教わった手順をなぞり、今度は自分ひとりの手でおしめを付けようと格闘するNoNameから数歩下がり、エンドリューはそのたどたどしい手つきを見守る。
NoNameは決して馬鹿ではない。
ただ、自覚の有るなしはこの際置いておくとして、聞き方と甘え方が上手く、教える側に『つい』教わるべき作業を『させて』しまう。だから『手で覚える』必要のあることを、NoNameはなかなか覚えられない。NoNameは物を知らない。誰かが教えなければならない、と最初から思っているネノフやビータではダメだ。つい手を貸してしまい、結果として何度も教わったというのに、NoNameの身には付いていなかった。
けれど、エンドリューは違う。
NoNameに対して『何でも教えてやらなければ』等とは思っていないし、その必要もない。頼られればそれを断る理由もないが、自分から進んで手を貸してやる理由もなかった。
それゆえに、エンドリューはNoNameをある意味では正しく導ける。
少々喧嘩腰になるのは、ご愛嬌といったところか。
NoNameに対する微かな苛立ちは、彼女に責があるわけではない。が、それを上手く利用すれば、ネノフやビータにはできない指導ができる。苛立ちとは負の感情以外の何者でもないが、NoNameのためになるのならば、それと付き合っていくのも良いだろう。
「……不思議な子です」
離れた位置からNoNameを見守るエンドリューにだけ聞こえるように、ネノフは囁く。
エンドリューはそれを黙って聞いた。
「あの子は、誰もが知っていて当たり前の事を知らなかったり、出来なかったりする。
でも、その代わりに……私たちが知らないような事を知っていたりもします」
NoNameの知識は、生活を営んでいくには足りなさすぎる。赤ん坊の抱き方はおろか、洗濯の仕方すら知らなかった。
が、勉学という意味では、必要のないことまで知っている。生活を営むには役に立たない物ばかりではあったが、デルタの知識欲を満たす以上の知識を秘めていた。
「少しずつ、補い合っていければ、素敵ですね」
「……」
ネノフは、自分がNoNameに対して感じる苛立ちを知っているのだろう。
そう悟って、エンドリューはネノフに無言で答えた。
「――――――それでは、エンドリュー様」
「はい?」
声音を変えたネノフに、エンドリューは首を傾げる。
「服を、お脱ぎください」
「あ……」
皺の刻まれた手を差し出すネノフに、エンドリューは思いだす。ミューのおしめの事でもめていた為に忘れていたが、自分の腕の中でミューは粗相をした。よって、自分の服もミューの粗相によって濡れていた。
「乾いてしまう前に、洗ってしまいましょう」
「……お世話をかけます」
小さく頭を下げるエンドリューに、ネノフは苦笑を浮かべて、追加する。
「いいえ。それに、洗うのはNoNameですから」
「うっ……」
嫌味混じりにおしめの換え方を叩き込んだため、今のエンドリューにとってNoNameは頭を下げたくない相手の筆頭である。
が、当のNoNameにはそんな感情はないらしい。先ほどNoNameは、はっきりと嫌味を言った自分に対し、不快な表情を見せはしたが、すぐに機嫌をなおして素直な賛美をよこした。
NoNameは良くも悪くも、素直な女性だ。
年齢は自分よりも上だと判るが、歳のわりに言動が幼く、同年代かそれ以下と話をしている気分になる。勉学といえば確かに博識だが、生きるための知識は驚くほどに無知で子どもと話しているような気分にさえなった。
そんなNoNameが、自分の服を洗うという。
ということは、乾いた服を持ってくるのもNoNameなのだろう。
その時、自分は素直に礼が言えるだろうか――――――?
そう考えると、僅かに気が重い。
自分はNoNameのように、素直ではない。
彼女に覚える微かな嫌悪感。
それに気がついているのだから、なおさらだろう。
手を差し出したままのネノフに、エンドリューはそっとため息を吐いた。
濡れたおしめとエンドリューの上着を持ち、裏口から礼拝堂を出て行くNoNameの背中をネノフとエンドリューは見送る。その後ろを、イータとテータが雛のように付いて歩くのが微笑ましい。
ネノフは自分の腕の中に残されたミューに視線を落とし、目を細める。まだまだ痩せた赤ん坊ではあるが、可愛らしい顔をしていた。が、どんなに可愛らしかろうと、NoNameには関係がないらしい。落としたら怖いから抱きたくないとは言わなくなったが、未だに極力抱くことを避けようとする。
胸に吸い付いてくるから嫌だ。年頃の娘であるNoNameがそう言って拒絶をするのは、解らなくはない。
(それにしても……)
と、ネノフは考える。
NoNameはいったい、どんな生まれの人間なのか、と。
胸を吸われるのを嫌がるのは、まだ子どもを産んだ経験がないからだ。おそらくは男性経験も少ない。が、乳首に吸い付かれることへの嫌悪感と羞恥心があるということは、性についての知識はある。それも彼女の持つ知識の一部だろう。
学が高く、貞操観念もしっかりとしている。が、生活を営むという一番大事な面だけは恐ろしく無知なNoName。
(本当に、どこのどなたなんでしょうね)
もしかしたら、本当にエンドリューが推察したように、富豪か貴族の娘なのかもしれない。
そう考えて、ネノフは軽く頭を振った。
判らない事を考えるのはやめよう、と。
NoNameという娘は素直で前向きで、不慣れながらも子どもの世話を懸命に見てくれている。
NoNameの生まれがどうであれ、それがNoNameの人間性であり、身から決して離れることのない財産でもあった。
(……本当に、良く似ているわ)
僅かに眉をひそめてNoNameの出て行った戸口を見つめるエンドリューを盗み見て、ネノフは苦笑を浮かべる。
NoNameとエンドリュー。外見はまったく似ていない二人であったが。
二人はとても良く似ている。
そう思う。
(だから、気になるんでしょうね)
かつてのエンドリューも、今のNoNameと同じように何も出来ない少年だった。
子どもの世話等かけらも出来ず、騎士として前向きすぎた存在。稀にとはいえ、貧乏な孤児院へと足を運ぶイグラシオに、口にこそださなかったが渋面を浮かべていた。
現在はイグラシオに影響され、子どもの世話も覚え、自然体で孤児院を訪れるようになった。それもイグラシオの使いではなく、自発的に、だ。
かつての自分に似ているから、エンドリューはNoNameに苛立つのだろう。
似ていない二人の、唯一の共通点。
それは、貧しさを知らない『育ち』だった。
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