珍しくネノフの手が空いた午後。
子ども達はネノフから文字を教わっているため、の側にはいない。
本当ならば、もネノフから文字を学んだ方が良いのだが……今のところ、これといった不便は感じていなかった。孤児院のあるこの村には文字を読めない村人が何人もいたし、が文字を読む必要に迫られる予定もない。読めない本はネノフやデルタが読んでくれるし、『この世界』に知人の居ない自分宛に手紙が届くはずもない。
は掃除道具を片手に、礼拝堂裏口のドアノブを回す。
「あ……」
裏口のドアを開け、礼拝堂の中へと入ったの目に、見知らぬ男の姿が映った。
見知らぬ男――――――のはずだ。見覚えはない。が、僅かに既視感があるのも否定できない。
胸に手を当て木製の女神像に祈りを捧げる男を観察し、は首を傾げた。
男は鎧を着ている。ということは、村人ではない。
の知っている鎧を身に着けた人物といえば、イグラシオやエンドリューのような騎士だけだ。というよりも、この2人しか知らない。否、もう一人知っているはずだ。彼とは直接言葉を交わした事はなかったが、盗賊に襲われイグラシオに救われた夜。イグラシオに命じられて逃げた盗賊を追い、後から合流していた騎士がいた。顔ははっきりとは覚えていないが、孤児院の食堂で一度顔を合わせている。短く刈りそろえられた髪と、頬に傷のある騎士。
記憶に残る騎士の特徴を思いだし、は祈りを捧げる男を改めて観察した。
髪は短い。頬の傷は残念ながら見えなかった。正面か逆側から見れば、あるのかもしれない。鎧の種類などには判るはずもないが、盗賊の着けていたような簡素なものではない。イグラシオやエンドリューよりは簡潔な形をしていたが、男が身に着けている物は胸当てなどではなく、たしかな鎧だ。
祈りを捧げる騎士の邪魔をしないようにと、はこっそり覗いていた。そのつもりだったが、区切りが付いたのか顔を上げた騎士は、まっすぐにへと視線を向ける。
「あ、お祈り中でした……ね。失礼しました」
ばっちりと目が合ってしまい、としては気まずい。
礼拝堂は村に住むみんなの物だ。誰が祈りを捧げていようと、出て行く必要はない。が、こっそりと観察していたつもりであったが、その実しっかりと気づかれていたらしい騎士の様子に、居心地が悪かった。
早々に裏口から退散しようと、離したばかりのドアノブにが手を伸ばすと、騎士が口を開く。
「いや、今終わったところですよ」
印象としては、少し軽薄な響きを持った声音だ。残念ながら聞き覚えはない。ということは、知っているような気がしたのは、ただの気のせいだったのだろう。
声をかけられたは騎士に振り返り、改めてその顔を見て――――――右頬に傷跡があるのを見つけた。
やはり、見覚えがある気がしたのは間違いではない。
目の前の騎士はイグラシオに保護された夜、あの場にいた騎士だ。
そう確信したのだが、その名前までは思い出せない。そもそも、自分は彼の名前を聞いていただろうか? と眉をひそめて記憶を探るに、騎士は苦笑を浮かべる。
「自分は、閃光騎士団に所属するヒックスという者です。
今日はうちの団長の代理で、こちらに物資を届けに来ました」
礼拝堂にお邪魔したのは、ただのついでです、と続けたヒックスには苦笑を浮かべた。ヒックスは、自分がの記憶にないとの反応から悟り、先回りをして自己紹介をしてくれたのだ。
「わざわざありがとうございます」
と、はイグラシオの好意と、ヒックスの行為に礼を言う。
普段ならば、イグラシオの代理としてエンドリューが使いに来る。そのエンドリューが来ないという事は、彼も忙しいのだろう。騎士という仕事が具体的に何をするものなのかには想像することもできなかったが、少なくとも孤児院で子ども達と畑を相手にするよりは大変なはずだ。
「トランバンからここまでって、結構遠いのでしょう?」
なにしろ、イグラシオもエンドリューも毎回馬にのってやってくる。
確かに小麦や米の袋を馬の背に載せて運ぶという目的もあるだろうが、その目的の多くは移動のためのはずだ。トランバンまでどのぐらいの距離があるのかは知らなかったが、少なくとも村の外にある事は確かだ。イグラシオ曰く小さな村とはいえ孤児院のあるこの村は農村で、畑の面積を含めれば結構な敷地がある。
「遠いと言えば確かに遠いが、なんてことありませんよ」
自分達の移動は馬に寄るものだから、とヒックスは視線をから礼拝堂奥にある木製の女神像へと移した。
「ここの礼拝堂は落ち着きますし。
……団長がいつまでもここに足を運ぶのも、頷けます」
普通ならば、自分が育った家などというものは、成長とともに足が遠のくものだが。
イグラシオの場合、足が遠のくどころか、最近はその回数が目に見えて増えてもいる。
何が理由かは――――――さすがに言葉を飲み込んだ。それは自分が口にすべき事ではないと、ヒックスは知っている。
視線を女神像に移した後、じっとそれを見つめるヒックスにつられ、も女神像に視線を移した。
「……トランバンには、礼拝堂はないんですか?」
なにやら熱心に女神像を見つめるヒックスに、は首を傾げた。
に仏像や神像の良し悪しは判らないが、孤児院の女神像はただの木製で、騎士が熱心に視線を注ぐような価値があるとは思えない。もしかしたら、ネノフのような修道士であったのならば、にもその価値が解るのかもしれなかった。
