ネノフと呼ばれる初老の女性にティーカップを手渡され、は小さく礼を言ってから、それを口に運ぶ。
 ほんのりと香る匂いに覚えはなかったが、ハーブティーか何かだろう。燭台の灯りでは光量が足りず、はっきりとした色まではわからないが、少なくとも紅茶ではない。喉を通り胃へと落ちる温かい液体に、はホッとため息をもらした。
 不思議な味がする。
 が、嫌いな味ではない。
 今のにとって胃の中に物を入れるという行為は、心を落ち着けるのに丁度良い役割を果たしてくれていた。
 というよりも、もしかしたら老女は、それを狙ってこのお茶を煎れてくれたのかもしれない。カップ越しに老女を盗み見ると、と目のあった老女は柔らかく微笑んだ――――――と、僅かに床が軋む音がする。老女とがつられたように音のした方向へと顔を向けると、音をたてないようにと静かにドアを開けてイグラシオが奥から戻ってきた。

「……少しは落ち着いたか?」

「あ、はい……」

 ドアを閉め、部屋に入ってきたイグラシオに、老女はティーカップをテーブルに置く。出されたハーブティーを口に運ぶイグラシオの動きを何気なく眺めてから、はこっそりと室内を観察した。
 『ネノフの家』とイグラシオは言っていたが、どうも個人の家とは考え難い。自分とイグラシオの座っている椅子の数は老女が三世帯で住んでいるとしても数が多かったし、ハーブティーの置かれた年代を感じさせる木製のテーブルも大きく、数も3脚ある。何かの施設だろうか? とも思うが、家の外で見た月明かりに照らされただけの外観からは、いったいなんの施設なのかは判らなかった。というよりも、驚くべきことに盗賊に襲われた森からこのネノフの家に辿り着くまでの間、それなりの距離を歩きはしたが、街灯などは一つもなかった。今が休んでいる建物と、少し大きな建物が別にもう一棟。それとは逆に小さな建物が一棟。月明かりに照らされた建物の数は計3棟。その3棟から構成される施設の総称として『ネノフの家』とイグラシオは呼んでいるのだろう。建物に入る前の位置関係を思い出してみると、イグラシオが入ってきたのは別棟の方向になる。ということは、先に捕らえた賊とエンドリューと名乗った見張りの少年騎士は別棟にいるのだろう。

 イグラシオに答えたように、僅かずつだが落ち着きを取り戻しつつある頭で、は目の前の男を観察した。
 がこれまでに見たことがないような見事な銀髪は、ろうそくの灯りを浴びて暖かな光を放っている。漆黒の鎧は着用されたままだが、腰に下げられていた剣は、今は壁に立てかけられていた。建物に入って早々、老女に剣を外せと言われたせいでもあるだろうが、元々イグラシオにはこの建物内で帯剣する気は無い気がする。なんとなく、だったが。
 見事な銀髪を持ち、鎧に身を固め、馬にのって剣を振るう、まるでファンタジー世界の騎士のような言い回しをする男性。
 これが、イグラシオに対するの感想である。

(なんか、変なことになったなぁ……)

 こくり、とハーブティーを喉の奥へと流し込み、は視線を落とす。
 じんわりと腹部に広がる温もりに、まるで夢のような出来事ではあるが、これが夢ではないと実感させられた。

(イグラシオさんっていったっけ?
 いい人そうだけど、顔が怖い)

 ちらり、と一度は落とした視線を目の前の男に戻す。
 それなりに整った―――むしろ、かなり良い部類であろう―――顔をしていたが、最初に力いっぱい凄まれたこともあり、正視するには勇気がいる。

(ってか、あの鎧。良くできてるけど……コスプレ? こんな夜中に?)

 しかも、森の中で? と考えて、は眉をひそめる。
 自分は今、極普通に『森の中』と考えた。
 自分にとっては、小さな公園のちょっとした『林』であって欲しい、と願った場所に対して。
 そう思ってしまえば、もう誤魔化しは効かない。
 あの場所は確かに『森』であって、の知っている『場所』ではなかったのだろう。
 現にあの森を出て、この『ネノフの家』まで歩いてきたが、人里らしい開けた場所にあるこの建物まで来ても、の見知った景色は無かった。建物はおろか、山々の形までもがの知っている風景となに一つとして合致しない。
 そして、の知る限り、の住んでいた街に森と呼べるような場所は存在しなかった。必死に公園の林だろうと自分を誤魔化してはいたが、例え公園の林であったとしても、人が迷えるほどの広さはないだろう。の住んでいた町に、人が迷えるほどの広大な公園などない。にとって公園といえば、子どもの頃に遊んだ小さな公園があったが、そこにあった林は、本当に小さな林だ。子どものころの視線ですら小さな林と思えた場所だ。大人となった今のからしてみれば、林と呼ぶのもはばかられるかもしれない。

