盗賊を追うエンドリューを見送った後、イグラシオは馬の鞍につけた荷物を漁る。いつ何が起こっても良いように、簡易の治療道具がそこに入れてあった。多少深い切り傷ではあったが、応急手当には十分だ。
 一人で傷の手当を続けるイグラシオを、は遠巻きに見守る。
 手伝った方が良いのだろうか? そうは思うが、何をしたら良いかが判らない。そして、傷は左頬――――――と、鏡を使わなければ見ることのできない位置にあるというのに、イグラシオの手際は恐ろしく良い。ただの勘なのか、慣れているのかといえば、おそらくは後者だ。昨夜もそうであったが、相手が盗賊とはいえ、イグラシオは剣を振り下ろす事に対して迷いを見せない。人間相手に、それを傷つけるための剣を振るっているというのに、だ。ということは、自身に刃を受けることも多々あったのだろう。
 怖々と作業を見守るに、イグラシオは早々に処置を終える。血止めの薬を塗り、当て布をしてから、ようやくイグラシオはへと顔を向けた。

「さて……」

 エンドリューは賊を追い、自分は負傷。とりあえず、探していたの身柄は確保したが、彼女が黙って家を出た理由を自分は知らない。このまま連れ戻そうとして、素直について来るかは怪しいだろう。とはいえ、帰る場所を思い出したのならば馬もあることだし、このままをそこへ送っていっても問題はない。



「は、はいっ!」

 帰る場所を思いだしたのならば送っていく。そう提案しようと思っただけなのだが、イグラシオの呼びかけには過剰に反応した。
 そのあまりに過剰な反応に、イグラシオはの視線の先――――――自分の手のひらを見た。自分の手のひらは、頬から流れた血によって赤く染まっている。
 つまり、は血に反応しているのだ、と気がついた。

「……そんなに堅くならなくてもいい」

「はい、すみません」

「謝る必要もない」

 盗賊相手に不覚を取ったのは、自分の落ち度なのだから。
 そう言外に込めるが、には通じなかった。

 はイグラシオの血に濡れた手をじっと見つめると、眉をひそめる。

「だって……」

 イグラシオがなんと言おうが、自分の行動がイグラシオの気を削ぎ、傷を負わされる原因となったことに違いはない。
 なんと詫びればいいのか……とが俯くと、イグラシオはの視線から手を背中へと隠してしまった。

「女性を守るために負った傷は、騎士としては勲章だ。
 気にする必要はない」

「でもっ……」

「それよりも」

 なおも言い募ろうとするを、イグラシオは遮る。
 の口から聞きたいのは、謝罪の言葉ではない。

「何故、エンドリューにも、ネノフにも何も告げず、村を出たのだ?」

 村を出る以前に、孤児院の敷地から出るだけでも、一時的にとはいえ孤児院へと預けられた身のは、誰かにそれを告げるべきだった。
 が、はそれを怠った。黙って孤児院から抜け出し、それどころか村からも外れ、森の中へと。
 イグラシオがを見つけられたのは、ただの幸運にすぎない。出自不明のが向かいそうな場所として、を見つけた場所へと着てみただけだ。そこで幸運なことにを見つけ、不運なことに盗賊と出くわした。

「それは……」

 イグラシオの言葉に、は答えなければならない。
 は二度もイグラシオに救われ、故意ではないにせよ傷まで負わせてしまったのだから。
 とはいえ、どう説明したものか……とは考える。いきなり自分は別の世界から来た。なので元の世界に帰る方法がないか、探しに出た等と正直に話しても、信じてはもらえないだろう。異邦人となってしまったからしてみれば、この世界の多くは違和感を覚えるものであり、『この世界』が自分の生まれた世界とは『違う世界』だと自覚できた。が、『この世界』に生まれたイグラシオにしてみれば、が覚える違和感は当たり前のものだ。と同じ過程を経て、を『違う世界の住人』と認識することは難しい。がまったく常識の異なる世界から来たと言ったところで、イグラシオにはそれが認識できないのだ。認識できないものを信じてもらえるとは思えない。むしろ、信じない方が普通であろう。には、自分が別の世界から来たと証明する方法もなかった。

