早いもので、が孤児院で暮らすようになってから、すでに半月が過ぎた。
その半月の間、はただ無為に過ごすのではなく、できるだけ『この世界』を知るよう努力した。『早いもので』と感じるのは、ただただ懸命に、この世界を知ろうと足掻いていたおかげかもしれない。家に帰りたい、元の世界に帰りたい、と嘆くよりはよほど建設的だっただろう。とはいえ、に知ることのできる『世界』など、本当に僅かなものだ。それでも孤児院を手伝いながら、ある程度のことは学べた。
たとえば、が身を置いている施設は、自治領トランバンの外れにあるムサリルという名の村の施設らしい。村人からは『ネノフの家』と呼ばれる孤児院であり、敷地内にあった3棟の一つがそれだ。二階建てだが、建物の大きさとしては真ん中になる。一番小さな建物は家畜小屋と納屋を兼ねており、逆に一番大きな建物は所謂『教会』的な役割をもち、休息日には村人が礼拝に訪れていた。どんな神を信仰しているのかには理解できなかったが、礼拝堂を覗くと祭壇の上に木彫りの神像が6柱ある。どれも美しい女性の姿をしていることから、少なくとも孤児院を預かる修道女ネノフの信仰している神は、女神だ。それぞれが何を司る女神なのかは、いつかネノフに聞こうと思う。
にはまだ、神様の名前や役割よりも先に覚えることが一杯ある。
それは、自分の仲間となる孤児院の子どもの顔と名前を覚えることだった。
孤児院で一番年少なのが、茶色の髪に緑の瞳をしたイオタ。3歳の男の子で、どうやら甘えん坊らしい。初日からに良く懐き、人見知りとは縁遠い性質を持っていた。未だに声を聞かせてはくれないが、嫌われているということはない。いつも気がつくとの側に来ており、手が空いていると見るやべったりと甘えても来る。
次にイータとテータの黒髪に黒い瞳をした双子が続く。こちらもイオタと同じく3歳だが、誕生日よりも孤児院に引き取られた日でイオタより『年長』とされていた。最近孤児院にきたイオタの正確な誕生日はわかっているが、赤ん坊の頃に孤児院に来た双子の誕生日は誰も知らない。便宜上定めた誕生日だけで判断するのなら、双子の方がイオタの妹分になる。イータは健康そのものだが、テータは少々身体が弱い。少し『はりきる』と、翌日にはすぐに熱を出して寝込んでいた。
双子とイオタを纏めるのが、4歳になるズィータ。金髪に青い目をした少女で、髪を肩で切りそろえている。こちらはイオタとは真逆で警戒心が強く、が孤児院に住むことになった初日の夜、寝かしつけられるその瞬間まで、に対して一言も口を開かなかった。とはいえ、警戒心が強いぶん一度慣れてしまえばイオタ同様の甘えん坊を発揮している。馴染みのない『おやすみのキス』という習慣を、に身に付けさせたのもズィータだった。
年少4人とほんの少し離れてエプサイランという7歳の少女がいる。茶色の髪に緑の目をしていて、家畜の世話が上手い。掃除や畑の世話等は子ども達とネノフが手分けをしてやっているが、家畜の世話はほとんどエプサイランの独壇場だった。彼女以上に手早くヤギの乳を搾れる者はいなかったし、鶏の巣から卵を抜き取るのも手際が良い。は一度だけ世話を手伝おうと鶏舎に入ってはみたが、凶悪としか言いようの無い親鳥の猛攻に、撤退を余儀なくされた。家畜の世話に関してはネノフがエプサイランに一任している理由を、嫌というほど―――むしろ痛いほど―――理解させられた。
エプサイランのすぐ上に、デルタという8歳の少年がいる。黒髪、とイオタとは違う髪の色をしているが、瞳の色は緑で同じ。二人は血を分けた実の兄弟だった。それが理由なのか、手が空いた時間にデルタはイオタの側に居ることが多い。必然的にの側にいることも多くなり――――――時々質問攻めにされる。とかくデルタは勉強が好きらしい。はこちらの文字を読むことができなかったが、日本で学んだ知識はある。8歳の少年の知識欲を満たす程度の知識ならば、問題なく披露することができた。
10歳になる女の子の最年長がビータ。赤毛に青い瞳をしている。そばかすが少しあり、癖のついた髪をおさげに編んでいる。あくまでも『女の子の最年長』ではあったが、精神年齢で言うのなら子ども達の中での最年長といってもさわりはない。子ども達の中でビータが一番しっかりとしていた。はネノフから仕事を教わることが多いが、ビータからもよく物を教わる。そう、10歳の少女から。
