夜着を纏った体にショールを羽織り、は燭台を片手に廊下を歩く。恐るおそる廊下を歩くの夜着の袖口をズィータが掴み、開いているズィータの手を双子が掴む。
 音の発生源を求め、その音の聞こえてくる方向へとが近づくと、それが『物音』等ではなく『泣き声』であることに気がついた。
 は廊下をまっすぐに進み、行き止まる。目の前には、玄関がある。つまり、泣き声は家の外から聞こえていた。夜中――――――とまでは言わないが、日はとっくの昔に沈んでいる。普段であれば、こんな時間に孤児院を訪ねてくる者はいない。
 そう考えると、泣き声がするからといって、すぐに扉を開けることは躊躇われた。
 泣き声で油断を誘い、家人が内鍵を外したところに押し込み強盗、とも考えられなくは無い。とはいえ、孤児院に押し込んだところで、奪うべき金品はないだろう。基本的にネノフの預かる孤児院は自給自足で成り立っている。身一つで居候することになったのために新しい服を買う金があるはずもなく、夜着にしろ、普段着にしろ、ネノフの服を直して着ていた。そのため、日中は白と灰色を基本とした修道服を着ることになったので、ちょっとしたコスプレ気分だ。たまに顔を合わせる村人にも、新しく来たシスターだと勘違いされている節もある。
 そんな生活を送る孤児院なので、盗賊や強盗に狙われるような物はひとつもない。

「……外?」

 泣き声の聞こえる扉をしばらく眺めた後、は呟きながら首を傾げる。と、同じく音の発生源を探していたネノフは、躊躇うことなく扉を開いた。開かれた扉から入ってきた夜気にが身を震わせるのに構わず、ネノフはそのままその場に腰を下ろす。

「?」

 開かれた扉の向こうには誰もいなかった。少なくとも、の視界には。
 が、泣き声は確かに聞こえている。それも、足元――――――ネノフの腰を下ろしたあたりから。

 姿は見えないが泣き声は聞こえる。そう眉を寄せてが首を傾げると、の袖口を掴んでいたズィータが手を離した。ズィータはそのままネノフの横へと移動すると、同じように足元を覗き込んでいる。もズィータに続いてネノフを覗きこもうとするが、それよりも早くネノフが足元から何かを抱き上げ、立ち上がった。
 その腕に抱かれた『泣き声の発生源』に、は瞬く。

「……赤ちゃん?」

 白い産着に包まれた赤ん坊を見下ろして、は眉を潜める。
 ネノフに抱かれているものは、どう見ても人間の赤ん坊だ。間違っても、犬や猫ではない。
 孤児院の玄関に。それも人目を避けるかのように、日が沈んだ後に置き去られた赤ん坊。
 そのことが差す意味をが理解する前に、双子がネノフの袖を引いて『ねだる』。それに促され、ネノフが再び腰を落とすと、遅れて到着したイオタと双子が『新しい兄弟』の顔を覗き込んだ。

「これで、テータも『おねえちゃ』」

 赤ん坊を覗き込みながら、テータはうっとりと微笑む。

「よかったね、イオタ」

 テータに続いたイータの言葉に、イオタはこくこくと頷いていた。
 どうやら、子ども達にとっては驚くべき事態ではないらしい。それどころか、兄弟ができて嬉しそうでもある。

「……多いんですか?」

 嬉しそうに赤ん坊を覗く年少3人に、は声を潜めてネノフに聞く。時折子ども達と一緒に孤児院の敷地を出て村の中を歩くこともあるが、村全体の戸数に比べ、孤児の数が多い気がする。とはいえ、に孤児の数の平均などわかるはずはないのだが。ネノフ1人が預かる孤児院に、子どもは8人―――たった今、9人になったばかりだ―――は、やはり多い気がした。
 そう言えば――――――と、は視線をズィータに移す。の袖を掴み、玄関まで一緒に来たズィータは、早々にから離れ、泣き声の正体を確かめようとしていた。ズィータもやはり一緒に赤ん坊を囲んで喜ぶのか? とも思ったが、彼女の反応は他の年少3人とは少々違う。玄関にうずくまったまま―――丁度、赤ん坊がいた辺りだろう―――何かを『漁って』いた。

