみで済んだが、ザイは運悪く尖った木の枝に体を貫かれ――――――現在に至る。

 手当ての終わったアルプハから事情を聞き終わると、人数はいるが静まり返った礼拝堂にネノフのため息が響いた。
 その音にが視線をネノフとザイに向けると、ネノフが手を休めている。
 ザイの方も一応の手当てが終わったのだろう。

「……これで、一応手当てはできたけど……」

 縫い合わせてはみたが、一向に止まる気配を見せない出血に、巻いたばかりの包帯がうっすらと赤く染まり始めている。血止めの薬は、まだ効き始めていないらしい。
 目を細めてザイを見下ろすネノフに、父親は言い募った。

「シスター。シスターは僧侶だろ? 癒しの奇跡は使えないのか?」

 聞き馴染みのない父親の言葉に、は眉をひそめる。
 それから、なにやら『奇跡』を求められているらしいネノフに視線を移した。

「癒しの奇跡が使える僧侶は、今ではもう大分数が減っていて……
 私に扱えるのは、小さなまじないぐらいです」

 肩を落として弱々しく答えるネノフに、は瞬く。
 いつもは年齢を感じさせない張りのある話し方をするネノフの、別人のように打ちひしがれた姿にも驚いたが、それ以上にネノフが『おまじない』をするという事も知らなかった。もちろんの考える『おまじない』と、ネノフの言う『まじない』が同じ物とは思えなかったが、ネノフの口ぶりから察するに、この世界には『奇跡』を扱える人間がいるらしい。

「嗚呼……私に奇跡の力があれば……。
 今苦しんでいるザイを救うこともできるのに……」

 胸の前で手を組み、ネノフは祈りを捧げる。
 自分の手で出来ることは全てやった。
 ザイがこのまま死ぬも、生きるも、あとは――――――ザイの生命力しだいだ。

 祈り始めたネノフに、父親は項垂れる。
 奇跡の力を操る僧侶の存在は知っていたが、同じ入道した者であってもネノフにそれは扱えないらしい。
 祈りを捧げてくれているネノフには申し訳なあったが、自分の息子の未来に父親は絶望した。
 いくら高価な薬を使って治療しようとも、まず血が止まらなければ自分の息子は死ぬ。

 それが嫌というほど身にしみた。






(デルタ、癒しの奇跡って、何?)

 項垂れる父親と祈りを捧げるネノフに、は隣で事態を見守っていたデルタにそっと耳打つ。デルタはの質問に驚いて目を丸くすると、すぐに小声で答えた。

(僕も噂程度にしか知らないけど、
 僧侶の中には女神の力を借りて、癒しの力を発現できる人がいるらしい)

 『癒しの奇跡』が具体的に何を指すのか、の説明はなかったが、デルタはにそう答える。デルタの言葉に、は首を傾げた。

(その人って、この辺にはいないの?)

(そんな話、イグラシオ様からは聞いたことないよ)

 デルタはよりも世情に詳しく、この世界の本も読む。本から得られない類の知識は、イグラシオやエンドリューから得ていた。
 デルタが知る限り、周辺の村に僧侶はネノフしか居ない。トランバンにも教会はあるが、そこで神職についている僧侶にも奇跡を扱える者がいるとは聞いたことがなかった。宗教国家であるトパーズまで赴いたとしても、今では商業国家といった方がしっくりくるあの国で、奇跡を扱える僧侶を探し出すのは難しいだろう。

 神話に謳われる神々が地上を去って数百年。

 長命なエルフ族とは違い、何代も世代を変えてきた人間に、神話の時代の信仰心を抱き続ける事は不可能だった。人を纏める道具としての宗教は残ったが、神々に捧げられるべき本来の信仰はほぼ絶えている。

(第一、居たとしても謝礼が払えなければ……)

「僧侶なのに、お金取るの?」

 ぽつぽつと語られる情報に、神職にある者には『おまじない』以上に頼りになる『癒しの奇跡』という物と使える人間がいるらしい。なんとなくではあったが、そう理解したは、続いたデルタの『謝礼』という言葉に思わず素っ頓狂な声をあげ――――――ネノフとザイを見守っていた村人の視線を一斉に集めてしまった。
 は反射的に口を押さえ、苦笑いを浮かべる。
 さすがに、場違いな声であった。

(『寄進』っていうのが正しい)

 に向いた視線を集めるように、デルタは小さく咳払いをする。僅かではあったが村人の視線が自分から逸れてデルタへと向き、はホッと息をはく。

(……どう言ったって、人助けでお金を取るのね)

(そりゃ、奇跡が使える僧侶は希少だから)

(なんで希少なの?)