最後に、本当の最年長にアルプハという11歳の少年がいる。鳶色の髪と瞳をした少年で、騎士に憧れていた。イグラシオとエンドリューが大好きで、いつか彼らのような騎士になりたいと言っては、体を鍛えている――――――と言えば聞こえは良いが、実際にはただの『わんぱく坊主』だ。落ち着きのない元気の塊のような少年で、それに付き合わされたデルタが時々かすり傷を負って帰ってくる。もちろん、アルプハ本人が負う傷は、それ以上のものであることも多い。
合計8人の子ども達。それらの顔と名前、性格や趣向を覚えるのも大変だったが、が覚えるべき事はこれだけではない。
井戸水を生活用水に使っていることなど、可愛いものだった。
やはりというか、台所周りが日本とはまったく異なる。古き良き囲炉裏や竈があるような日本の民家――――――などという次元の話ではない。当然、洗濯機も冷蔵庫はない。電子レンジもなければ、ガスコンロもない。すべてが手作業となる日本とは勝手の違う家事を、はネノフや子ども達に教わることでようやくこなす事ができていた。
が、が手伝う孤児院の経営は、家事ばかりではない。
教会を兼ねているため寄付や寄進もあるが、ネノフの家は基本的に自給自足を宗としている。自家菜園と呼ぶには広すぎる畑も、そのためだ。
その畑の世話も、子ども達やの大切な仕事となる。これを怠ると、しっぺ返しはすぐに自分たちに降りかかるので、自然という物は恐ろしい。イグラシオの言った『毎日食べられるかはわからない』という言葉は、決して冗談ではなかった。孤児院自らの蓄えとイグラシオの寄付のより、自分たちは今のところ毎日食事を摂れている。が、それも朝夕の2回だ。昼食は無い。もっとも、太陽の昇る少し前に起きだし、太陽が沈むのとほぼ同時に眠る生活を送っていれば、我慢できない物ではなかった。
そんな暮らしぶりなので、粗食にも慣れるのが早い。最初は戸惑った野菜も台所を手伝ってみれば、形や大きさが違うだけでの知っている野菜を見つけることもできたので、楽しい。明らかに見た目に違和感のある野菜もあることはあるが、『自分が見たことのない』物など、世の中には掃いて捨てるほど存在する。その一つだと思えば、克服することもできた。食べてみると、癖のある味が存外美味くもある。それよりも、はまだ孤児院で暮らすようになってから肉を食べていない。肉を食べる時には、その家で飼っている家畜を絞めて捌くと聞いた。の場合、毎朝産み落とされる卵を取るだけでも大騒ぎになるのに、それを捕まえて絞めるとなると気が遠くなる。百歩譲って鳥は良い。それよりも大きな――――――牛やブタを食べたくなった時も、ここでは同じ事をするのだろう。とはいえ、肉はご馳走だと聞いた。そう滅多な事では食卓に上ることは無いだろう。特に、農村でありながら、農民が食べるのに困窮しているこの村においては。
の感想としては、暮らしは大変だが、逆に刺激的で楽しくもある。
刺激的というよりは、カルチャーショックだろうか。
には多くの日本人がそうであるように、親愛の情を込めてキスをするという習慣がない。が、ファンタジー世界のような服装に身を包む孤児院の子ども達は違った。
毎夜、毎朝当たり前のように親愛のキスをする子ども達に、最初は戸惑った。
帰る方法を思いだすまで、という条件のもと、正式に孤児院に預けられる事となった夜。孤児ではないが孤児院に身を置き、仮に自分たちの家族となったに、子ども達は当然のようにキスをねだった。それに対し、どう返したものかとは戸惑い、素直に暴露した。
親愛のキスなど、した事が無い、と。
それを聞いた子ども達の反応は、の想像とは違った。
親愛のキスをしたことがないというの言葉を、親愛のキスすら十分にもらえなかったと受け取り、『自分たちと同じ』だと理解した。そして、自分たちがネノフから受けてきた愛情を分け与えるかのように――――――に親愛のキスを『贈って』くれた。それも、かなり熱烈に。それまで一言も口を利いてくれなかったズィータが、これをきっかけに話してくれるようになったので、怪我の功名と言えなくもない。だが、計8人の子どもから一斉にキスを贈られるのは、やはり中々に迫力がある。正直なところ、食べられてしまうのではないか、と少しだけ怖かった。
(……そういえば)
と、は思い出す。
孤児院の住人になった、初めての夜。
キスの嵐の後、イグラシオも子ども達にキスをしていた。
(顔は怖いけど、いい人)
ズィータに傷の無い右頬へとキスをされ、それでも少し痛そうに顔を歪めていたイグラシオの顔を思い出し、は苦笑を浮かべる。
