視界の隅を横切った黒髪に、エンドリューは作業の手を止めて裏庭を見下ろす。
 雨漏りの修理に屋根の上にいるため、裏庭はもちろん首を廻らせれば村全体をも見渡すことができた。
 エンドリューの関心を引いた黒髪は、支柱に支えられた背の高い野菜の間に見え隠れしている。視線を畑から少しずらすと、裏庭でイオタがミューを抱いているのが見えた。どうやら、『仲直り』をしたらしい。からミューを任されたイオタが、ミューの体重によろけながらも歩いていた。

(……本当に、変わったな)

 先ほどのとイオタのやり取りを思いだし、そう思う。
 は自分が変わったといったが、エンドリューからしてみれば、が変わったようにしか見えない。すっかりここでの暮らしに馴染んでいるに、エンドリューは無意識に頬を緩めた。
 外にさえ目を向けなければ、穏やかそのものの孤児院での暮らし。
 無知なにとって、ネノフから子どもと同列に扱われることは良い結果をもたらしたようだ。多くを教わり、それら全てを―――もっとも、裁縫だけは性に逢わないらしい―――吸収する中で、生きる為の知識のみならず、人としても成長したらしい。
 少しだけ微笑ましく、懐かしくもあった。

「……エンドリュー様?」

 作業の手が止まったエンドリューを不審に思い、作業方法を覚えようと手伝いを買ってでていたアルプハは顔を上げる。エンドリューがなにかを見下ろしていると気が付くと、その視線の先を追った。

「……ママを見てるの?」

「彼女は、少し変わったね」

 問いに答える代わりに、エンドリューは思っていたことを口に出す。
 曖昧な言葉ではあったが、アルプハにも思うことはあったらしい。エンドリューの言葉の意味を正確に理解すると、元気良く頷く。

「変わった、変わった。
 この間なんか、グーで殴られた!」

 拳を作り、自分の頭を殴る真似をして、アルプハは―――『怒られた』という話であるのに―――笑った。

「ここに来たばっかの頃のママは、俺たちが悪戯しても全然怒んないで、
 ちょっと困った顔してただけなのに」

 今は容赦なく鉄拳制裁が来る、とアルプハは笑う。

「でも俺、今のママのが好きだな」

 殴られれば確かに痛いが。殴った相手も痛いという事を、アルプハは知っている。
 怒ることも愛情の一種だと。

 衒うことなく笑うアルプハに、エンドリューは微笑む。
 この『ネノフの家』で育つ子ども達は、ネノフの愛情をたっぷりと受け、ひねくれる事なく育っていく。
 それが誇らしくも羨ましい。
 ――――――かつての自分は、怒ることも愛情の一種だとは思えなかった。

 作業を再開しながら、エンドリューは目を伏せる。
 『かつての自分』は、思い出したくもない姿だった。

 エンドリューは比較的裕福な家庭に生まれた。兄弟は多かったが食事の時間におかずの取り合いで揉めることもなかったし、部屋も各自に与えられていた。相部屋どころか、生まれたばかりの赤ん坊でさえ個人の部屋が与えられており、ミューとのように同じ部屋で寝る事はない。
 のんびり食事をとっても奪われないおかず、プライバシーの保護された個室、上の兄弟とは別に設えられた新しい服に、望むだけ与えられる新しい玩具――――――甘えていたのだ。全てに対して、無自覚に。
 愛情も物も与えられることが当たり前すぎて、自分で他人に与えるということを、エンドリューは知らなかった。

 否、裕福な者として寄付や寄進はしていた。

 が、それはその日の暮らしに余裕のある者の傲慢でしかない。
 騎士となりイグラシオに出会い、彼に憧れ、その模倣をするようになりイグラシオの通う孤児院へと来るうちに気づかされた。

 両親の愛情と金を一身に受けて育った自分と、両親に捨てられ、あるいは殺されかけた孤児とは、『違う生き物』だと見下していた事に。

 そんな昔の自分と、ここに来たばかりのころのが、似ていると思った。
 孤児に差し出された水に口をつけることをためらい、孤児院で用意できる精一杯の食事すらも口にすることをためらった
 その行動は、かつての自分がとったものと同じだった。

