洗いたてのシーツを広げ、風に泳がせる。

 ふわりと空気を含んだシーツの皺を簡単に伸ばすと、それを洗濯紐に広げた。最後に両手で叩いてシーツの皺を伸ばし、NoNameは空を見上げる。雲ひとつない晴天――――――とまでは言わないが、雨雲はひとつも見えない。これならば、洗濯物も早く乾くだろう。

 NoNameは背負い紐で背中に括りつけていたミューを、肩越しに振り返る。ミューは微かな寝息を立てて眠っていた。最初のころは寝ているうちはできる限り起さないようにと気を使ったのだが、ミューがそういう性質を持っていたのか、赤ん坊がそういう物なのか、意外に背負ったまま家事をしていてもミューの睡眠を妨げることはない。さすがに足元で子ども達が喧嘩を始めたり、ミューを背負っている事を忘れてNoNameが直角に腰を曲げたりするようなことがあれば起きてしまうが。子ども達もそれを知っているので、各自で頭を働かせてNoNameの手伝いをしてくれていた。

 NoNameは洗い桶の中で足踏みを繰り返す双子を見て、その横で洗い終わった洗濯物を力いっぱい絞るビータに視線を移し、それから最後に少し離れた木陰を見つめる。木の幹に隠れるように、小さな茶色い頭が揺れていた。なにやらもぞもぞと肩が動いているのは、苛立ち紛れに下草を抜いているのだろう。
 木陰に身を隠したまま下草を引き抜いているイオタに、NoNameは苦笑を浮かべる。

 イオタの機嫌は、未だに直ってはいないらしい。

 NoNameは苦笑を浮かべながら、新たに手渡された洗濯物を広げる。視線を干したばかりのシーツへと戻すと、その横に新たな洗濯物を並べた。そろそろイオタの機嫌をとってやっても良いが、まずは洗濯を終えてからだ、と苦笑を浮かべたまま。

 最近のイオタには、ある意味でNoNameに対する遠慮がなくなった。
 以前のようにただ甘えるのではなく、独占欲のようなものを見せるようになった。かと思えば悪戯を仕掛けてきたり、舌を出して『おまえなんか嫌いだ』と意思表示をしたりもする。それらの行動は歳相応の子どもらしく、可愛らしいとは思うのだが――――――イオタに遠慮がなくなったように、NoNameにも遠慮がなくなった。イオタはNoNameが産んだ子どもではないが、ここに居る間は家族であり、弟でもある。家族という括り方をするのならば『NoNameママ』と呼ばれる言葉通り、NoNameの子どもといっても強ち間違ってはいない。親は子どもが悪戯をしてくるようならば怒るし、躾けるべき時はちゃんと躾けるものだ。

 それに、今回はイオタが全面的に悪い。
 NoNameが家事を後回しにしてイオタの機嫌を取るのは、間違った対処だ。

 時々ちくちくと突き刺さる視線を無視して、NoNameは洗濯物を干す。
 先ほどイオタに悪戯をされ、泣きはじめたミューも今は夢の中だ。イオタの反省を促す意味でも、ミューの安眠を守るという意味でも、放置が一番だろう。
 NoNameに怒られて舌を出して逃げたイオタは、そのくせNoNameの視界から出て行こうとはしない。一人拗ねているイオタは、誰かが声をかけてくれるのを待っていた。頼みの実兄デルタはアルプハと共に畑仕事をしており、イオタの側にはいない。となれば次に声をかけてくれそうなのは歳の近い双子だが、幼児期の女の子は男の子よりも心の成長が早い。実年齢こそ双子はイオタよりも年下ではあったが、立派な『お姉さん』だ。イオタ同様、NoNameを独占する事の多いミューに対しヤキモチを妬く事もあるが、だからと言って手も足もでない赤ん坊に対して悪戯は仕掛けない。

 洗いたてのシーツを広げ、洗濯紐に干す。
 不意に視界の隅に異変を感じ、NoNameは眉をひそめた。
 違和感の正体を確かめようと視線をイオタのいた木陰へと動かすと、木陰にイオタの姿はない。が、どこかへ消えたわけではなかった。イオタの小さな身体は木陰を飛び出して、孤児院の門へと向かって走っていた。

 いったい何を見つけたのか――――――?

 そう思ってNoNameが視線をイオタの向かう先へと移すと、NoNameがイオタの目標物に気がつく前に、洗い桶の中の双子がその姿に反応する。

「「あー! エンドリューさまだっ!!」」

 はっきりと喜色の浮かんだ双子の言葉通り、門扉の前に丁度馬から下りている所のエンドリューの後姿が見えた。






 馬を引いて門を通り、門扉を閉じるエンドリューを待ってから、イオタはその体に全身で抱きつく。
 最初に聞こえた双子の声に振り返り、イオタの接近に気がついていたエンドリューは、難なくイオタの体を抱きとめる。そのままイオタの体を抱き上げると、目線を合わせてエンドリューは『こんにちは』と言った。それに対してイオタはこくりと頷いて答える。喉の傷口は完全に癒えている―――そもそも、NoNameが初めて孤児院に来たころから傷自体は癒えていたらしい―――が、イオタは未だに喋らなかった。

