イグラシオがに従ったことで、畑へと逃げ込んだ少年達も泥戦争の終結を悟った。
調子の良い事に、少年たちは我先にと畑へ逃げ込んだ勢いで、今度は井戸端へと走る。先に井戸で水を汲んでいた少女達は服を脱ぎ、今は肌着姿だ。泥戦争には比較的遅れて参戦したため、自分達は泥の被害が少ない。服を脱いでしまえば、肌着までは汚れてはいなかった。
「後先を考えてから行動しなさい」
ズィータの手足を拭き終わり、は次に取るべき行動の指示を出す。
「ズィータは手ぬぐいの追加を取ってきて。
ビータは拭き終わったら洗濯桶持ってきて。早く洗わないと、シミが落ちなくなっちゃう」
「「はーい」」
指示を出され、各自の仕事に取り掛かるビータとズィータの横を通り抜けて、エプサイランは脱ぎ散らかされた服を拾い集める。イータとテータは自分達の使い終わった手ぬぐいをデルタに渡した。手ぬぐいを渡されたデルタは自分を拭くよりも先に、洗い終わられたばかりのイオタの体を拭き始める。
手際よく作業を分散する子ども達を見つめ、は井戸端を振り返った。
「……で」
ちょうどアルプハを洗い終わり、自身は手足を洗うだけに止めようとしている男を、は見上げる。
「脱ぎなさい」
「いや、私は……」
孤児院を家としている子ども達とは違い、イグラシオは着替えを持ってはない。
泥のついた服を洗濯する必要は確かに自分にもあるが、だからといって服を脱ぐわけにはいかなかった。――――――いかなかったが、そんなイグラシオの事情を知っているはずのには、それを笑顔で却下される。
「脱ぎなさい」
表面上だけは綺麗に微笑んだ―――もちろん、目は欠片も笑ってはいない―――娘に、イグラシオは情けなくも迫力で負けた。
これ以上の抵抗は無駄だと悟り、やや抵抗はあったが素直に服を脱ぐ。
服を脱いで改めて見るとわかったが、背中にはかなりの数の茶色いシミが付いていた。気がつかないうちに、背中を狙われていたのだろう。
しみじみと脱いだばかりの服を見つめているイグラシオの手から、は服を取り上げる。のんびりと戦果を確認している場合ではない。子ども達とは違い、イグラシオは服を着て帰る必要があるのだ。洗うのが遅くなれば、それだけ乾く時間も遅くなる。
「さすがにズボン無しで家の中を徘徊しろ、とは言えませんので……
ズボンはシミのあるトコだけ洗って、濡れたまま穿いてくださいね」
ということは、ズボンまで脱がせるつもりかとイグラシオはの言葉に眉をひそめる。が、仕方がない。自分サイズの着替えは孤児院には無いし、そもそも子ども達に混ざって泥遊びをし、後先を考えずにズボンまでも汚したのは自分自身だ、と諦めた。
諦めるより他にない。
ミューの泣き声は聞こえなくなったが、その安眠を妨げた事に対してが怒っていることはイグラシオにも理解できた。
「何をはしゃいでいたのかは知りませんが、限度は考えてくださいね」
「……すまない」
小さく肩を落としたイグラシオに、は苦笑を浮かべる。
確かに怒ってはいたが、大柄なイグラシオに萎縮されてしまうと、逆に申し訳なくもあった。
「それにしても……」
これで会話は終わった、と服を脱がされたついでに自分の体も洗おうと井戸の水を汲み、それを頭からかぶるイグラシオの背中を観察して、は呟く。
「いい身体してますよね」
いつもは鎧と衣服に隠されたイグラシオの裸体を見つめ、は素直な感想を洩らす。
引き締まった腰と、しっかりと筋肉のついた太い腕、脂の乗っていない背中には無数の傷跡が残っていた。少年達同様、頭から水を被ったイグラシオの体を水が流れる。太い鎖骨をなぞり、厚い胸板へと伝う水をが見つめていると、『いい身体をしている』と称された男は渋面を浮かべた。
「……男の裸を年頃の娘がじろじろと見るのは、あまり感心できる行動ではないぞ」
「うふふ。ごめんなさい」