 首を傾げたままのの問に、デルタは瞬いて視線をネノフからに移す。それから心底不思議な物でも見るような顔つきでを見つめたまま口を開いた。
 そういえば、博識でネノフや本に載っている以上の知識を披露してくれる事のあるという女性は、逆に常識の一部が欠如している場合があった、と。

(奇跡が使えるといっても、厳密には人間が力を使うわけじゃないんだ。
 力を使うのは、あくまでも女神様)

 これだけ言えば、にも意味が解るだろうか? そう思ってデルタはを見つめていたが、首を傾げたままのの黒い瞳に、理解の色は浮かんではいなかった。今まさに死に瀕しているザイの父親でさえ、ネノフに嘆願することを諦め、納得してしまっている『事』なのに。

 一向に納得する様子を見せないに、デルタはさらに続ける。

(奇跡を願う僧侶の祈りに女神が応えてくれて、初めて『癒しの奇跡』は成立する。
 女神に届く祈りを捧げられる僧侶となると……相当修行を積まないと無理なんじゃないかな)

「癒しの奇跡が使える僧侶は『癒し手』と呼ばれるわ。
 その意味は、その手に女神が現出されるから。
 いわば、女神の器となりうる者だけが、癒しの力を借りられるのよ」

 デルタの言葉を、ネノフが補足する。
 さすがのにも『使える者がいない』理由は解っただろう――――――とネノフはに視線を移すが、当のはやはり首を傾げたままだった。

 からしてみれば、ネノフとデルタの言葉の意味が解らない。
 修行をすれば祈りが届くのならば、いくらでも修行をすれば良い。それが希少な能力であるのならば、身に着けて損はないはずだ。にもかかわらず、現在は『奇跡』を扱える僧侶が少ない。手に職をつけて困ることはないと思うのだが、修行をさぼる者などいるのだろうか? とは疑問符で一杯になった頭を重たそうに傾ける。

「……女神の器たりえる条件はただ一つ」

 一向に理解する素振りを見せないに、ネノフは負けた。修道女としても、礼拝堂を預かる身としても、あまり大きな声では言えないが、学のない村人でさえも慮って口を閉ざした言葉を唇に乗せた。

「『女神の存在を塵ほども疑わず信じる』こと。
 女神への絶大なる信仰心が、人と女神との架け橋となって、癒しの力をお借りすることができるのよ」

 ネノフやデルタは『遠まわし』に何かを言っている。
 ようやくそれを理解して、はそこだけに重点を置いて考えた。
 
 ネノフの言うことには、条件はたった一つ。
 聞くだけならば、本来は修行も必要がなさそうな条件だった。

「……つまり、ネノフは女神様を信じていないのね?」

 ネノフの挙げたたった一つの条件で奇跡が使えるのならば、つまりはそういう事になるのだろう。
 修道服を身に纏い、シスターと呼ばれ、礼拝堂を預かってはいるが、ネノフは心から神に仕えているわけではない。

 以外の全員が理解していた事をようやく理解し、は傾げられたままだった首を元の位置に戻す。
 正常に戻った視界に修道女の姿を捕らえ、はまっすぐにネノフを見つめた。
 のまっすぐすぎる視線から、ネノフは目を逸らして口を開く。
 その口から洩れた言葉は。
 その言葉こそが、ネノフを修道女ではなく、孤児達の『母』としている証拠だった。

「もしも……もしも、本当に女神がおられるのなら、なぜ……ザイがこんな目にあっているの?
 何故、こんなにも孤児となる子が多いの?」

 なぜ――――――と、つられて洩れそうになった言葉を、ネノフは飲み込む。

 この先は、誰にも洩らさない秘密だった。






「ねぇ……」

 必要なのが、本当に『女神の存在を疑わない』事だけならば、には提案がある。
 そう口を開きかけたを、ザイの父親が遮った。

「うるさいっ!」

 静かな礼拝堂に響いた怒声に、ビータとデルタは身を震わせた。
 ネノフと会話をしていたはずだが、突然大声を上げて立ち上がった父親には瞬く。あまりの剣幕にが動けずにいると、ザイの手を放した父親はの側へと大股に近づくと、胸倉を掴んだ。

「よそ者は黙ってろッ!!」

「「ママ」」

 次の瞬間、力いっぱい後方へと突き飛ばされ、はしりもちをつく。
 それを見ていたビータはすぐにに側に膝を付き、デルタはと男の間に立ち塞がった。

「お、俺の息子の命がかかってるってんのに、のん気に馬鹿話しやがって……っ!」

 デルタに睨まれ僅かに勢いを無くした父親が、そう毒づく。
 父親の苛立ちは完全には消えていないようだったが、デルタにけん制されているのか、再びに手を出してくる事はなかった。
 床に強く腰を打ちつけたは、ビータに助けられながら立ち上がる。突き飛ばされた事は腹が立つが、自分が父親と同じ状況にあれば、の発言は確かに彼を苛立たせるには十分な物だっただろう。

「あなたの息子さんの命がかかっているってのは、知っています。
 わたしだって一応この子達の母親ですから、この子達に何かあったら、誰かに当たってしまうかもしれない」

 自分を支えるビータの頭を撫で、はデルタとアルプハを見る。
 3人とも―――この場にいない他の子ども達も―――が産んだわけではないが、大切な家族だ。まだ自分で子どもを産んだ事はないが、彼らが望むのなら、母と子であっても構わない。
 そう思っている。

