空の頂点からやや傾き始めた太陽に、は食堂にある窓越しに外を見る。
ひらりひらりと風を含んで揺れるシーツや子ども達の服に混ざって、イグラシオの服が揺れているのが見えた。揺れ方を見る限り、水気は抜けたが、まだ完全には乾いていない。
「ため息をつくと、幸せが逃げていきますよ?」
「……誰のせいだと思っている」
ネノフの育てたハーブを使い、の淹れたハーブティーをイグラシオは口に運ぶ。
喉を通り抜ける温かい液体と心地よい香りに、イグラシオは二度目のため息を漏らした。
「自業自得では?」
イグラシオの言葉に、は苦笑を浮かべながらそう答える。
貴重な働き手である子ども達は疲れ果て、眠ってしまっていた。元気の塊のような子ども達が疲れ果てるまで遊んだのはイグラシオだ。
そのために、は現在困っている。
貴重な戦力を潰した騎士に、その戦力の代わりを務めさせても罰は当たらないはずだ。
はネノフの前にハーブティーの入ったカップを置き、最後に自分の席にもカップを置いた。
「……自業自得という言葉の意味を、おまえは知っているのか?」
頭痛でもするのか、軽くこめかみを揉んでいるイグラシオに、ネノフは苦笑を浮かべて続く。
何も、は自分が楽をするためにイグラシオに仕事を押し付けていたわけではないと、解っていた。
「まあ、……悩む暇もないぐらい忙しくて、良かったわね」
多分に実益も兼ねてはいるが、なりに気を使っていたらしい。
ネノフの言外に込められた意味に気が付き、イグラシオは口を噤む。
女性二人に気遣われては、方法はどうであれ。文句など言えない。
イグラシオが再びハーブティーを口へと運ぶと――――――表から微かに声が聞こえた。
「? 何……?」
聞き間違いかとが首を傾げる横で、ネノフはハーブティーを口へと運ぶ。
どうやら、ネノフには聞こえてはいないらしい。
では、イグラシオはどうだろうか? そう思い、が視線をイグラシオに向けると、イグラシオはすでに席を立っていた。
「……イグラシオさん?」
訝しげに声を潜めるに、イグラシオは唇に指を当てて答える。
耳を澄ませて表の様子を探るイグラシオに、声が聞こえたのは気のせいではなかったのだと確信した。イグラシオに習い、が耳を澄ませると、声の主は誰何もそこそこに孤児院の玄関を開けて建物の中へと進入してきた。
近づき来る侵入者の足音に、だがイグラシオとは警戒を解く。
近づいたために聞き取りやすくなった侵入者の声に、それが知った人間であることが判った。
「団長!」
ノックも無しに食堂のドアが開き、廊下からエンドリューが姿を現した。
いつにもなく慌てた様子のエンドリューにが驚いて目を見張ると、声が聞こえたと同時にドアの側へと移動していたイグラシオが、大柄な自分の体を使ってエンドリューの姿を隠す。
「何事だ!?」
「はっ! あの……」
言い淀むエンドリューが、姿は見えないが自分達の方を見ているとは気づいた。がそっと腰を上げると、ネノフがの手に自分の手を重ねてそれを止める。
「どうやら、お仕事に戻るようね。
、イグラシオ様の服を」
戸口に立ったまま小さな声で会話を始めた騎士2人に、ネノフはそう囁いた。
ネノフの指示にが洗濯物を取り込んで食堂に戻ると、騎士2人の会話は終了していた。
談話室に移動した後、先に孤児院の外へと出たエンドリューがイグラシオの馬に鞍を取り付けている。その作業を室内から見つめるイグラシオに、は生乾きの服を差し出した。
「どうぞ」
「すまんな」
「……あの、何かあったの?」
聞いても答えないのだろうな、とは思ったが、受け取った服に早速腕を通しているイグラシオを見上げながらは首を傾げる。
「……」
予想通り、イグラシオからの答えはない。
どうやらエンドリューの持って来た知らせは、良い物ではなかったらしい。というよりも、良い知らせであればエンドリューが住人の迎えも待たずに家の中へと入ってくることはなかっただろう。それだけで、重要かつあまり歓迎のできない内容であろうことは想像できた。
無言のまま服を着るイグラシオに、は目を伏せる。
聞いても答えないであろう事は予想していたが、先ほど『妹』と評価された身としては寂しくもある。
服の上に漆黒の鎧を纏うイグラシオをが手伝っていると、再びエンドリューが戸口に顔を見せた。
「団長、準備が整いました」
「そうか」
エンドリューの言葉に、漆黒の鎧を纏ったイグラシオがネノフに振り返る。孤児院を騒がせたエンドリューの登場を軽く詫びるイグラシオの姿に――――――
(え? あ、れ?)
ネノフと向き合い、何やら言葉を交わしているイグラシオに、は瞬く。
2人の会話は、まったく耳に入ってこない。
ただ、鎧を纏ったイグラシオの姿に、これまでに覚えた事のないほどの強い既視感を覚え、は戸惑う。
イグラシオの鎧姿など、初めて見るわけでもないのに。
違和感とは別の既視感に、は眉をひそめる。
どこかでみた。見覚えがある。鎧姿なら、何度も見ている。が、既視感は今日初めて覚えた。
イグラシオのこれまでと違う箇所といえば、本日ようやく取り去られた頬の当て布ぐらいだろう。色黒の肌に残った3本の傷跡を、は今日初めて見た。
(どこで? なんで? たしか……え?)
