「……せいがでるな」
子ども達が寝起きをしている建物。その裏手にある自家菜園と呼ぶには少し広い畑の一画で、と年少4人が雑草を抜いていると、不意に声をかけられた。
が孤児院で暮らすようになってから、まだひと月も経ってはいない。その声の主と会ったことも数えるほどしかないが、はすでにその声を覚えてしまった。というよりも、にとっては大恩人になる。誰よりも先にまず覚えるべき人物だろう。
は腰をあげ、声の主に振り返る。
視線の先には馬の手綱を握った銀髪の騎士が立っていた。
「イグラシオさ……ま」
咄嗟に『さん』と続けようとした言葉を、は慌てて『様』に直す。生身の人間に対して『様』と敬称をつけて呼ぶことには、未だに慣れない。
最初はイグラシオに対して『さん』と呼んでいたのだが、騎士対してそれは失礼にあたる、とネノフに『様』と呼ぶように直された。一応とはいえ身分制度のない日本生まれ、日本育ちのからしてみれば、誰かに対して『様』をつけて呼ぶことには違和感があった。が、イグラシオに対して『様』をつけて呼ぶことを『ここ』では誰も笑わない。やはり、これが『この世界』での普通なのだろう、とは気恥ずかしいながらも受け入れた。
「ここの暮らしには、もう慣れたか?」
「はい。なんとかやれてます。
シスターやビータが色々教えてくれて、他の子たちも手伝ってくれるので」
イグラシオの問にそう答え、は視線を廻らせる。
のすぐ側には、と同じくイグラシオの姿を認めた子ども達が走り寄ってきていた。ズィータはの言葉に少しだけ誇らしげに胸を張り、イオタと双子はイグラシオの手綱の先――――――馬の背に乗せられた袋を見つめている。おそらくは、また何かを運んできてくれたのだろう、と期待を込めて。
「そうか」
の答えにイグラシオは口元を緩める。
最初はネノフに預けたところで本当にやっていけるのかと、どこか不安のあった娘だが、それなりに頑張ってはいるらしい、と安心した。
「……ネノフはいるか?」
馬の手綱を示し、イグラシオはにそう聞く。積荷は言わなくてもわかるだろうが、たとえ何を持ってきたにしても、まずは孤児院の主であるネノフに報告をする必要がある。馬の背から荷物を降ろすのはその後に――――――と思ったが、イグラシオの問には僅かに表情を曇らせた。
「いえ、今日は……」
ネノフは妊娠中の村人の様子を見に出かけているため、孤児院の中にはいない。同じ村の中とはいえ、いつ戻ってくるかも判らないため、がイグラシオにどう答えるべきかと考え始めると、微かに孤児院から赤ん坊の泣き声が聞こえた。
その泣き声に、は反射的に背筋を伸ばす。
先ほどまで眠っていた赤ん坊が、目を覚ましたのだろう。夜鳴きもおしめ換えも任せられてしまえば自分がやるしかないと諦められるが、唯一慣れない―――というよりも、はっきり嫌だと拒絶したい―――癖があった。癖というよりは、赤ん坊の習性だろう。
びくりと反応した後、硬直したように立ちすくむに気がつき、イグラシオは眉をひそめる。ややあってから、孤児院の中から聞こえてくる泣き声に気がついた。
の少し過剰にも見て取れる反応の理由はわからなかったが、自分が最後に孤児院を訪ねてから今日までの数日のうちに起こった『事件』を知る。
はまだ何も言い出さないが、つまりはそう言うことだろう。
孤児院に、新たな家族が増えたのだ。
それも、乳離れをしてから孤児院に来たイオタとは違う、一番手のかかる時期の赤ん坊が。
それはわかる。が、の少々激しい反応の仕方に、イグラシオは眉をひそめたまま首を傾げた。
赤ん坊が増えた以外に、まだ何か起こっているのか? と。
それを問うためにイグラシオが口を開くと、孤児院の裏口が開いた。
イグラシオが振り返るより早く、中からエプサイランと赤ん坊を抱いたビータが飛び出してくる。
「ママ!」
エプサイランの口から漏れた言葉に、イグラシオは眉をひそめる。
『ママ』とは、聞き慣れない響きだった。
少なくとも、この『ネノフの家』敷地内では。
「ママ! ミューがまたむずがってるの!」
ほら、とに見せるようにビータが赤ん坊を掲げて畑へと走り寄ってくる。その珍しい表情に、イグラシオは目を細めた。
屈託なく笑うアルプハや年少4人に比べ、ビータは自分たちが『孤児』であることを良く理解している。愛情を惜しみなく注ぐネノフの教育方針のためか、捻くれることなくまっすぐに育ってはいるが、やはり自分たちが親元で育てられる他の子どもとは違う、とはっきりと自覚していた。そのためか年齢よりも大人びており、はしゃぐことも少なくネノフの手伝いを良くする。
そんなビータが、今は年下のエプサイランと同じようにはしゃぎ、の周りを駆け回っていた。
『ママ』と呼ばれる当人は、少々引きつった笑顔を浮かべている。
「お腹空いたって」
の横に並ぶと、ビータは赤ん坊をに手渡す。は赤ん坊を両手で受け取り――――――その姿に、イグラシオは眉をひそめた。
「そんな抱き方では、落としてしまうぞ?」