が、残念ながらは寺の坊主であってもクリスマスを祝う日本人だ。神社と寺の違いぐらいは判るが、神像の良し悪しなど解るはずがない。
そんなから見て、なんの価値もなさそうな女神像を、ヒックスは熱心に見つめている。ということは、なにか理由があるのだろう。そう考えて、なりに騎士が『小さな村の礼拝堂に来る理由』を挙げてみた。
自分の発想ながら、それはさすがにないだろう、とも否定して――――――しばしの沈黙の後、騎士は盛大に笑いだした。
「あ、あの……」
笑い始めたヒックスに、は戸惑う。
確かに自分でも可笑しな事をいった自覚はあるが、大笑いされるほどに可笑しな事をいったつもりはない。せいぜい、失笑を買う程度であろう。
にもかかわらず、目の前で騎士は笑っている。それも、大笑いと言って良いほどの反応だ。
「いや、悪い、悪い」
「?」
必死に笑いを納めようとしているらしいヒックスに、は瞬く。いつのまにか、口調までもが崩れていた。おそらくは、今使われている言葉遣いが、彼の『素』だ。イグラシオも子ども達の前では澄ましているが、時々ネノフの前で地を出すことがある。
「トランバンにも礼拝堂はあるが……
まあ、なんていうか……俺はあそこじゃ祈る気にはならないな」
「祈る気にならない?」
幾分笑いを納めたヒックスに、は首を傾げた。
目の前の騎士は口調こそ軽薄な響きを持ってはいるが、信仰心がないわけではないはずだ。信仰心がないのならば、礼拝堂があったからといって祈りなど捧げないだろう。
僅かに首を傾げたに、ヒックスはうっすらと涙の浮かんだ―――不本意ながらの発言は、それほどまでに彼の『ツボ』に入ったらしい―――片目を閉じて軽くウインクをした後、言葉を追加した。
「トランバンの礼拝堂は、領主の悪趣味が反映されててよ。
金銀財宝で飾り立てた目がチカチカ眩む女神像が計6体もあるんだぜ?
あそこじゃ神妙にお祈りなんて、できっこねーって」
ひらひらと手を振るヒックスは、不意に口調を改める。
「やっぱ、懺悔や祈りを捧げるのなら、落ち着く雰囲気の女神様がいいだろう?」
微かに同意を求める響きに、は曖昧に頷く。
想像することしかできなかったが、ヒックスの言うような金銀財宝で飾り立てられた女神像など、確かに目に痛そうだ。
そして、ヒックスの言葉からもう一つ解ったことがある。
農民である村人でさえも食うに困るのは、領主が贅沢をするためだったのだ、と。
「ヒックスさ……まには、何かお悩みがあるんですか?」
つい『さん』と呼びそうになり、は『様』と言い直す。ここでの暮らしには慣れたが、『様』付けには未だに慣れていなかった。
「俺の悩みなんか、団長の抱えているものに比べたら、小さいもんだ」
「……イグラシオ様の、悩み……?」
不意に上がった名前には瞬くと、先日見たばかりのイグラシオの背中を思いだす。
納屋で黙々と柄を削るイグラシオの背中は、話しかけ辛い雰囲気を発していた。結局、赤ん坊というある意味で最強の武器を使っては話しかける事ができたが、根本的な問題は何一つ解決していない。何か、自分が失言をしたのだろうとは思っていたが。
あの場にいなかったはずのヒックスは、イグラシオの悩みを知っているらしい。
ということは、自分がしたであろう失言はただの『きっかけ』であり、悩み自体は元から存在したのだろう。
首を傾げたに、ヒックスは顔をしかめる。
口を滑らせて、不味いことを言ってしまった。
騎士に悩みがあるなどと、女性であるの耳に入れてよしとするイグラシオではない。
「人間、誰にだって人に言えない悩みの一つや二つあるだろうさ」
失言を誤魔化そうと話をまとめに入ったヒックスの言葉に、は瞬く。
イグラシオの悩みはわからないが、確かに自分にも『人には言えない』悩みがあった。
(人に言えない悩み……かぁ)
ヒックスの口から漏れた言葉に、はそっと目を伏せる。
(イグラシオさん、あんなに一生懸命なのに……)
が孤児院に居候するようになってから、すでに二ヶ月以上が経っている。
その間、イグラシオは十日と間をあけずに孤児院に顔を出してはいたが、本来はとても忙しい身であるとエンドリューから聞いていた。
(信じてもらえないだろうな、ってホントの事を言えないわたしはずるい……)
少なくとも、がイグラシオに『こことは違う世界から来た』『だから、この世界にの帰るべき場所はない』と誤解を与えずに説明することができれば、イグラシオが忙しい仕事の合間を縫って『存在するはずのない』の帰る場所を探す必要はなくなる。
(でも、わたしは……)
ずるくても、卑怯と罵られても、未だにイグラシオに本当の事を説明できていない。
たとえにとっては真実であったとしても、とても信じてもらえるような話ではなかったし、頭のおかしい人間だと気持ち悪がられるかもしれない。身元不明のを、自分の家とも言える孤児院に預けたイグラシオの事。どんな人間でも受け入れられるのかもしれなかったが――――――少なくとも、ならば表面上はどうあれ、内心では一歩相手との距離をとる。
そしてそれを、おそらくはこう呼ぶ。
拒絶、と。
は無意識のうちに、イグラシオに拒絶される事を恐れていた。
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