薄明るい納屋の中、道具箱に腰を下ろし、イグラシオは老朽化した鍬の柄を外す。
折れたのは木製の柄の部分だけだ。これならば、新しい柄をはめればまだまだ使える。新しい柄に丁度良い長さの棒を納屋の中から選び出し、はめ込むべき窪みと見比べた。ほんの少し、新しい柄が太い。が、少し削れば問題のない差だ。イグラシオは道具箱から取り出した小刀で黙々と新たな柄の先を削り始めた。
『領主って、馬鹿?』
不意に、先ほどの口から洩れた言葉を思い出す。
彼女の言動に、悪意はない。ただ、言って良い事と悪い事の線引きが曖昧すぎた。
おそらく、彼女は理解していない。騎士である自分を目の前にして、領主を『馬鹿』と称するその意味を。
自分に対して言うのならば良い。問題はあるが、イグラシオはに悪意がないと解っている。が、これがエンドリューや別の騎士であったのならば――――――個人の胸に留めておく事はなかっただろう。はその日の内にトランバンへと連行され、良くて投獄。悪くて見せしめに処刑されていただろう。
トランバンは自治領で、王はいないが領主がいる。
そして、その領主は――――――
一瞬だけ浮かんだ考えを振り払うように、イグラシオは軽く頭を振った。
今、自分は刃物を使った作業をしている。
他所事を考えていては、危険だ。
そうは判っているのだが――――――
『領民がいなくなったら、自分もご飯食べられなくなるって、考えなくても判ると思うんだけど……?』
首を傾げながら呟かれたの言葉が、頭から離れてくれない。
口から出して良い言葉か、飲み込むべき言葉かは、この際関係がない。
の言わんとしている意味は解る。
市民がそれに対して不満を抱いている事も知っている。
が、肝心の領主には、それがまったく理解されていない。
否。
理解していないのではない。理解する必要があるとも思っていないのだ。
騎士として、自分が仕える主は。
「つぅ!」
逸れた思考に、集中の途切れた手元が狂う。
削る柄を押さえていた人差し指を、小刀が浅く切り開いた。間をあけずに赤く染み出す血に、イグラシオは眉をひそめる。
今はまだ個々の小さな『不満』で収まってはいるが、それが成長すると、やがては大規模な暴動へと成長する。
そして暴動となった時、血を流すのは自分ではない。個々の市民―――例えば、や孤児院の子ども達―――だ。
騎士である自分は剣を振るい、その血を流させる―――暴動の鎮圧を図る―――役目を持つ。
それが領主を守る騎士の務めなのだから。
市民を蔑ろにし、自らの首を絞める領主のために、いつか自分は家族を斬るのかもしれない。
自分が誰に仕えているのか。それを知っているネノフの元にいるので、子ども達が矢面に立つことはないとは思うが。
暗く沈む思考に、イグラシオは眉間に皺を寄せ――――――不意に右頬へと触れた、小さな温もりに瞬く。
「!?」
予期せぬ何者かの接近に、イグラシオは驚いて首を廻らせる。と、丁度顔の真後ろに目を丸く見開いた赤ん坊の顔があった。
「……なんだ?」
予期せぬ接近と接触ではあったが、振り返った先にあった顔は良く知っている。現在孤児院で最年少を誇るミューだ。その姿を認めれば、頬に触れた小さな温もりの正体もわかる。振り返ったイグラシオの鼻をぺしぺしと叩いている、ミューの手だ。
「ミュー? っとと」
姿を確認するや否や、自分の右肩へと体重を移動させるミューを、落とさないようにイグラシオは反射的にミューの背中を押さえて捕まえる。
ミューの安全を確保した後、イグラシオはホッとため息を吐くと、眉をひそめて身体ごと振り返った。
どんな理由があったにせよ、自分は刃物を扱っていた。そこに安全の確認もせずに赤ん坊を乗せて寄越すとは、どういうつもりかと問い正そうとして――――――背後に立っていた娘の表情に、イグラシオは言葉を飲み込む。
「……」
ほんの一瞬だけ不安気に揺れた黒い瞳に、イグラシオは戸惑う。
はイグラシオと目が合うと、すぐにその表情を隠した。
「……なんだ? どうした?」
一瞬前までは、相手の手元も確認せずに行動を起すのは危ない、と注意をしようと思っていたのだが。予期せぬの表情に気をそがれたイグラシオの口からは、本人でさえも驚くほどに穏やかな声が洩れた。
「えーっと、……その」
他者を拒絶するかのような背中に尻込み、話しかけられなかったはずなのに。いざちょっかいを出してみれば、予想外に優しい声音で答えられた。
それに戸惑い、は言い淀む。
「ちょっと、何か落ち込んでるみたいだったから?