黒い鎧を纏った、見事な銀髪を持つ『イグラシオ』という名の騎士。肌の色は黒く、顔には3本の傷跡。
以前どこかで知った知識に、は額を押さえた。
一つが引っかかると、他にもひっかかりを覚える物があった。
『イグラシオ』の預かる『閃光騎士団』は、『自治領トランバン』の守りの要。その『副団長』を務めるのは『エンドリュー』という名前の少年騎士。
(閃光騎士団のイグラシオ……トランバン……?)
以前にもその名を聞いた時に既視感を覚えたが、その時は気のせいだろうと片付けた。が、こうして既視感を覚える物が次々に並んでしまうと――――――
次々に拾い出される情報に、は戸惑う。情報処理が追いついてくれないと言うのだろうか。浮かんでは消えていく情報と可能性に、の背筋を冷や汗が伝う。
目の前では相変わらずイグラシオとネノフが会話をしていたが、の様子に気が付いてはいない。
混乱に沈む思考の中で、はその場にたった一人で立っているような気がした。
(盗賊ヒルダ、領主ボルガノ、騎士ヒックス……)
『騎士イグラシオ』から続いて引き出された情報の最後に、は眉をひそめる。符号の一致しすぎる『情報』に、久しく姿を見ていない騎士を思いだした。
(そういえば、最近ヒックスさんを見かけていない……?)
以前はイグラシオ、エンドリューに代わり、孤児院へとヒックスが来ることがあった。その際には必ず彼が礼拝堂で祈りを捧げていたのを覚えている。いったい、いつ頃から姿を見かけていないのか。『の知っている』ヒックスは『どこに居た』のか――――――
「……?」
「あ、はいっ!?」
不意に視界を埋めた銀髪に、は驚いて半歩下がる。思考に集中していたため、『イグラシオ』の接近に気が付かなかった。
あまりのの驚きように、逆に驚かされた『イグラシオ』が瞬きながらを見下ろしている。その視線から恥らって目を逸らすことなく、は『イグラシオ』を見つめた。
信じられない事ではあったが、どこからどう見ても『の知っている』『イグラシオ』だ。
黒い鎧に、色黒の肌。顔には3本の傷跡があり、銀色の髪をしている。
驚いて半歩下がった後、まじまじと自分の顔を見つめてくるに、イグラシオは眉をひそめる。
様子がおかしい。僅かに落ち着きなく彷徨うの黒い瞳に、極度の緊張状態にあることが判った。
「? いったいどうしたのだ?」
なんの予備動作もなく、出会った夜に見せた混乱状態に陥っているに、イグラシオはの肩に手を置く。
「いえ、別に……」
何事もないとはいえないが、何かあったとも言えない。
ただ、頬に傷跡のある鎧姿のイグラシオに、おおよそ信じられない事に気が付いてしまっただけだ。
「あ、あの……イグラシオさん」
様子のおかしいを見下ろした後、とりあえずはネノフに任せようとの背に手を添え、ネノフの横へと並ばせたイグラシオに、は首を傾げる。
『気づいて』しまった今となっては、彼に『さん』や『様』と敬称をつけて呼ぶことは、少々奇妙な気もした。
「ヒックスさんって、どうしています?」
ありえない。偶然の一致だろう、と考えながら―――とはいえ、ある日突然別世界に立っているという事も、十分に『ありえない』現象だ―――は否定要因を求めて口を開く。
『の知っている』ヒックスであれば、『閃光騎士団にはいない』はずだ。
混乱の中にありながらも、まっすぐに自分を見つめてくるに、イグラシオは口を閉ざした。
無言で答えるイグラシオに、の心は鉛を飲み込んだかのように重く沈む。
まさか、そんなはずは――――――と否定する要素を求めたのだが、逆に肯定されてしまった気がした。
「……ヒックスなら、騎士を辞めました」
無言で答えるイグラシオに変わり、エンドリューが言い捨てるかのように答える。
求めていた言葉とは違う『予想通り』の言葉に、は息を飲んで視線をエンドリューに向けた。
「やめた……?」
否定を求めて肯定され、次々に思い出される情報に、はようやく『認める』。
この世界は、決して『の知らない世界』では『ない』。
『プレイヤー』という視点で、『何度も覗いた世界』だ。
ドラゴンフォースという、『ゲーム』の世界。
その『舞台』となったレジェンドラ大陸に、は今『立って』いた。
「? いったいどうしたというのだ?」
自覚した自分の置かれている状況に、は思考を手放してしまいたい衝動に駆られたが、なんとかそれを持ちこたえる。ここで自分が気絶でもしようものならば、イグラシオの行動が遅れる。
彼は今、エンドリューの持って来た知らせに、急いでトランバンへと戻ろうとしているのだから。その足を、が止めるわけにはいかない。
「……イグラシオさん、お出かけ、じゃなかったんですか?」
「いや、それはそうだが……」
「わたしなら大丈夫ですから、早く行ってください」
ぼんやりと目の焦点を合わせぬまま呟くに、イグラシオは眉をひそめる。
の様子が尋常でないことは判った。判ったが……はそれを気にするなと言う。
確かに、村娘一人の変調に足を止めている暇などないのだが。それにしてもの異変は突然すぎる。
逡巡するイグラシオの胸に手をつき、はそっと体を押し離した。
イグラシオはあの『イグラシオ』で、『ヒックス』が『離反』した。『エンドリュー』が駆け込んできて、『イグラシオ』が慌てて戻る用事など……『トランバン』で何かあったのだろうと、にもたやすく想像ができる。
「……落ち着いたら、もう一度来る」
「はい」
そう結論を出したイグラシオに、は無意識に微笑む。
微笑んだ理由は、後でいくら考えても解らなかった。
エンドリューを伴い、何度も振り返りつつ孤児院を出たイグラシオが『もう一度』来たのは、実にひと月以上後となる。
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