 どう自分を誤魔化しても、あの場所は『森』なのだ。

 そっとため息を漏らしたに、イグラシオはティーカップを置く。中身はまだ残っていたが、自分の顔を盗み見た後、視線を落としたの瞳には理性の輝きが宿っている。ようやく本当の意味で落ち着きを取り戻したらしい。今ならば、先ほどよりはまともな回答が得られるだろう、と。

「それで、あなたはどこの村の者だ?」

「え?」

 『村』という聞き慣れない単語に、は瞬く。
 普通に考えれば『町』か『街』だろう。今時『村』などと呼ばれている集落がないことはないが、『町』に比べたら圧倒的に少ないはずだ。
 僅かに眉をひそめたに気づかず、イグラシオはいくつかの名を上げた。

「あの森から一番近い村はこのムサリルだが、あなたはこの村の住人ではない」

 ちらり、とイグラシオが老女を見ると、ネノフはそれを肯定するように頷いた。
 なにやら気心が知れているらしい二人の仕草に、はイグラシオとネノフはただの知り合いではないのだろうと感じ、新たに得た情報を整理する。
 あの場所はやはり彼から見ても『森』であり、今いる場所は『ムサリル』という村にある、『ネノフの家』という何らかの施設だ、と。

「……となると、ウエルかアロあたりが次に近いが――――――」

「ウエル? アロ?」

 聞き覚えのない名前に、は首を傾げる。
 その仕草に、イグラシオと老女は眉を寄せた。

「……違うのか?」

「どっちも、わたしの住んでた町の名前じゃない……です」

 候補を挙げてくれるイグラシオには申し訳なかったが。
 嘘偽り無く、二つとも聞き覚えのない名前だった。

「では、シムンヒあたり……」

 と、別の名前を挙げてから、イグラシオは一度口を閉ざす。

「いや、それよりも……何故あんな時間に、森の中に? それも、女性が一人で」

「え? それは……わたしも知りたいです」

 もっとも過ぎるイグラシオの問に、も至極まじめに答える。が、この場合、まじめに答えたつもりではあったが、相手にとってはそうは受け取ってもらえないだろう。どう考えても、の答えはイグラシオの問に対する答えにはなっていない。しかし他に答えようもなく、は困ったように首を傾げる。にしてみれば、帰宅の途中にあり、気がついたらあの場所にいたのだ。それ以上も、それ以下の理由もない。

「気がついたら、あそこに居て……
 馬の足音がして、目の前を通り過ぎていって、男の人が2人……」

 引き返してきて。
 そう続けようとしたのだが、は口を閉ざす。
 声を出したいのだが、出てこない。
 真摯に自分の心配をしてくれているイグラシオに対し、自分も真剣に答えたいのだが、どうしても舌が回らない。
 声を出そうとは思っているのだが、の唇から音がもれる代わりに、カタカタと肩が震え始めた。

「あ、れ……?」

 カタカタと震える肩をとめようと、両手で押さえつけるのだが、震えは治まらない。
 自分は何もされてはいない。
 確かに怖い思いはさせられたが、髪一筋とはいえ、自分はあの男達には触れられていない。
 そう解っているのに、あの二人の男を思い出すとの体は震えた。

「大丈夫よ。怖い思いをしたのね……」

 不意に側へと移動してきた老女に椅子の背当てごと抱きしめられ、は瞬く。
 の力以上に力強く体を抱きとめられ、女性特有の柔らかさと温もり、表現し難い何かに包まれて、は目を閉じた。
 老女の入れてくれたハーブティーもそうだったが、抱擁という行為にも、人の心を落ち着ける効果がある気がする。そういえば、イグラシオの手に触れた時も、その温もりに僅かながら落ち着きを取り戻せた。
 は老女に抱きしめられるままに首筋に顔を埋め、深呼吸をする。皺の刻まれた首筋に、ハーブティーと同じ匂いが染み付いていた。
 ゆっくりと深呼吸を繰り返すと、徐々にの震えは治まる。
 自分を抱きしめる老女の身体から少しだけ―――完全に離れるには、まだ少し惜しい気がした―――体を離して、はイグラシオに視線を移した。