その……話しかけづらいなーって……」
ミューの力を借りました。
そう、散々悩んだ後、は正直に暴露する。
別段隠しておくような内容でもない。ただ、ひたすらに情けなくはあったが。
自分自身の情けない行動を恥じ、がこっそりと肩を落とすと、イグラシオはそっと目を伏せた。
「別に、落ち込んでなどいない」
「そうですか?
ならいいんだけど、なんか変だなーって」
僅かにトーンの低くなったイグラシオの声に、は視線をそらす。
何かある。それも、先ほどの会話から察するに、自分が何か失言をしたのだ。
それは解ったが、言葉を濁すイグラシオに、にはそれを追求する事を諦める。
イグラシオはネノフと同じだ。自分が間違いを犯せば、言い難い事でもちゃんと言葉にしてくれる人物だと信頼している。
そのイグラシオが、何も言わないのだ。
が取るべき行動は、それを受け入れることだろう。――――――そう、自分を納得させた。
黙ったままのイグラシオに、もつられて口を閉ざす。
そろそろ機嫌は直っているだろうか? そう確認したいがために、『味見をさせよう』などと無理矢理な理由を作っては来たが、とてもではないがそんな軽口が許されるような雰囲気ではなかった。
椅子代わりに座っていた道具箱から腰を上げ、ミューを片手で抱いたまま土間に放り出された柄を拾うイグラシオを、は黙って見つめる。
「……おまえのせいではない」
しばらくイグラシオの背中を見つめていると、不意にそう言葉を足された。
その言葉に、は瞬く。
どうやら、自分の子どもじみた行動から分析され、何を考えての行動であったのかに気が付いたらしい。
からはイグラシオが何を考え、何に悩んでいるのかを推し量ることはできない。が、イグラシオからはが何を考え、どう行動を取ったのかは解るらしい。それが嬉しいやら、気恥ずかしいやら――――――はほんのりと頬を染めた。
「それよりも、どうした?」
「え?」
「……話しかけづらかった、という事は、私に何か用があったのだろう?」
「あ、うん。ちょっと……」
イグラシオの様子を探るため、無理矢理作った用事だという自覚はある。が、あまりの幼稚な自分の行動に、なんだかすっかり見透かされている身としては、逆に言い辛い。――――――こんな馬鹿馬鹿しい用件、口に出した途端に今度こそ逆鱗に触れるのではないか。そうも思って。
「えーっと……」
の反応に、眉をひそめながらもイグラシオは急かさない。
始めた逢った日からそうだ。
イグラシオはを急かさない。単純思考で失敗の多いからは、それがありがたくも恐ろしい。誤魔化した方が良いか? と後で後悔するような思いつきも、今のように猶予を与えられてしまうと、逆に披露せねばいけない気分になってしまう。それを解ってやっているのだとしたら、目の前の騎士は相当性質が悪い。とはいえ、天然でやってのけているのだとしても、その性質の悪さは変わらない。
銀色の髪を微かに揺らし、首を傾げて答えを待つイグラシオに、は腹を決めた。
無言のままにイグラシオの隣へと移動すると、小皿に載せたキュウリをつまむ。
「はい、あ〜ん」
「?」
なんと言ったら良い物か。ほかに言葉が見つからず、は子どもにするのと同じように口を開けて『あ〜ん』とイグラシオに『促した』。
それを受けて、一瞬だけ瞬いたイグラシオは案外可愛い――――――等と思う暇はなく、やっているは死にたい程恥ずかしかった。だが一度始めてしまった手前、もう後には引けない。
「あーん」
瞬くイグラシオに気づかない振りをして、は再度『促す』。
どこか困ったように上目遣いに自分を見上げながら口を開けろと促すに、イグラシオは眉をひそめながらも口を開く。そこには作ったばかりのピクルスを放り込んだ。次にイグラシオの口から洩れ聞こえるキュウリを咀嚼する音、それを飲み込む喉仏の動きを待ってから、は口を開いた。
「……いかがでしょう?」
「薄いな。まったく味が滲みていない」
予想通りの答えに、は唇を尖らせる。
作ったばかりだ。味が滲みているわけがない。
「それはそうです。
漬けたばっかで、これから美味しくなる予定なんですから」
この言葉に、さすがのイグラシオも眉をひそめた。
毒を盛ったわけではないが、美味くないと承知で他人の口に食べ物を入れるとは、と。
それも、『話しかけづらい』と思っている人物をわざわざ選んで。
「味に自信がなかったから、取り返しのない味になる前に、
誰かに味を見て欲しかったんです」
ほんのりと恥ずかしそうに言い訳を口にするに、イグラシオは目を細める。
一応、納得はいった。
ネノフとの性格は知っている。本来ならばネノフに確認をしたいところだが、きっと無駄だと自分の所に来たのだろう、と。
そういう事ならば、味についても何か言った方が良いのだろうか。そう考えて、イグラシオは飲み込んだばかりの漬物の味を思いだす。