 イオタを片手に抱いたまま馬の手綱を引くエンドリューに、双子は洗い桶を飛び出す。裸足のままエンドリューの元へと走り寄ると、口々に口を開いた。

「エンドリューさま、いらっしゃーい」

「しゃい」

 泥だらけになった足を気にも留めず、囀る双子の頭をエンドリューは撫でる。
 イオタにしたのと同じようにエンドリューが片膝を付いて目線を合わせると、双子は揃ってはにかんだ。

「こんにちは」

 そう言いながら髪を撫でるエンドリューの手つきに、双子はうっとりと微笑む。記憶にはないが、自分達のおしめを変えてくれたらしいエンドリューが、イグラシオよりも好きだった。

「こーら、イータ、テータ!」

 頭上から聞こえた『ママ』の声に、双子は揃って肩を震わせる。
 言葉は怒っているが、本気ではないと判った。

「お洗濯手伝ってくれるんじゃなかったの?」

 双子が振り返ると、眉をひそめて『怒っていますよ』とポーズを取っているNoNameが歩いてくる。
 双子との挨拶が終わったエンドリューは、近づいてくるNoNameに合わせて、イオタを抱いたまま腰を上げた。

「足が泥だらけ」

 言われて双子は自分達の足を見下ろす。
 水の入った洗い桶から飛び出して来たため、足から水を吸い取った土が泥となって双子の足に纏わりついていた。

「お洗濯の続きをする前に、ちゃんと泥を流してね」

「「はーい!」」

 仲良く答え、洗い桶の元へと戻る双子をエンドリューが見送ると、イオタの細い腕が首筋に絡まる。柔らかいイオタの髪が顎に触れてくすぐったい。
 なにやら常以上に歓迎されているらしい状況に、エンドリューは眉をひそめた。

「? イオタはどうしたのかな?」

「拗ねているんですよ、さっき喧嘩をしたから」

「喧嘩?」

 イオタと――――――口ぶりから察するに、NoNameが、という事になるのだろう。苦笑を浮かべたままのNoNameに、エンドリューはますます眉を寄せる。イオタが誰かと喧嘩をするというのも珍しいが、いい歳をしたNoNameがそれに応じるというのも、可笑しな話だ。

「……というか、ヤキモチ?」

 釈然としない表情をしたエンドリューに、NoNameは説明を追加した。これならば、エンドリューも納得をするだろう。甘えん坊なイオタが、NoNameから逃げる意味を。

「ミューを寝かしつけていたら、突然ミューのこと叩いて……
 怒ったから、さっきからずっと拗ねているんですよ」

 NoNameはエンドリューの首筋に顔を埋めているイオタの髪を軽く引っ張る。ツンツンと髪を引っ張られ、イオタは僅かに反応をみせるが、エンドリューの首筋に埋めた顔を上げる事はなかった。

「……イオタ?」

 NoNameの言葉に嘘偽りはないか?
 そう確認するため、エンドリューがイオタに声をかけると――――――不意にイオタは顔を上げ、NoNameに向かって舌を出したかと思うと、またすぐにエンドリューの首筋に顔を埋めた。
 一瞬の出来事にNoNameは瞬く。その間の抜けた表情とイオタの行動に、エンドリューは納得した。
 つまり、理由はどうあれ、イオタがミューに悪戯をしたのは確かなのだろう。
 ますます力の込められた細いイオタの腕に、エンドリューは苦笑を浮かべた。

 さて、どうしたものか。――――――そう眉をひそめる。

 自分が抱いている存在は、悪戯犯だ。ここは庇うよりも、叱る方が正しい。とはいえ、悪戯犯への罰はNoNameが考えて行う―――すでに行った後かもしれない―――のだろう。その場にいなかった自分に、イオタを罰することはできない。とはいえ、このままイオタを抱いて―――擁護とも言うかもしれない―――いては、累は自分にも及ぶ。

 さて、本当にどうしたものか――――――と考えていると、苦笑を浮かべたNoNameが話題を変えた。

「……そういえば、エンドリュー様は……今日はなぜ?」

「え? ええ、団長の使いで……」

 NoNameが変えた話題に乗って、エンドリューは後ろを振り返る。エンドリューにひかれた馬の背には袋が載せられていた。忙しいらしいイグラシオの代わりとして、エンドリューが孤児院に来る事は珍しくはない。

「……いつもありがとうございます」

 馬の背にある袋に、米か小麦か。はたまたまったく違う物かの区別はできなかったが、また食料を運んでくれたのだろう、とNoNameは小さく頭を下げる。それを受けて、エンドリューは僅かに視線を逸らした。

「ネノフはいるかな?」

 孤児院に物資を運びこむ事への報告と、老女であるネノフの様子見をかねてエンドリューは問う。特に大きく体調を崩したことがある訳ではないが、そろそろネノフも歳だ。無理はしていないか、体を悪くしていないか、と気にかける事は間違いではない。イグラシオも、それを気にかけていた。