 言い淀むに、イグラシオは眉をひそめる。
 誰にも行き先を告げずにが預けられた家を出る理由を、イグラシオなりに考えてみた。

「……盗賊の仲間、とも思えないが」

 村を出てがしていた事といえば、盗賊の頭目に会っていたぐらいだ。被害者の振りをして保護され、預けられた場所を内側から探り、あとで合流した仲間に情報を流すか、盗賊を自ら招きいれる。そういう盗みの手段もある。
 とはいえ、は盗賊と自分が対峙した際に、どちらの味方もしなかった。という事は、は盗賊の仲間ではない。

「それは違います! わたしは、わたしは……」

 盗賊の仲間などと、とんでもない。そう語尾を強め、イグラシオの青い目を見て反論するが、はすぐに勢いを失う。
 自分のせいで傷を負った男の目と、血の滲む白い当て布を見つめ続けることに耐えられず、はそっと目を逸らした。
 ただ、家に帰りたかっただけ。
 そう続けたかったのだが、の唇からもれたはずの言葉は、自身であっても聞き取れないほどに小さく消える。

「……帰るべき場所は、思いだせたのか?」

 ほとんど聞き取れないほどの小さな声だったが、イグラシオはの『家に帰りたかった』という言葉を拾い取ってくれたらしい。幾分穏やかになった声音に、は小さく頷いた。

「場所は忘れていません。けど……」

 帰る方法がわからない。
 それをどう説明したものか、とは再び考える。
 どう考えても、誤解を与えず、またすんなりと相手を納得させる言葉が思い浮かばなかった。






「……けど、帰り方が判らない」

 答えを急かさないイグラシオに、はたっぷりと考える時間を与えられたが、結局良い答えは見つからず、素直に感じたままを言葉にした。今すぐに帰り方が判らないのならば、時間をかけて説明しても良いはずだ、と自分に言い聞かせて。

「ここは、わたしの住んでいた所じゃない……」

 飲み水や野菜への違和感もあるが、イグラシオと盗賊のやり取りを間近く見て、違和感よりも恐怖が勝った。
 ここは自分のいるべき世界ではない。
 一刻も早く元の世界へ帰りたい、と。
 情けないことにつんツンっと痛む鼻筋に、は忙しく瞬きをする。
 まさか、この歳になって『迷子』で自分が泣きそうになるとは思わなかった。

「帰る方法がわからない……?」

 の言葉の意味が判らないのだろう。戸惑いを含むイグラシオの声音に、は素直に頷く。
 虚勢も嘘も必要はない。
 ただ素直ににとっての真実を語る。

「……では、今のところは帰れないのだから、諦めてくれ」

 イグラシオは、今のにとってはこれ以上ないであろう残酷な言葉を呟き、を見つめる。
 イグラシオにはの言っている言葉の意味は理解できないが、目の前の娘が嘘をついていないことだけはわかった。というよりも、言っている本人が一番己の状況を理解できておらず、戸惑っているのがわかる。そして、本人にできる限りの誠実な回答をしている、とも。
 となれば、理解できずとも信用するしかない。
 少なくともは盗賊の仲間ではなく、帰る場所があるが帰り道を思い出せないだけなのだ、と。

「帰る術とやらを思いだしたら、私が必ずそこへ送っていくと約束しよう」

「……はい」

 には、自分の言葉をイグラシオがどのように受け止め、理解したのかはわからない。
 が、矛盾した回答しか返せない自分に対し、イグラシオが取れる最大限の譲歩が『今は諦めろ』であり、『送っていく』という『約束』の言葉に繋がることは理解できた。
 『思い出したら』というイグラシオの言葉に、まだ僅かな誤解があることはわかったが、は素直に頷く。
 今は――――――そうすることが最良の方法だと、思った。