朝食の後片付けをするネノフの横に並び、は夕食の仕込みを済ませる。
 いつもよりも一つ多く作ったパン生地の数を確認―――少なくても、多すぎても喧嘩になる―――した後、水桶で小麦粉のついた手を洗った。濡れた手を前掛けで拭きながらは背後を振り返る。

 午前中の柔らかい日差しを浴びながら、窓辺に置かれた籠の中でミューが心地よさそうに眠っていた。この様子ならば、しばらくは起きないだろう。
 ネノフに任せて自分は畑仕事に戻っても大丈夫そうだ、とはミューを覗き込むために屈めていた体を戻す。
 秋が来る前に、冬に育つ貴重な種を蒔き終わりたい。
 その為には食事の後片付けをするとネノフより先に畑へと出た子ども達と協力し、まずは初夏に収穫の終えた畑を整えなければ――――――とは窓の外へと首を廻らせて、瞬く。

「……?」

 なにかおかしい。

 子ども達は裏の畑にいるはずなのだが、家畜小屋のある方向から声が聞こえてくる。
 それも、お互いに指示を出し合う声ではなく、楽しそうにはしゃいだ笑い声だ。

 今日は久しぶりにイグラシオが訪れている。

 それで子ども達が興奮しているのだろう。そう考えるのが一番納得できるのだが――――――それだけにしては、少々はしゃぎすぎのような気がした

 は首を傾げながら窓辺に近づく。裏口から外に出るよりも、窓辺から覗いた方が声のする場所には近い。

「……お洗濯、大変そう……」

 窓辺から見えた光景に、はまず眉をひそめた。
 それからすぐに唇を緩める。

 台所から覗く窓の外。
 明るい夏の日差しの下、子ども達は元気良く裏庭を走り回っていた。としては残念な事に、全員が全員、手に泥製のだんごを持って。

「あーあ、ビータまで入ってる」

 いつもは子ども達のまとめ役を担うビータまでもが『泥戦争』に参戦していることに驚き、は瞬く。
 これは、本格的に後片付けが大変そうだ、と。
 とはいえ、子どもの人数と同じ量の洗濯は大変だが、それを手伝う手も同じ数だけあると思えば、その作業も早く終わる。
 珍しくビータも参戦しているようだし、もう少し楽しませておいても――――――と子ども達の泥戦争を窓越しに見守り、思いだした。
 
 子ども達が走り回っている家畜小屋付近には、イグラシオが居るはずだ。
 立て付けの悪くなった扉の修理を、イグラシオに頼んである。きっと今頃は納屋から道具を運び出して――――――

「……嘘」

 子ども達がイグラシオの作業の邪魔をしては大変だ。
 早々に泥戦争を止めさせるか、場所を移動させる必要がある。そう思ったのだが――――――窓のすぐ側を横切った人影に、は瞬く。
 その人影は、子どもの物と考えるにはあまりにも大きすぎた。

「イグラシオさんが、泥遊び?」

 目の前を横切った人影―――驚くべき事に、本当ならば家畜小屋を修理してくれているはずのイグラシオだ―――を追い、は首を傾げる。
 イグラシオが子どもと一緒に泥戦争をしていることも不思議ではあったが、それ以上に奇妙な引っかかりを覚えた。

「? 何か……?」

「何か、悩み事でもあるのかしらね」

 不意に横から聞こえた声に、はびくりと肩を震わせる。
 子ども達とはしゃぎ回るイグラシオなどという珍しい見世物を前に、ネノフの存在を完全に失念していた。

「あんな顔、久しぶりに見たわ」

 どこか遠くを見つめるように呟くネノフに、はつられてイグラシオへと視線を移動させた。
 死角から投げられたエプサイランの小さな泥だんごを背中に受け、イグラシオはアルプハと一緒に笑っている。が孤児院に暮らすようになり、すでに4ヶ月が過ぎようとしているが、子ども達に混ざって笑い転げるイグラシオの姿など初めて見た。

「……なんだか、無理に笑ってるみたい」

「そうね」

 の感想に、ネノフはそっと目を伏せる。
 その仕草を視界の隅に捕らえ、は眉をひそめた。
 イグラシオの悩みとは、ヒルダを通じて知った領主に関わることだろうか? と、には想像することぐらいしかできないが、ネノフにはもう少し具体的に解るのだろう。
 目を伏せたネノフを正視することが躊躇われ、は俯くネノフに気づかないふりをした。――――――ここで心配をしていても、イグラシオが何も言わない限りは手を貸す事も、知恵を貸す事もできない。

 ――――――と、は咄嗟に目を閉じる。

 暗くなった視界に続き、すぐにバンっと大きな音が聞こえた。
 いったい何が起こったのか、と確認するために目を開き――――――窓に張り付いた泥の塊を見つけるのと、窓辺で気持ちよく眠っていたミューが泣き始めたのは同時だった。
 同様、突然の泥の襲撃に驚いたらしいネノフが、胸に手を当ててミューを見下ろす。その横に立つはミューの泣き声に即座に反応し、寝ていた籠に手を入れてミューを抱きあげた。大音響で泣くミューを宥めるためが体を揺らしてあやし始めると、窓辺に人の集まってくる気配がする。どうやら、外ではしゃぎ回っていた子ども達と騎士が一人、ミューの泣き声に気がついて集まってきたらしい。
 その気配に、は窓を開いて一喝した。

「こーら! 悪がきども!!
 家に入りたかったら、井戸でしっかり泥を落としてきなさい!」

 大声で泣きじゃくるミューと、それ以上に大きな声を出して怒鳴るに、女の子達はびくりと震えると一目散に井戸へと走りだす。が、男の子達にの一喝は効かなかったらしい。イオタでさえも『べー』っと舌を出した後、をからかうように手をひらひらと振りながら畑の畝へと逃げて行った。

、そんなに大声を出しては……」

 男女それぞれの差が出た行動を見送った後、イグラシオは苦笑を浮かべながら口を開く。
 大きな音を立ててミューの眠りを妨げてしまった事は申し訳なく思うが、が大声を出していては、泣き止むものも泣き止まない。
 イグラシオがそう続けようとすると、子ども達を睨んでいたの視線が、キッと自分の方へと向けられた。

「イグラシオ様も同罪です。
 すぐに泥を落としてきてください」

 有無を言わさぬの眼光に射すくめられ、『だんだんネノフに似てきたのではないか』と頭の片隅で考えながら無意識にイグラシオは背筋を伸ばす。

 子を守ろうとする母より強い者など、この世にはいない。
 背筋を伝う冷や汗に、嫌というほどそれを実感させられた。