敷地を囲む柵の外には出て行けないと、孤児院で飼われる家畜達は昼間のうちは小屋の外へと放されている。
 狭い小屋からでて、日光浴と食事をかねて下草を食べるヤギの横に小さな椅子を置き、エプサイランは桶をヤギの腹の下に置いた。ヤギの乳を搾るのはエプサイランだけに任された仕事という訳ではないが、相性が良いのか家畜はエプサイランに良く馴れている。必然的にその扱いに慣れ、エプサイランが乳搾りの役を買ってでることが多かった。

 そんなわけで、ミューの飲む乳はNoNameが作ってはいるが、その主な材料となるヤギの乳は、エプサイランが毎日搾っている。ミューの世話は自分が任されたのだから、と何度かNoNameも挑戦しようとしてはいたが、不器用なNoNameの手つきにヤギが悲鳴をあげて逃げだした。その様があまりにも不憫であったため、結局はエプサイランが乳を搾ると話はまとまっている。NoNameに乳搾りをまかせては、ヤギとエプサイランに心の平和は訪れない。

 そんな訳で、本日もヤギの乳絞りを――――――と、エプサイランが家畜小屋の横で乳を搾っていると、不意に影が落ちてきた。
 おかしいな。今日は天気が崩れるとは思えなかったのだが? と辺りを見渡すが、周囲は明るい。裏口に座って日光浴をしているイオタの身体も、ゆらゆらと揺れていた。NoNameから任された仕事の途中のはずだが、陽気に誘われたらしい。イオタの横には籠が置かれており、その中ではミューが日光浴をしている。今日は天気が良い。日中であれば外で昼寝をしても、風邪はひかないだろう。
 では、たまたま雲の陰にでも入ったのだろうと顔を上げ、エプサイランは瞬く。
 エプサイランのすぐ後ろに、日差しを遮る人物が立っていた。

「あれ? エンドリュー様」

「こんにちは」

 エプサイランと目が合うと、エンドリューはにっこりと笑う。
 その笑顔に、エプサイランは首を傾げた。

「こんにちは、エンドリュー様。
 今日はイグラシオ様は、ご一緒じゃないの?」

 エンドリューが一人で孤児院に来ることがまったく無いということはない。が、大抵はイグラシオと一緒に来るし、最後の訪問からひと月以上間が開くことも多い。
 イグラシオが最後に訪れてから、まだ3日しか過ぎていない。
 いつもの間隔からすれば、早すぎる訪問だ。

「団長はお仕事が忙しくてね。
 だから、代わりに僕がきたんだ」

 不思議そうに首を傾げるエプサイランの頭を撫で、エンドリューは背後の馬を示す。その背には、いつものように荷物が載せられていた。ただし、いつもの小麦や米とは違い、容積は小さい。

「また何か持ってきてくれたの?」

 3日前にイグラシオが小麦の袋を持ってきてくれたばかりであったが。
 いくらなんでも早すぎる気がした。イグラシオの持ってくる小麦は孤児院でも食べるが、村人にも分けられる。とはいえ、今は冬ではないのでたとえ凶作で蓄えがなく食事に困ったとしても、山や森に入れば山菜が採れるはずだ。イグラシオがそれを知らないわけは無い。たった3日で小麦が一袋なくなるとは思わないはずだ。
 それなのに、エンドリューを代理に立ててまで新たな物資を運ばせた。
 その意味を図りかね、エプサイランは瞬く。
 自分には解らないが、ネノフやNoNameになら解るのだろうか、と。

 首を傾げるエプサイランに、エンドリューは苦笑を浮かべる。
 エプサイランが疑問に思うのも、無理はない。自分でも、間隔が短すぎると思った。が、イグラシオ本人から理由を聞いてみると、それも納得する他にない。

「そうだよ。なんでも、また一人増えたとか……」

 そう答え、エンドリューは辺りを見渡した。
 イグラシオから聞いた新入りが、どこかその辺りにいないだろうか、と。

 辺りを探るエンドリューに気がつき、エプサイランはイオタを呼ぶ。

「イオタ!」

 名を呼ばれ、うっつらと眠りの世界にいたイオタはびくりっと目を覚ました。
 数回瞬き、首を傾げる。それから自分の名を呼んだのがエプサイランだと理解すると、声の聞こえた方へと視線を向け、その視界に入ってきたエンドリューの姿にパッと顔を輝かせた。

「ミューをつれてきて。
 エンドリュー様が、ミューを見たいって」

 エンドリューの姿を見止め、いそいそと腰を上げるイオタに、エプサイランは用件を告げる。
 それを聞いたイオタは、今にもエンドリューに向けて駆け寄ろうとしていた体をとめ、足元の籠に手を突っ込んだ。

「……乳児?」

 イオタが手を入れて籠から引きずりだした赤ん坊の姿に、エンドリューは瞬く。体格的には3歳のイオタよりも確かに小さいが、イオタに赤ん坊を抱かせて歩かせるには少々心配があった。抱くと言うよりは、持つのがやっと。歩くというよりは、千鳥足で這うように進む。
 ふらりふらりと揺れる視界に、気持ちよく眠っていたところを起されたのか、赤ん坊は火が付いたように泣き始めた。が、エプサイランもイオタも慣れているのか、それをまったく気にしていない。

「ミューって言うの」

 そう赤ん坊の名前を告げるエプサイランに、イオタがこくこくと頷く。どこか誇らしげなのは、やはり自分の下に兄弟ができたのが嬉しいのだろう。名前から察するに女の子だ。ということは、イオタは兄になり、妹ができたことになる。
 引きずるようにしてミューをエンドリューの目の前へと『連れて』来たイオタに、エンドリューは笑った。

「可愛いね」

 簡潔にそう感想を漏らすと、イオタがこくりと頷く。
 成人しているエンドリューからしてみれば、ミューとイオタには大した体格差があるわけではなく、赤ん坊という以上にイオタとの相違点は見られない。子どもという枠にのみ当てはめて考えると、どちらも同じように可愛かった。

「抱いてもいいかな?」

 エンドリューがそう聞くと、イオタはミューの両脇に手を入れ、エンドリューに差し出す。掲げ持つことは、やはり不可能だった。

「いいよ」

 イオタの代わりにそう答えたエプサイランに、エンドリューは泣き止まないミューを抱き上げる。
 イータとテータが孤児院に来たばかりの頃、少しだけ手伝ったので赤ん坊の世話をするのは初めてではない。
 抱き上げた赤ん坊を、まずは泣き止ませよう、とエンドリューは体を揺らし始める。

 厚い鎧に身を包む見知らぬ人間に抱き上げられた赤ん坊は、一瞬だけ泣きやむ。


 ――――――そして、悲劇は起こった。