ずっしりと実ったキュウリのヘタに手を伸ばし、捻る。きゅっと軽い抵抗があった後、キュウリはの腕の中へと収まった。形はやや不恰好だが、日本のスーパーで見かける物よりも大きく、重量もあった。
 立派に育ったキュウリを見つめ、はそっとため息を漏らす。
 が孤児院に暮らすことになった後、イグラシオが畑を広げて蒔いた種が、すでに収穫の時期を迎えている。
 それはつまり、それだけの時間をがこの世界で過ごしている、という事実に他ならない。
 は収穫したばかりのキュウリを籠に入れると、次にもぎ取るべき実へと手を伸ばした。

 時間は確実に過ぎている。

 ここに来たばかりには何もできなかった自分が、今では洗濯機も使わずに洗濯をすることができるし、おそらくは紙おむつのお世話になる予定であった子育ても、布のおしめを使いこなせるようになっていた。
 は支柱に絡まるキュウリから、木陰に置かれた籠へと視線を移す。ミューが孤児院に来た時に入れられていた籠だが、そろそろミューには狭くなってきたようだ。丸みを帯びた足が籠からはみ出している。風邪をひかないように、とかけた御包みが風に煽られてふわりとミューの腹から落ちた。すぐに気が付いたテータがそれを拾い、ミューの腹にかけている。あまり身体が丈夫ではないテータは、今日は朝から調子が悪い。だから今日の彼女の仕事は、木陰で休みながらミューを見守ることだ。その代わりというように、ネノフの横でイオタとイータは張り切って収穫の手伝いをしてくれている。

(それにしても……)

 は息抜き代わりに立ち上がり、腰を伸ばす。腰を屈めての長時間作業も辛いが、座っての作業も辛い。新たにもぎ取ったキュウリを籠に入れると、一度大きく伸びをして、あたりを見渡した。少し離れた場所で、まだ頬の当て布が取れないイグラシオとアルプハが鍬を使って土を掘り起こしているのが見える。なんのための作業なのかはには解らなかったが、収穫作業が終わったら手伝いに行き、その時に聞けばいい。

 は次の作業の予定を立てると、土を掘り起こす二人の背後へと視線を移した。
 黙々と作業を続けるイグラシオとアルプハの背後には、青々と実る野菜と麦畑が広がっている。まだ収穫の季節ではないために青い麦ではあったが、豊かに実っていることは確かだろう。
 そう。経験がないため断言はできないが、間違っても凶作には見えない。
 それゆえに、は首を傾げずにはいられなかった。

「……シスター、これは豊作なの? それとも普通?」

 凶作ではないと思うが、豊作なのか、普通のできなのかは解らない。
 が首を傾げながら近くで収穫を続けるネノフに振り返ると、ネノフは手を休めて苦笑を浮かべた。

「そうね……大豊作とはいえないけど、凶作ではないわね」

 曖昧に言葉を濁すネノフに、は眉をひそめる。
 豊作ではないが、凶作でもないという事は、つまり……

「それは、普通ってこと?」

「普通もよりも良い、ってことよ」

 先の答えよりは明確になった老女の言葉にが満足すると、ネノフは自分のもいだキュウリを籠に入れ、腰を伸ばした。

「そろそろ腰が痛くなってきたわね」

「あ、だったら……」

 収穫してよい大きさは判る。残りは自分と子ども達で作業をするので、ネノフは休んでくれ、とは続けようとしたのだが、先に言葉を遮られてしまった。

「休憩がてら、保存の準備をしましょうか」

「保存? すぐには食べないの?」

「もちろん食べるけど、保存する物も必要でしょう?」

 まるまると育ったキュウリを見下ろし、は瞬く。スーパーで売られている肉や野菜が実際には表示された期限よりも長く持つことは知っているが、やはり生ものには違いない。保存するといっても、品質が保たれる期間には限度はあるはずだ。冷蔵庫のないこの世界では、余計に。
 とはいえ、現在自分たちが収穫している量が既に総勢11人―――今日はイグラシオがいるので12人か―――で食べるには多すぎる。いくらかは食べるにしても、やはり保存用に加工することは必要だろう。そして収穫は今日だけでは終わらない。今日達が収穫しているのは、大きく実ったものだけだ。まだこれから大きくなる実が蔓にある以上、明日、明後日にも似たような量が収穫できる。ということは――――――いずれにせよ、食べきれない物は保存食として加工されるのだ。