イグラシオに窘められたはペロリと小さく舌を出す。
確かに、あまり誉められた行動ではないだろう。
鍛えられたイグラシオの身体は魅力的ではあったが、窘められた以上あまりいつまでも見つめている訳にはいかない。
は視線を厚い胸板からイグラシオの顔へと移動させ――――――気がついた。
「あ」
「どうした?」
身体から視線を上げた後、小さく声を出して瞬いたに、イグラシオは首を傾げる。その仕草に、銀色の髪から水が一滴落ちた。
「頬の当て布も、汚れてます……」
4ヶ月近く前に受けた傷であったが、イグラシオの頬の当て布は未だに取れてはいない。普通であればとうの昔に完治しているはずなのだが、ヒルダの持っていた刃には毒か何かが塗られていたのだろうか。イグラシオの傷は未だに完治しておらず、おかげでのイグラシオに対する印象からはどうあっても当て布が外れてくれない。それなりに整った顔立ちをしているだけに、顔の約半分を占める当て布が惜しくもある。
泥の付いた当て布をすぐに交換しよう、とがイグラシオの頬に手を伸ばすと、イグラシオはの手から逃れるように腰を引いた。
「?」
「いや、なんでもない」
反射的に避けられたは瞬いて首を傾げる。
そんなに、イグラシオは一瞬だけ頬を引きつらせた。
「……すぐに綺麗な布に変えましょう?
変なばい菌が入って、これ以上治るのが遅くなったら大変です」
なにやら逃げ腰に見えるイグラシオに、は眉をひそめる。
「……傷のことなら、おまえが気にする必要はない」
「でも、いくらなんでも……遅すぎませんか?」
擦り傷やかすり傷ならば2・3日で完治する。出血の多さから、日常の雑事で受けるかすり傷等と比較することは難しいだろうが、それにしても長すぎる気がした。
イグラシオの頬の傷は、自分を助けた際に負ったものだ。
これはもう、本当に毒でも塗られていたのか、傷口からばい菌が入り込み膿んでいるのかもしれない。
当て布を交換しようと伸ばした手を避けられたは、なにやら様子のおかしいイグラシオの青い目をじっと見つめた。
「……傷なら、とうの昔に完治している」
じっと下から自分を見上げてくるの視線に耐え切れず、イグラシオは当て布の下の秘密を暴露する。
「じゃあ、なんで当て布をしているんですか?」
極当たり前なの疑問に、イグラシオはますます居心地が悪くなり、唇を真一文字に引き結ぶ。
イグラシオが当て布をしているのは、孤児院に来る時だけだ。完治している頬にわざわざ当て布を付けるイグラシオにエンドリューは苦笑を浮かべていたが、それについて言及をしてくる事はなかった。常日頃からイグラシオの右腕として側にいることの多いエンドリューには、当て布をする理由など聞くまでもなく解るのだろう。
「……イグラシオさん?」
『様』とつける事を忘れているに、イグラシオは背を向け――――――ようとしたのだが、回り込まれてしまった。
剣呑な雰囲気を纏ったに見つめられ、イグラシオは天を仰ぐ。
そんな事をしても、一度食いついてきたは決して離れてはくれない。
出会った当初は淑やかで内向的な女性だと思ったのだが、長くなってしまった孤児院での生活に、すっかり逞しくなってしまった。子ども達に対する支配力は、すでにネノフに継ぐ物があり、騎士団を預かるイグラシオであっても度々迫力で負ける。これに腕力が加われば、まさに最強だ。とはいえ、さすがに腕力でならば男性であるイグラシオには適わない。適わないはずなのだが――――――の細腕に腕を捕まえられると、イグラシオにはそれを振りほどくことはできなかった。
小さな力ながらもしっかりと自分の腕を捕まえているに、イグラシオは抵抗を諦める。
ばれてしまったら、仕方がない。
「……気にするなよ?」
何をかは告げずに念を押すイグラシオに、はますます眉をひそめた。
「何を、ですか?」