 はかつての自分だ。

 貧しさを知らない、穏やかな箱庭で育てられた存在。
 孤児に悪戯をされても怒ることをしない、『綺麗』な存在。

 それが、今は――――――

「エンドリュー様、アルプハ」

 不意に聞こえた声に、エンドリューは作業の手を止めた。
 意外に近くから聞こえた畑にいるはずのの声に、エンドリューは顔を上げる。

「あ、ママ」

 そう呼ぶアルプハの視線を追って首を廻らせると、畑にいたはずのは梯子に乗っているのか、屋根の下から顔を覗かせていた。

「どうしました? まだ何か……」

 頼みたい仕事でもあるのか? と言葉を促すが、はそれには答えず、慎重に―――自分が思いのほか鈍いらしいと、最近になってようやく自覚したらしい―――屋根の上へと登る。姿勢を低くしてバランスを取りながら屋根の上を歩き、はアルプハとエンドリューの側まで移動すると、ホッと息を吐きながら腰を下ろした。とりあえずの安定を得て、は用件を告げる。

「そろそろ休憩してください。
 蒸しパンを作ってみたので、みんなでお茶にしましょう」

「蒸しパン?」

 聞きなれない言葉に、エンドリューは眉をひそめる。
 そもそも、昼食が孤児院で出ることはなかったし、茶菓子としても例はない。
 今日は自分が食料を運んできたので、特別と言うことだろうか? とも思うが、無駄な消費をするぐらいなら、村人にわける方が建設的だ。
 眉をひそめたエンドリューに、は小さく舌を出した。

「レシピ知らないから、勘で作ってるので……
 正確に言うなら『っぽい』ってつきます」

ママは、時々変なものを作るんだ」

 付け足されたアルプハの説明に、はむっと眉を寄せる。
 アルプハの説明には、異議があるらしい。

「変とは失礼な!
 一応、毎回ちゃんと食べれる物になってるでしょ?」

「食べれはするけど、ビミョーな味なのが多い」

「とか言って、いつも一番多く食べてるのは誰?」

「へへっ」

 図星をさされ、アルプハは笑う。
 確かに、が作るものは知らない味がして珍妙ではある。が、不味くはないし、食べられない物でもない。少ない材料で、より多くの嵩を――――――と創意工夫のなされた一品は、腹持ちという一点でのみ評価をするのならば申し分ない。今日も珍妙な味がする、と皆で笑いながら食べる食事は、それ事態が最高の味付けとなり、美味しかった。

 ムッと眉を寄せたまま手を伸ばすから逃げるように立ち上がり、アルプハはが登ってきたばかりの梯子へと逃げる。
 それを追いかけようと立ち上がり、はバランスを崩した。

「ひゃっ!」

「危ないですよ」

 ぐらりと傾くの体をエンドリューは抱き寄せる。その間に、アルプハは素早く梯子を降りていた。

「……あ、ありがとうございます」

 転落をまぬがれ、ホッと安堵のため息を洩らすに、エンドリューは苦笑する。

「ネノフが、あなたに雨漏りの修理をさせなかったのは正解ですね」

「……ですね」

 苦笑交じりのエンドリューの呟きに、は肩を落として頷く。
 たった今落ちかけたばかりの身では、なんとも言い訳はできなかった。






 エンドリューに助けられながらは梯子を降りる。
 最後の一段――――――と、地面にの足が着くと、頭上からエンドリューの声が聞こえた。

「……先ほど、僕が変わったとおっしゃられましたよね」

「え?」

 一瞬なんの話かと、は瞬く。
 それから、すぐに屋根の上での会話ではなく、孤児院の前での会話の続きだと気がついた。

「僕が変わったのだとしたら、あなたが変わったからだと思いますよ」

「……変わりましたか、わたし?」

「ええ」

 変わったと言われても、にそんな自覚は無い。ただ、子どもの世話や、畑仕事は覚えた。そういう意味では確かに『変わった』のかもしれないが、エンドリューの言うことは、おそらくそういう事ではない。

「以前のあなたは、ニコニコと笑いながらも、どこかで『線』を引いていた。
 子ども達と同じ場所にいるのに、まるで別の世界にでも立っているかのような『線』が」

 の事情を知っているはずはないのだが、核心をついたエンドリューの言葉には口を閉ざす。

「……それが、今は感じられません」

 子ども達が悪戯をすれば、それに応じては怒る。
 それはつまり、子ども達と同じ位置に立っているという証拠だ。壁に向かって説教をする人間はいない。同じ世界に生きる対等の人間だと認識しているからこそ、怒るのだ。

「僕はそれを、とても好ましいことだと思います」

 微苦笑を浮かべたエンドリューを見上げ、は視線を落とす。
 耳が痛い。
 エンドリューの言葉通り、ある意味で自分と子ども達は住んでいた世界が違う。
 エンドリューの言葉はにとって嬉しい言葉ではあったが、素直には喜べなかった。

「……わたしは――――――