「……まあ、喰えない物にはならないだろう」
保存食とは得てして保存している間に味が濃くなる物だ。自分が食べさせられた物がこれから漬かっていくものならば、問題はない。多少、ネノフの味とは違うかもしれないが、それもが作ったという一種の個性だ。
当たり障りのない答えを返したつもりではあったが、イグラシオの答えには複雑そうな表情を浮かべた。
「それは……」
誉められているのか、貶されているのか。これで大丈夫と太鼓判を押されたのか、本当の意味で最悪でも食べられない物にはならないと言われているのか解らない。
曖昧な物言いをしたイグラシオに、はやっぱり何か怒っているのか? と顔を覗き込んでは見るのだが、やはり真意は判らなかった。
というよりも、言葉通りに受け取るのが、彼の真意なのだろう。
つまり、の作ったピクルスは、最悪でも『食べられる』物ということになる。
イグラシオからミューを返還され、はミューを抱く。
再び道具箱に座るイグラシオの隣にが座ると、イグラシオは作業を再開した。手馴れた仕草で柄を削るイグラシオをが見つめていると、不意にイグラシオが口を開く。
「……すまないな」
「? 何がですか?」
一瞬、何について言われているのかが判らず、は瞬いた。が、続いたイグラシオの言葉にさらに瞬く。
「おまえの身元について、だ」
「あ」
慣れ始めた生活に、時々忘れそうになることがあるが、自分は孤児院に預けられている身だ。
いつかは離れることになるし、そのつもりでもある。
イグラシオに保護された当初、状況が理解できずに混乱していたため、思ったままを口に出したら『恐怖から一時的に記憶が混乱しているのだろう』とイグラシオとネノフに『好意的に』解釈された。そして、もそれを正そうとはしなかった。自分がもしイグラシオの立場であったなら、いきなり『異世界から来ました』などと話しをされても信じられないと思ったからだ。
その考えは、今でも変わらない。
自身はネノフとイグラシオを信じている―――というよりも、信じるより他にはなかった―――が、自分が二人の信頼を得られているのかは自信がなかった。
ゆえに、この世界のどこかにの帰る家があると思っているイグラシオは、がそれを探そうとしなくとも、知らない所で探していてくれたのだろう。
そう改めて気が付いた。
「トランバンでも色々調べてみたが、なかなか身元が見つからない。
黒髪の娘の捜索願も、どこかの屋敷で盗賊に娘が攫われたとの報告も出ていない」
自分の力不足を悔やむイグラシオに、は目を伏せる。
自分の身元はこの世界のどこにも見つからない。そんなものは最初から存在しないからだ、と言い出せない自分が腹立たしかった。
この場合、なんと言ったら良いのだろうか。
正直に話す勇気があれば、とうの昔にそうしている。そもそも、言葉は足りなかったかもしれないが、本当のことは最初に話してもいた。では、当たり障りなく焦ってはいないと励ませばいいのか? とも思うが、それはそれで自分の事ながら腹が立つ。イグラシオの徒労が、まったくの無駄なものであると知っているだけに、余計に。
(……あれ?)
――――――と、真剣に自分の事を調べてくれていたイグラシオに申し訳なく思いながら、は眉をひそめる。
(わたし、そんなに焦ってない……?)
この世界に来た当初は焦り、一人で森へ出かけ、イグラシオに怪我をさせる事態になってしまったが。
この世界での暮らしは、不自由で不便もあるが、そう悪くもない。
そう思い始めている自分に驚いた。
帰りたいし、自分がここに居てもそれほど役に立つとは思えないが、いざ今すぐに元の世界に帰れたとしたら、自分はきっと毎日子ども達の事を気にする。
そして、そんな自分を、は嫌いではない。
いつのまにか、子ども達は自分にとっての一部になっていた。
は未だに当て布の取れないイグラシオの頬を見つめる。
イグラシオに保護された翌日に受けた傷は、そろそろ二月は経つというのに、未だに当て布が取れる様子を見せない。
「私も時間を見つけて探してはいる。
必ずおまえの帰る場所を見つけ出すから、もう少し待っていてくれ」
の沈黙をどう受け止めたのか。そう口にするイグラシオに、は目を伏せて「はい」とだけ短く答えた。
探す必要はない、とは言えない。それを告げるならば、自分が何者かを説明しなければならない。
今度こそ、頭のおかしい人間だと思われるかもしれない。それではなくとも、ふざけているとも受け取られかねない。見ず知らずの自分に対して、こんなにも親身に世話を焼いてくるイグラシオやネノフならば、あるいは信じてくれるのかもしれなかったが――――――
に、真実を告げる勇気はなかった。
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