「気にしないと誓うのなら、当て布を取ってやらんこともない」
「何、意味もなく偉そうに言ってるんですか。
傷、治ってるんですよね?」
すっと目を細めたから、イグラシオはそっと目を逸らす。常に無いイグラシオの態度に痺れを切らせ、は実力行使に移った。
「……取りなさい」
頬の当て布めざして伸ばされたの手を、イグラシオは体を捻って避ける。元々身長差が大きいため、逆にの体を押えてしまえば、手を避けることは容易だった。
「気にしないと誓ったら、取ってやる」
「いいから取りなさい」
「断る」
一向に進まぬ押し問答に、は眉をひそめて体を引く。ほんの少しイグラシオから距離を取り、頬の当て布に狙いを定めた。
取れ、断ると続いた問答のため、イグラシオはの手を警戒している。こうなってしまえばイグラシオの油断でも誘わない限り、に手はない。は一市民であり、イグラシオは戦う事を仕事としている騎士だ。自分への攻撃には滅法強い。
それからは考える。
押してダメなら引いてみろ。
日本にある、古き良きありがたい言葉だ。
「……気にする、気にしないなんて」
そっと目を伏せ、は俯く。
「何を隠しているか教えてくれないと、わかりません」
「うっ……」
顔を伏せたため、からはイグラシオの表情は判らない。
が、押してダメなら引いてみろという言葉通り、しおらしく引く素振りを見せたにイグラシオが息を飲む音は聞こえた。
「……先に言っておく。
おまえが気に病む必要はないからな」
イグラシオの中で、なにやら葛藤があったらしい。
イグラシオはたっぷりと間を置いてから、喉の奥から言葉をしぼりだした。
「?」
イグラシオから引き出した言葉に、内心では舌を出しながらは首を傾げつつ顔を上げる。自分の腕を掴んだの手を取り、イグラシオは頬に―――汚れた当て布の上に―――の手を置いた。
『取って良い』という合図だろう。
傷の上に手を置いているというのに、イグラシオが苦痛に顔を歪ませることもない。
本当に、彼の傷は癒えているのだ。
は僅かに眉をひそめ、当て布の端を指でつまむ。そっと力を込めてイグラシオの頬から当て布を剥がすと、彼が『隠していた物』が姿を現した。
「……あ」
当て布の下から出てきた色黒の肌と、頬を走る3本の線には瞬く。
一瞬、目の錯覚か? と指の腹でその線をなぞってみるが、滑らかな肌には僅かな隆起があった。3本の線は『線』ではなく、傷口を覆うために肌が隆起し、『傷跡』として刻み込まれているのだ。
3本の傷跡と、それを隠していたイグラシオ。
その傷はヒルダのナイフに拠るもので、イグラシオとヒルダが対峙したのは、が――――――
言葉の応酬からやや興奮状態にあったが、急速に落ち着いていくのを見て取ったイグラシオはそっとため息をもらした。
傷跡を凝視したまま口を閉ざすから、イグラシオは目を逸らす。
今のような表情をさせたくないからこそ、隠していた傷だ。
とはいえ、長く続けられる嘘ではない。いずれわかる事ならば、いつ告げても同じ事だ。
「……おまえが、気にする必要はない」
そう重ねるが、の表情は晴れない。
はイグラシオの傷跡をそっと撫でながら、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「でも……」
「気にするな。女性を守るために負った傷だ。
騎士にとって、これ以上に名誉のある勲章はない」
イグラシオは放っておけばいつまでも頬を撫でていそうなの手を捕まえて、下ろす。
間接的にではあるが自分が付けた傷跡に、は本心から顔を伏せた。――――――というよりも、申し訳なさすぎてイグラシオの顔が直視できなかったという方が正しい。
「……どうして、そこまでしてくれるんですか?」
俯いたままのの言葉に、イグラシオは瞬く。
何故他人に親切にするのか。
そんなことは考えたこともなかった。