「そうね、今は……少し多いわね」

 ズィータに視線を移したに、ネノフが微かな声で答える。『兄弟が増える』という意味だけならば歓迎しても良いことであったが、それをイコールで結ぶと『子どもが捨てられる』と言うことだ。決して歓迎して良いことではない。

「捨てられるのは、まだいい方」

 不意に背後から聞こえた声に、は振り返る。いつのまに背後まで来ていたのか、デルタが後ろに立っていた。
 デルタは他の子に習い、『新しい兄弟』の顔を覗き込んだ後、を見上げる。それから、『それ』をに示した。
 普通に生活している分には見えなかったが、デルタの細い首に一筋の影が見える。
 それが何か咄嗟に理解できずが眉をひそめると、デルタに説明を追加された。

「親に殺される子どももいる」

 この言葉に、はようやく気がついた。
 デルタの首に見える影は、『影』ではなく、『傷跡』だ。
 深い傷は、傷が癒えた時に肉が盛り上がり、傷跡として残る。
 そしてデルタの言葉の意味と、細い首に残った一文字のような傷跡が示すものは――――――デルタは親に殺されかけたのだ。おそらくは、未だに首の包帯を取らないイオタも。二人は血を分けた兄弟なのだから。

「……あったよ」

 デルタの言葉に、がなんと声をかければ良いのか。そう考えている間に、ズィータは目当ての物を見つけたらしい。籠―――たぶん、赤ん坊が入れられていた籠だろう―――を持ち上げ、その中に入っていた御包みを取り出した。ズィータはそれをデルタに手渡す。と、御包みを受け取ったデルタは、それをの持つ燭台へと近づける。ろうそくの灯りに照らされた御包みには、の知らない文字が縫い込められていた。

「……『ミュー』だってさ」

 御包みに縫い付けられた赤ん坊の名前を読み上げ、デルタは赤ん坊を覗くイオタの頭を撫でる。その手に、イオタはデルタを見上げ小さく口を開いた。
 音は聞こえない。
 が、確かに『ミュー』と、口だけを動かして、イオタは新しい家族の名前を呼んだ。






 黙っているといつまでも覗いていそうな子ども達を振り切るように、ネノフは腰を上げた。
 新しい家族を歓迎することは、何も今でなくても良い。
 むしろ、今一番に優先すべきことは、すっかり体の冷えてしまった赤ん坊を温めてやることだ。
 玄関の前に赤ん坊を置いたのが父親か母親かはわからないが、赤ん坊は親から引き離された不安に泣いている。ネノフが抱き上げ、とりあえずの温もりは与えられているはずだったが、泣き止む気配は見せなかった。
 まずは冷えた体を温めよう。そのためには、とネノフは己が次に取るべき行動を考える。赤ん坊の世話に必要な物は、すべて納屋にしまってある。最後に使ったのはイータとテータが孤児院に来た時であり、多少ホコリを被っているかもしれないが使えるはずだ。
 問題なのは――――――

「……さあ、困ったわね」

「困る?」

 早速、と行動を開始し、廊下を歩き始めたネノフに続き、は首を傾げる。
 いつも迷う事なく、自分に様々なことを教えてくれるネノフにも、悩むような事柄があるのか、と。

「今は、村にお乳の出る女の人がいないのよ」

 イパのところは、まだ当分先だし。と身重の妻を持つ村人の名を挙げて、ネノフは立ちどまる。
 やはり、赤ん坊には母乳が一番良い。が、それがないのなら代用品で済ませるより他にない。
 
「え?」

 一瞬だけ瞬いたに、ネノフは赤ん坊を差し出す。反射的に手を出したは、『それ』を受け取ってしまった。
 ずっしりと思いのほか重い赤ん坊を落としそうになり、は慌てて自分の胸へと引き寄せる。

「ちょっ……シスター!?」

 に赤ん坊を預け、そのまま何も言わずに歩きだしたネノフに、は慌てて追いすがる。慣れない重みに、うっかりすると赤ん坊を落としてしまいそうで怖かった。泣き続ける赤ん坊は、人肌に温もりをわけられて僅かに元気を取り戻したのか、の腕の中でもぞもぞと動き始めている。