 瞬きながらキュウリと籠を見比べるに、ネノフは苦笑を浮かべた。
 だいぶ仕事を覚えてはいる―――むしろ、一度仕事を覚えるとは他の誰よりも手際が良くなる―――が、はどこか1つ抜けている。一年を通して栽培できる野菜もあることはあるが、基本的に作物は季節ごとに実る。夏の野菜は夏にしか採れず、冬の野菜は冬にしか採れない。夏野菜が冬に実ることはないのだ。となれば、どうしても『保存』という行為は必要になってくる。

 食べきれないから保存をするのではなく、食べるために保存をするのだ。

 その点の認識が、ネノフとでは致命的なまでにずれていた。

「保存食の作り方を教えるから、覚えてくれる?」

「はい」

 ネノフの誘いに、は飛びつく。
 腰の痛くなる作業からの開放――――――というよりは、単純にネノフに教わるという行為が好きだからだ。ネノフはの知らない『生きていくための知識』を沢山持っている。そして、それを惜しむことなくに教えてくれた。時々厳しく、が困るような提案をしてくる事もあるが、それら全てはのためを思ってのことだと、自惚れではなく感じ取ることができる。だから、は―――だけではなく、孤児院に暮らす子ども達も―――ネノフが好きなのだ。

 自分の収穫した籠を持ち上げるネノフに続き、も自分の籠を持ち上げる。少々ではなく、重い。規格外に大きいキュウリと、他にも野菜が入っている。手を籠の取っ手から底へと移動させ、重心の安定を図る必要があった。情けないことに、この世界での自分はかなり非力な部類だと知った。日本にいた頃は日常的に農作業などしてはいなかったので、当たり前と言えば当たり前かもしれない。
 とネノフが次の仕事へと移った事に気が付き、イオタとイータが立ち上がる。そのまま自分たちの収穫をの籠に入れようとして――――――やめた。彼らにとっても、が非力であることは周知の事実。二人はくるりと向きを変えると、老女に籠に自分たちのキュウリを入れるため、ネノフの後を追いかける。
 ネノフの籠に野菜を入れる子どもを見つめ、はふと思いついた疑問を口にする。

「ねえ、シスター」

「何かしら?」

「こんなに収穫があるのに、なんでいつもギリギリなの?」

 が居候として孤児院に住む事になった時、イグラシオは当面の食料として小麦を運び込んでいた。そして、次に孤児院を訪れた際に裏庭の余っていた土地を整えて畑を広げてもいた。ミューという食い扶持が増えたとはいえ、ミューはまだ赤ん坊で、食べる量は大人のに比べればないに等しい。
 畑が広がり植える物も増えた。自家菜園と称してはいるが、立派な畑と呼べる面積があり、凶作どころか『普通よりも良い』収穫。あくまで『自家菜園』なので、外に売りに出しているわけでもない。贅沢をしなければ、自分たちが食べていくには十分な収穫だと思えた。それでなくとも、孤児院にはイグラシオが麦や米を届けてくれている。にも関わらず、食卓に上るものは味の薄い野菜スープと薄いパンだけだ。
 首を傾げるに、ネノフは苦笑を浮かべる。

「それは……『みんな』で食べるからよ」

「みんな?」

 孤児院の子どもと、自分たちではなくて? とが瞬くと、ネノフは視線を周囲へと廻らせる。その仕草に、はようやく気が付いた。
 ネノフの言う『みんな』は、孤児院の子ども達だけではない。村人を含む『みんな』なのだ、と。
 そう気が付いたが、となると更なる疑問がには浮かぶ。

「……でも、ここって農村ですよね?
 村の人だって、ここより広い畑で作物を育てているのに……」

「それは……」

 何故、村人よりも狭い畑で作物を収穫している孤児院が、広い畑を持つ村人に食料を分けているのか。その答えに見当が付かず、何やら言い淀むネノフの姿にが瞬いていると、後ろから声が聞こえた。