困っている誰かを助けることは、幼少期を孤児として『誰か』に助けられて生きてきたイグラシオにとっては普通のことだ。
今更考えるまでもない。
考えるまでもないことではあったが――――――確かに、自分は少しの事を気にかけすぎている気もした。
イグラシオはネノフに絶大な信頼を寄せている。彼女に預けたのだから、心配することは何もない。自分が頻繁にの様子を見に行く必要など、本当はなかった。にも関わらず、イグラシオの孤児院を訪ねる回数は増えている。
「そう……だな」
が納得するような答えを、イグラシオは用意できない。
自分との育ちから来る考え方の違いは、嫌というほど理解していた。
「……ここに預けたから、かもしれないな」
本当に、理由らしい理由はないのだが。
肩を落として俯いたままのを納得させるために、イグラシオは無理矢理『それらしい理由』を探した。
「知ってのとおり、私はここで育った。
ここは私の家であり、ネノフは私の母だ」
頭上から聞こえる声に、は顔を上げる。
気がついた。
イグラシオは、ヒルダと同じ事を言っている、と。
「だから歳は離れているが……、私はアルプハやビータを自分の弟や妹だと思っている」
視線を廻らせて、イグラシオは濡れた体を拭いている子ども達を見つめた。その足元に『僕は?』と問うようにイオタが近づくと、イグラシオは微笑みながらイオタの小さな頭を撫でる。
「それで、だろうな。
ここに預けたおまえのことも……妹のように思い始めている」
自分の口から漏れた『妹』という表現に、一瞬だけ眉をひそめてイグラシオは視線をに戻した。
『妹』と呼ぶには多少のひっかかりを覚えるが、他に適切な言葉も見つからない。ビータや双子ほど歳が離れていないせいか、『妹』と役割を分けてしまうよりも『家族』と括ってしまう方がしっくりする。たった数ヶ月とはいえ、『ネノフの家』で弟妹や母と一緒に毎回自分を迎えてくれるは、イグラシオにとってすでに大切でかけがえのない存在になりつつあった。
悩みながらもポツポツと語るイグラシオを、は黙って見つめる。
イグラシオは言葉で表現するよりも、態度で表す方が得意らしい。言葉にださずとも、頭を撫でられているイオタは満足そうに笑っていた。それが答えだろう。
考えに考えて自分の事を『妹』と括ったイグラシオに、は苦笑を浮かべた。
イグラシオと自分は、根本的に考え方が違う。
そう改めて思い知らされた。
核家族化の進む日本で育ったには、イグラシオの考え方は少し理解しがたい。
家に預けたから家族だ等という気持ちは、いったいどこから生まれてくるのだろうか。
嬉しくもくすぐったいイグラシオの言葉に、は首を傾げながら口を開いた。
「……じゃあ、わたしはイグラシオさんのこと、『お兄ちゃん』って呼べばいいんですか?」
孤児院育ちではないには、同じ家にいるからといってイグラシオを兄とは到底思えなかったが。
恩のあるイグラシオが自分の事をそう思ってくれているのならば、自分もそれに習うべきか。
そう思っては聞いたのだが――――――イグラシオからの了解はなかった。
「いや、それは……」
イグラシオはただ微妙な表情を浮かべて、とイオタを見比べている。
自分の言葉に対するの答えは、間違ってはいない。
自分が先に『妹』といったのだから、相手が『兄』と呼ぶのも当然だろう。
本気であろうとも、冗談であろうとも。
が、『兄と呼べばいいのか?』というの問いに、イグラシオは答えられない。
自分は『妹』と表現したが、それもしっくりとはしていない。そこにさらにから『兄』と呼ばれるのはおかしな気がした。何かが違う。
微妙な表情をしたまま悩み始めたイグラシオに、とイオタは顔を見合わせた。
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