顔は怖いし、言うことも厳しい。が、そんな事は気にならないほどにイグラシオは周りに対して細やかに気を配る。
ネノフの言うことには、元々はこの孤児院で預かっていた子どもの一人だったらしい。それが良い家に養子として引き取られ、今は領主のいる街で、領主の身を守る騎士をしている。その縁で成長した今でも孤児院の子どもは自分にとって兄弟のようなもの、と何かにつけて気にかけてくれ、時々小麦や薬を寄付してくれている、と。
『もっとも、最近は訪ねてくる回数が増えたわね。
前は月に一度来るかどうかだったけど、ここしばらくは十日と日を空けずに顔を見せてくれる』
やっぱり、若い娘がいると違うわね。そう意味深に微笑むネノフを思い出し、は笑みを深めた。
ネノフには悪いが、イグラシオの目当ては自分ではない。
イグラシオはに対して気を配る振りをして、孤児院へ来る回数を増やしただけだ。
本人に言われているので、間違いはない。ネノフもそろそろ歳なので、気を配って欲しい、と。子ども達だけでは手の回らない体格的にも困ることがそろそろあってもおかしくはない、と。
とはいえ、は体格こそ成人女性ではあったが、『この世界』における一般常識や知識に疎い。老女に対して気を使って欲しい、と側に置くには何も知らない子どもを置くのと大差はない。そこだけは、イグラシオにとっては誤算であっただろう。逆に、に色々教えなければ、とネノフがますます元気になったので、その誤算も嬉しい誤算と言った方が正しいだろうが。
時々ネノフにやり込められる銀髪の騎士を思い出し、は笑う。
顔は確かに怖い。が、いい人。
あの騎士は、たった数年育てられた恩を忘れず、成人を過ぎた今でもネノフを育ての母のようなもの、と慕っているのだから、と。
まだ眠くないと拗ねる双子の少女たちを2段組のベッドに押し込めて、は額へと『おやすみのキス』を落とす。
最初の一週間はなんとなく緊張したが、今では自然にキスをすることができる自分に、は僅かに驚く。慣れとは恐ろしい。それとも、すでにそれだけの時間を、この世界で過ごしているだけなのか? とも不安に思うが、が自然体にキスをすることができるのは、子どもたちだけだ。男女問わず、大人に対してはするのも、されるのも未だになれない。そこに少しだけ安堵する。
この世界に対してすっかり慣れきってしまうのは、やはり怖かった。
双子にキスをしたあと、はすでに向いのベッドで横になっているズィータの額に唇を落とす。ズィータはすでに睡魔の誘惑に負けているのか、双子のようにまだ眠りたくないとごねたりはしない。の唇を額に受けると小さな声で答えた。
「……おやすみなさい、……」
「?」
気のせいか、おやすみなさいの後にまだ何か続いた気がする。が、聞き取れなかったので、は首を傾げるだけにした。
言いたいことがあるのならば、そのうち自分から言い出すだろう、と。
や大人ならば言い淀むような内容も、子ども達は遠慮なく口に出す。
遠慮や人見知りをしていては、ここでは生きていけないと、幼くして孤児となった彼女たちは、誰よりも理解していた。
自分の言葉は聞こえたようだが、はっきりとは聞こえなかったらしい。首を傾げたにズィータはそう理解したが、言い直すことはしなかった。
また今度。これからいくらでも『呼べば』いいのだから――――――と、目を閉じかけ、ズィータは眉を寄せる。
睡魔の誘惑をも蹴飛ばす異変を、感じ取った。
ズィータが目を開くと、も同じように眉を潜めてあたりを見渡している。
「……なんの音?」
聞きなれない音に、はあたりを見渡す。が、音の発生源らしきものは何も見当たらない。ということは、音は部屋の外から聞こえてきているのだろう。
音の正体を確かめるべく、が立ち上がると、ベッドに横になったばかりの双子とズィータもそれに続く。ベッドに戻りなさい、と言おうとも思ったが、やめた。
廊下からも物音がする。
ということは、向いの少年たちの部屋でイオタを寝かしつけていたネノフも、この音に気がついたのだろう。
は少女たちの部屋から顔を出し、廊下を覗く。タイミングを同じくして、少年たちの部屋からネノフとイオタが顔を覗かしていた。
はネノフと顔を見合わせると、音の聞こえる方向へと視線を移す。
その視線は自然と音の発生源を追い、廊下をまっすぐと突き当たり、玄関方向へと向けられた。
「……外?」
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