「すぐにお乳の変わりを用意するから、お願いね」

「お願いって……」

 容赦なく言い捨てるネノフに、は情けのない悲鳴をあげた。
 は赤ん坊を抱いたことなどない。
 の腕の中の赤ん坊は見た目よりも重く、少しもじっとしていてはくれない。もぞもぞと動いて、今にも落としてしまいそうで怖かった。ひょっとしたら、自分の抱き方が悪いのだろうか? とも思うが、抱いたことがないので仕方がない。たしか、頭を支えなければいけない、と何かの本で読んだ気がした。とはいえ、頭を支えるとは、どういう意味だろうか? と忙しく思考し、混乱しているの横でデルタが動いた。
 デルタは赤ん坊の体重をより安定して支えられるように、との手を取り、赤ん坊の頭の位置を直す。
 デルタに教えられ、なんとか赤ん坊を抱きなおしたに、ネノフは呆れたような苦笑を浮かべる。

「何を慌てているの?
 あなただって、いつかは自分の赤ん坊を抱くんですから……そんなに怖がらなくていいんですよ」

「怖いっ! 滅茶苦茶怖いっ!!」

 が今抱いているものは『人間』だ。
 仔猫や仔犬とは違う。
 何かのはずみに落としてしまっては、一大事だ。

「落としたら怖いから、抱きたくないっ!」

 混乱して本音を漏らしたに、ネノフの苦笑は消える。
 自分の抱いているものが同じ人間だと解っているのは、良いことだ。が、子どもは天からの授かりもの。抱きたくないとは何事だ、とネノフは眉をよせる。赤ん坊の親とて、捨てたくて我が子を捨てた訳ではないはずだ。愛しくて大切で、生かしたいからこそ、手放すことを選んだ。にも関わらず、託した先で怖いから抱きたくないなどと。
 デルタに支えられながら赤ん坊を抱くに、ネノフは荒療治を決意する。どの道、この孤児院で暮らす限り、も赤ん坊の世話からは逃げられないのだから。

「……そりゃ、できれば落とさない方がいいけど、落としたって大丈夫ですよ。
 赤ちゃんは意外に頑丈だから」

「でもっ……」

「首はもうすわっているみたいだから、大丈夫よ。
 デルタ、をお願いね」

「わかった」

 本来ならば『お願い』されるのはであるのだが、ネノフはと赤ん坊をまとめてデルタに『お願い』した。
 にはそれが少々情けなくあり、が、仕方がないか、と肩を落とす。何よりも、一人で赤ん坊を抱くのには不安があった。

「ズィータはイオタ達を寝かしつけてちょうだい」

「うん。イータ、テータ、イオタ、お部屋いこ」

 ネノフの指示にズィータは頷くと、イオタの手を取る。くいっと手を引くと、イオタは名残惜しそうに赤ん坊を見上げたが、すぐに自分たちの部屋へと歩き出す。
 仲良く自分たちの部屋へと戻る子ども達を見送っていると、裏口からアルプハの声が聞こえた。

「シスター。エプサイランがヤギの乳はどれぐらい必要かって聞いてる。
 あと、ビータが……」

 と、ネノフが取ろうとしていた『次の行動』を、年長の子ども達が先回りしていたことには瞬く。
 赤ん坊の泣き声は聞こえていたはずだが、彼らが玄関まで出てこなかった理由がわかった。彼らは赤ん坊の顔を見ることよりも早く、赤ん坊を生かすために必要な仕事を自分たちで判断し、すでに始めていたのだ。
 自分は赤ん坊を抱くだけでも戸惑っているのに、とは瞬く。子ども達の手際は、驚くほどに良い。この場所―――むしろ、この世界―――にいると、自分がいかに応用力のない人間かを思い知らされる。日本で学んだ学問など、ここで生きていくためにはなんの役にも立たない。必要なのは本や学校でならった知識ではなく、生活を営むための経験だけだった。
 この世界に来てから、学ぶことは本当に多い。
 そう、改めて思い知らされた気がした。

「……さあ、
 お乳の代わりの作り方を教えるから、覚えてちょうだい」

 僅かに俯いたに、ネノフは再び苦笑を浮かべる。
 はもう二度と、抱くのが怖いなどとは言わないだろう。そう確信した。