「それは解ってるんですけど……」
赤ん坊を抱くというよりは『掲げ持つ』に、イグラシオは首を傾げる。のような抱き方では、本当に赤ん坊を落としてしまう。もっと体に抱き寄せて、しっかりと支えてやらねば。赤ん坊というものは見た目に反して意外に重い。そして荷物でも、ありがたい供物でもない。生きた人間だ。しっかりと両手で抱きしめ、支えてやらねばならない。
可愛い赤ん坊を抱く、というよりは怖々と何か恐ろしい者を手に持っている。そんな様子を見せるに、ビータはすでに慣れているのか、何も言わなかった。
「この子、服の上からでも関係なく、すぐに胸に吸い付いてくるんです……」
夜鳴きにもおしめ換えにも耐えられるが、唯一これだけは耐えられない赤ん坊の習性。
自分を捨てた母が恋しいのか、が抱き上げると赤ん坊はすぐに胸を探る。そして探し当てた乳首に、それが服の上であろうが、下着に包まれていようが、お構いなしに吸い付いていた。乳首に加えられるむず痒い刺激に、は年頃の娘らしい恥じらいを禁じえない。100歩譲って、赤ん坊が血をわけた我が子であれば、に出産の経験があれば、そんなことは気にならないのかもしれなかったが。残念ながら、が世話を任せられた赤ん坊は、が産んだ赤ん坊ではない。我が子に乳を与えた経験のないに、他人の子にまで乳首を吸わせることは突貫工事の母性愛よりも羞恥が勝る。いかに赤ん坊の母親役を任せられようとも、はまだ母ではなく娘だ。
ほんのりと頬を染めるの恥じらいは、男であるイグラシオには通じない。
イグラシオは視線を赤ん坊からの胸へと移動させると、ますます首を傾げる。白と灰色を基調とした修道服を押し上げているの胸は、赤ん坊が吸い付くには申し分のない大きさだろう。それを少し吸わせるだけで、赤ん坊が泣きやみ、また安心できるのならば――――――
「? 胸ぐらい、直に吸わせてやったらどうだ?」
減る物ではないし。
「むしろ、増え……」
増えるのではないか、と続けようとした言葉を、イグラシオは飲み込んだ。
これまでに見たことも無いほどに冷たいの視線が突き刺さる。ほんのりと赤かった頬が、今ははっきりと赤く、なにやら黒い瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。どうやら、に対して自分はなにか失言を漏らしたらしい。そう理解するよりも早く、が行動を起した。
「……だったら、イグラシオ様の胸を吸わせてあげてくださいっ!」
母乳のでない胸でも良いのなら、イグラシオの胸であっても条件は同じ―――もちろん、女性特有の柔らかさとは無縁の物ではあろうが―――だ、とは赤ん坊をイグラシオの腕に押し付けた。憎らしいことに、イグラシオは戸惑うことなく赤ん坊を受け取る。
安定良く片手に赤ん坊を抱いたイグラシオに、は唇を尖らせると、そのままくるりと背を向けた。
「……お乳の代わり、作ってきます」
ムッと眉を寄せたまま家の中へと入っていくの背中―――間違いなく怒っている―――を見送り、イグラシオは声をひそめる。
あの様子では、会話の内容が聞こえたら戻ってきかねない。
「『ママ』と呼ばれる事を、怒っているのではないか?」
その問に、ビータとエプサイランは顔を見合わせた後、首を振って答える。
「『ママ』って呼び出したのはシスターだけど、
ズィータも呼び出したら、そのまま皆『ママ』って呼び始めたわ」
「一応、呼んでいいの? って聞いたけど、良いって言ってたし」
エプサイランは『皆』と答えたが、正確には3名ほど呼んではいない。イオタはしゃべれなかったし、デルタは『母親』というものに強い不信感を持っている。アルプハが呼ばないのは、他の子どもに比べて年齢が高いためだ。今更できた『ママ』に対し、憧れよりも照れが先に来て呼べていない。が、そう遠くないうちに結局は『皆』『ママ』と呼び始めるだろう。そうエプサイランは確信していたため、『皆呼んでいる』と答えた。
「では、なぜあんなに怒っているんだ?」
少女二人の答えに、イグラシオは首を傾げる。ますますが突然怒り出した理由が解らなかった。
「ん〜、わかんない」
「でも、ミューを抱く時だけだよ。ママが嫌がるの」
「ミュー、すぐにママのおっぱいに吸い付くから」
も言っていた言葉に、イグラシオは眉をひそめる。
赤ん坊が母親の胸に吸い付くのは、当たり前の行動だ。そうしなければ食事が取れないのだから。
そしては女性であり、出自が未だに不明なため子持ちかどうかは解らない―――とはいえ、あの反応から察するに既婚者でも子持ちでもないことは確実だろう―――が、いつかは母親になる存在だ。いずれは我が子に母乳を与える存在が、預かった子どもとはいえ胸に吸いつかれるのは嫌とは、どういうことだろうか? と考える。
年頃でも女性でもないイグラシオには、の恥らう理由が理解できなかった。
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