「ええ、今は自室で繕い物をしているはずです」

 NoNameにネノフの居場所を聞くと、エンドリューはイオタを抱いたまま体の向きを帰る。背後に立ったままの馬を見つめると、NoNameに一応の確認をした。

「これは納屋に運べばいいかな?」

「あ、わたしが……」

 何もかもエンドリューに任せてしまう訳にはいかない、とNoNameが名乗り出ると、エンドリューはやんわりとそれを制する。

「女性にそんな事はさせられませんよ」

 女性を大切に扱うのは、騎士として当然の事であったが――――――NoNameはエンドリューの物言いに、眉をひそめた。

「……? 何か?」

 身長差があるため自分を下から見上げてくるNoNameに、エンドリューは眉をひそめた。
 心当たりはないが、なにやら凝視されている――――――と。

「……エンドリュー様って、この後お暇ですか?」

 まさか『親切なあなたが不気味で、何かあるのかと観察していました』等とは言うわけにもいかず、NoNameは場を誤魔化そうと話題を探す。

「暇という訳ではありませんが、用があるのなら聞きますよ。
 団長の代わりに来ているのですから」

 NoNameの表情に話題を変えられたと気が付いたが、エンドリューはそう答える。
 この言葉に、にやりと唇を緩めた―――年頃の女性が浮かべる表情としてはどうなのだろうか、と思える表情だ―――NoNameに、エンドリューは不覚にも半歩退いた。

「雨漏りの修理をお願いしたいです」

「……漏っているんですか?」

「先週の雨の時に、男の子の部屋が漏っているのを見つけたんですけど、
 小雨ならまだ大丈夫かもしれないけど、これからの季節は大雨があるって聞いたので」

 自分でやろうとしたら、シスターに止められました。
 そう言葉を続け、肩を落としたNoNameにエンドリューはホッと胸をなでおろす。
 NoNameの常にない表情から警戒心を掻きたてられはしたが、彼女の要求は身構える程のことではない。

「さすがに、アルプハに任せるのも心配だし……」

 あなたに任せるよりは安心です。
 そう出かかった言葉を飲み込み、エンドリューは苦笑する。
 
「……わかりました。
 ネノフに挨拶をしてから、納屋の道具をお借りします」

「ありがとうございます」

 苦笑を浮かべたままのエンドリューに、NoNameは微笑む。その意味が解らずにエンドリューが瞬くと、それに気が付いたNoNameが僅かに首を傾げた。

「エンドリュー様、少し優しくなりましたか?」

 出会ったばかりのエンドリューは、やや険のあるしゃべり方をしていたが。今のエンドリューは違う。子ども達やネノフに向けるのと同じ表情、声音でしゃべり、NoNameのささやかな要求に応えてもくれる。
 以前であれば、他人に頼る前に自分でなんとかしようと挑戦しろ、と突っぱねていたであろう要求であっても。

 首を傾げながらも内心を素直に吐露したNoNameに、エンドリューの苦笑は深まる。
 NoNameの言わんとしていることは理解できたし、その自覚もあった。

「あなたは、少し図々しくなりましたか?」

 エンドリューがそう答えると、NoNameはすぐに眉を寄せる。

「あ、ひっどーい」

 口を尖らせて拗ねた振りをしてはいるが、それほど気分を害していないことは解った。
 そして、それはたぶん『お互い様』だ。

「あはは。でも、いいと思いますよ。
 多少図々しくならないと、ここでは生きて行けません」

 声に出して笑ったエンドリューに、NoNameは瞬く。
 数回瞬きをしてから、拗ねたポーズを取っていたことも忘れて首を傾げた。

「……エンドリュー様が笑うの、初めて見たかも」

 嘲笑めいた笑いや、苦笑であれば何度となく見ていたが。
 今のように、陰りなく自分に対して笑うのを、NoNameは見た事がなかった。

「そうですか?」

「そうですよ。
 いっつも笑っていてもどっか嫌味があるって言うか?
 目が笑ってないっていうか……」

 エンドリューに促され、うっかり言わなくても良い事まで口に出し、NoNameは慌てて口を押さえる。そんな事をしても、一度外に出してしまった言葉は戻っては来ないのだが。

「あ……」

 うっかり洩らしてしまった本音にばつが悪く、NoNameはエンドリューから目を逸らす。

 さて、なんと誤魔化したものか。
 忙しく思考を廻らせるNoNameの耳に、苦笑交じりの声が聞こえた。

「……僕が変わったのだとしたら、それはあなたが変わったからだと思いますよ」

「え……?」

 不意に聞こえた意外な言葉に、NoNameは視線をエンドリューに戻す。が、エンドリューはすでに背を向けて馬の背から袋を下ろす作業に戻っていた。
 どうやら、会話はこれで終了らしい。
 釈然としない会話の終わりにNoNameは首を傾げたが、エンドリューが言葉を続けることはなかった。