「豊作であればある程、凶作であっても手心は加えられず、
 収穫のほとんどを税として徴収されるからだ」

 いつの間にか背後に立っていたイグラシオに、は振り返る。その手には柄の折れた鍬が握られていた。どうやら、老朽化していたものが、ついに耐え切れなくなって折れたらしい。

「税って……税金?」

 なるほど。税金として取られるから、農民ですらも食べるのに困窮するのか、とは一応の納得をした。
 この世界の税システムは判らないが、おそらくは孤児院は教会というどちらかと言えば税金―――『教会』の場合は、寄進とも言うかもしれない―――を集める側にあるため、農家ほど税金を取られないのだろう。が、農家は違う。その土地をまとめる者の裁量如何で税として収穫を奪われるため、結果として食べていけない者が出ているのだ。そして、修道女であるネノフは食べる物を奪われた農民に孤児院の収穫を分け、自分たちはいつもギリギリの食生活を送っている、と。

「誰に……って、王様がいるの?」

 騎士がいるのだから、王様もいるのかもしれない。
 そう単純に考えては銀髪の騎士を見上げるのだが、イグラシオは眉をひそめ、渋面を浮かべていた。

 何か、悪いことを言ったのだろうか――――――?

 が言葉を撤回すべきかと逡巡すると、渋面を浮かべたままのイグラシオが口を開いた。

「トランバンは自治領だ。
 王がいない代わりに、領主がいる」

 そういえば、そんな話を以前に聞いた気がする。孤児院に着たばかりの頃に。
 では、今イグラシオが見せた表情は、物覚えの悪い自分に対して呆れてのものか、とは僅かに目を伏せた。
 
「……その領主って」

 もしかしたら、騎士であるイグラシオに『様』をつけるのと同様に、『領主様』と呼ぶべきなのかもしれないが。
 はあえてそこには気が付かない振りをした。

「領主って、馬鹿?」

「……なっ!」

 首を傾げるから洩れた領主への暴言に、イグラシオは眉をひそめる。
 たとえ領主がどのような人物であれ、自分にとっては主だ。主への暴言は騎士として諌めねばならない、と口を開きかけたイグラシオを、首を傾げたままのが制する。

「だって、領民が食べられないぐらい税金を取っちゃうなんて」

 ぼんやりとしながらも確信を付くに、イグラシオは口を閉ざす。
 そんなイグラシオには気づかず、はなおも言葉をつむいだ。

「領民が食べられないって事は、飢え死にする領民もいるってことでしょ?
 税を納める領民がいなくなったら、自分もご飯食べられなくなるって、
 考えなくても判ると思うんだけど……?」

 自治領ということは、自分たちで治めている領地という意味だろう。領地ということは、そこの支配者は領主ということになる。国家として名乗っていないだけで、実質的には一つの国といっても差し障りはない。国王から領主として領地を預かっているのならば、『自治領』ではなく『領地』だ。
 ということは、そこを治める領主はそれなりの才覚を持っていることになる。でなければ、領主になど納まってはいられない筈だ。
 にも拘らず、農村の村人がその日の食事に困っている。

 これでは、どう考えても現在のトランバン領主は――――――

「……そうだな」

 短くそう答え、背を向けたイグラシオには瞬く。
 何か、また気に障ることでも言ってしまったのだろうか? そうも思うが、呼び止めて問い質すことも憚られた――――――というよりも、向けられた背中から感じる『拒絶』に、は追いかける事ができなかった、と言う方が正しい。

 折れた鍬を担いで納屋へと向かうイグラシオを見送ると、ネノフがホッと息を吐くのが聞こえた。
 その反応に、やはり何か自分はイグラシオに対してまずい事を言ってしまったのだろう、とは確信する。すぐに追いかけるべきか、否かと眉をひそめると、ネノフが口を開いた。

「……さあ、
 保存食を作るから、手伝ってちょうだい」

 その誘いに、無意識にの唇からも安堵のため息が漏れた。