「でも、だからこそ……
 可能性があるのなら、なんでもやってみたいって思いませんか?」

 痛む尻を擦りながら一歩足を踏み出したに、父親は瞬く。その反応に、が近づいてくることを悟ったデルタが振り返った。
 また何をされるかわからないから、近づくな。そう伝えたかったのだが、は僅かにデルタに微笑んだだけで、それを無視した。
 一歩、また一歩と父親に近づき、その目を見つめたままネノフに問う。

「シスター、塵ほども存在を疑わなければ、
 信じられればってだけが条件なら、僧侶じゃなくても使える?」

 本当は、『この世界の人間でなくとも』と聞きたかったが、さすがに言葉を選らんだ。
 ゲームではシステム画面やはっきりとした数値、能力、職業等があったが、残念ながら今のには『ゲーム画面』を見ることはできない。そもそも、ドラゴンフォースというゲームの中に、『ネノフ』という『キャラクター』はいなかったし、ビータやアルプハも同じだ。たとえ『イグラシオ』達『ゲームに居たキャラクター』達に見えざる数値が存在したとしても、それが『見えない』ことは変わりない。『数値』で認識できないのならば、『HP』や『MP』等という『概念』をが一人で気にすることも無駄だ。
 無駄なことならば、極力考えないようにする。
 ネノフが『信じることだけが条件』だと言うのならば、は信じる――――――というよりも、には信じないことの方が難しかった。

「え? ええ」

 核心をもって響くに声に、ネノフは戸惑いながらも答える。
 街の大きな修道院で修行をしていた頃、僧侶ではなく旅の魔導師が『癒しの奇跡』を使っているのを見たことがあった。

「人はただ、女神の力をお借りするだけ。
 女神が人の手に宿り、力を貸してくださって初めて、癒しの奇跡は完成するの」

「他に必要なものはある?」

 いわゆる『騎士』や『僧侶』である必要はあるのだろうか。
 一定『レベル』の『MP』が必要なのだろうか。
 そう聞きたかったが、これも言葉を濁した。

「……ないわ。何度も言うように、必要なのは女神の存在を疑わない事だけよ」

「だったら、できるかもしれない」

 ネノフの言葉が本当ならば。
 本当に必要な条件が『女神の存在を疑わない』ことだけならば。
 にはそれができる。

 は口元を引き締め、『MP』や『レベル』など難しく考えることを止める。
 信じるだけなら簡単だ。――――――そう腹を決めた。

「いいかげんな事をっ!」

 できるかもしれない。と言い切ったに、ザイの父親は眦を吊り上げた。
 現職の僧侶であっても信仰心を失う世の中にあって、のような『新米修道女』に奇跡など扱えるはずがない。目の前の娘は、自分の息子が死に掛けている時にネノフとのん気にも宗教論を交わす、場を読めない愚か者だと拳を握りしめた。

「信じるだけでいいんでしょ? だったらできます」

 今にも殴りかからん勢いで自分を睨む男を、は睨み返す。間に立つデルタと、自分を支えてくれているビータが心強かった。――――――もっとも、彼らにしてみれば気の立っている男を挑発するような発言などせず、後ろに控えていて欲しかっただろうが。

「できるわけがない!
 本職の僧侶ですらも信仰心をなくす世の中だ!
 信仰心なんて欠片もなさそうなよそ者が、余計なことを……」

「じゃあ、黙って見てろって言うんですか?
 試してみもしないで、最初から諦めるんですか?
 うまくいけば助かるかもしれないのに、何もしないで見殺しにするんですか?」

 わたしは嫌です! と続けて、はザイの父親を押しのける。
 先ほど突き飛ばされた事への仕返しの意味はない。
 ただ、ザイの元へといく最短ルートにある『障害物』を押しのけただけだった。

「可能性があるのなら、なんだってします。
 わたしは確かによそ者だけど、ただのよそ者じゃない。
 この子たちのママなんですから!」

 押しのけた男の脇を通り抜け、はザイの元へと歩く。
 勝算はある。
 『信じる』だけで良いというのなら、は『知っている』。
 この『レジェンドラ大陸』は、今もなお『女神に守られた大地』であることを。
 『子ども』という『結果』がいて『親』という『原因』がいないということはありえない。側に居るいないは別として、産まれてきた以上、子どもには必ず親が居る。それと同じように『当たり前に』、にとって『レジェンドラ大陸』には『女神が居る』ものだ。

 それを今更疑うことなど、できなかった。

 もちろん日本で信じられていた神や仏の存在を疑うな、と言われれば、それは難しい話であったが。
 幸いなことに、が今信じるのは、レジェンドラ大陸の女神だ。

 方法はわからない。
 『道』としての『信仰』も知らない。
 が、にはただ一つ、誰にも負けないものがあった。

 長椅子に横たわるザイの傍らに寄り添い、は膝を折る。
 胸の前で手を組み、何処に『居る』のかは判らないが、その存在が確かに『在る』と確信する女神に、は祈りを捧げた。






  

 僧侶の癖に攻撃魔術を使うのがゲーム中に居たな、たしか。
 シャイアさん?