「……あの、『ここ』はどこ、ですか?」

 ムサリルという名の村だとは聞いたが、それはたぶん、の知りたい『ここ』とは根本的に異なる。

「あなたは、なんで……鎧なんて着ているの?」

 ネノフに抱かれ、落ち着きを取り戻したは疑問に感じたことを全て口に出す。相手に与えられる情報を拾い取るより、自分から必要なことを聞いたほうが、お互いに時間のロスを最小限に抑えられる。そう思った。

「それって、コスプレ? なんでこんな時間に? こんな場所で?」

 ぽろぽろともれる、としては至極真っ当な疑問に、今度はイグラシオと老女が瞬いて顔を見合わせる。

「あの馬本物? なんでこんなところに馬がいるの?」

 馬に本物も偽物もあるのか、とイグラシオが思うよりも早くは次の疑問を口に出す。

「その髪は染めているの? それとも脱色? 目はカラコン?」

 の疑問は、それだけではない。
 イグラシオの鎧と剣も気になるが、他にも気になることが多すぎる。室内灯の役割を果たす電灯がなく、燭台にろうそくが灯されている。椅子と大きなテーブルのある室内は、おそらく食堂か何かだろう。少なくとも一般的な日本家屋には存在しないであろう暖炉があった。
 わざわざ室内を見渡さなくとも、疑問はのすぐ側にもある。
 を宥めるように抱きしめている老女。ろうそくの明かりにやや赤みを帯びて見えるが、その服は白と灰色を基調とした――――――所謂修道服だ。頭巾こそかぶってはいないが、他に思い浮かぶ名前は無い。
 二人揃ってコスプレが趣味……と考えられなくもないが、そう片付けるには、建物や馬、小道具に至るまでの全てが大掛かりすぎる。
 少なくとも、個人でできるレベルではない。
 新手の素人ドッキリか何か。そう考えるのが妥当だとは思うが――――――イグラシオを見ていると、そうは思えない。銀色の髪は脱色か染めているとも思えるが、顔立ちはどう見ても日本人ではない。カラーコンタクトを入れれば瞳の色は変えられるが、それだってじっくりと見れば、誰にだって見破れるものだ。なによりも、素人どっきりだと仮定したところで、を騙して得をする人間はいない。
 胃へと落ちるハーブティーに落ち着きを取り戻し、はイグラシオと老女を見比べる。
 だいぶ落ち着けはしたが、逆に疑問符ばかりが浮かび上がり、すっきりしない。

「……ネノフ。すまないが、をしばらく預かってもらえないか?」

 首を傾げたままではあるが、とりあえずの疑問はすべて口に出したらしいに、イグラシオは老女へと視線を移す。その視線を受け、老女は再びの頭を抱き寄せた。

「言われなくてもそのつもりですよ。
 可哀想に……、相当怖い思いをさせられたのね……」

 優しく髪をすく老女の手の感触と、なにやら困惑気味なイグラシオの視線を受け、は瞬く。が、すぐに気がついた。
 順を追って考えればまったく筋の通っていないの言動に、どうやら『頭の可哀想な人』と判断されたらしい。そんな気がする。
 確かに、自分とイグラシオ達には決定的な考え方の違いがあるらしいことは解るが、だからといって、この誤解はあんまりだ。
 はすぐに誤解を解こうと口を開きかけるが、ドアをノックする音に再び口を閉ざす。老女に抱きしめられているため、首を向けることもできなかったが、イグラシオが戸口へと移動し、ドアを開いた。

「……?」

 戸口の人物と、イグラシオのひそひそとした会話が聞こえる。が、内容までは聞き取れない。
 彼らは僅かに会話を交わすと、鎧姿の男が一人、室内へと入ってきた。今度の人物は少年ではない。年齢は、青年を通り過ぎた中年といったところか。おそらく先ほどの森の中で盗賊を追っていった騎士だろう。頬に傷があり、髪を短く刈りそろえた男だった。
 室内に入ってきた男はとネノフに小さく会釈をすると、室内を横切り別棟へと続くドアへ向かう。そのまま部屋を出て行く後ろ姿を見送ると、テーブルの側まで戻ってきたイグラシオが口を開いた。

「今夜のところはエンドリューを置いていく。
 帰る村を思い出したら、彼に伝えるといい。送っていこう」

 程なくして別棟へと続くドアが開き、二人の騎士と捕縛されたままの盗賊が姿を現す。どうやら、イグラシオが『ネノフの家』へ寄ったことはを預ける目的と、後から来た騎士と合流する目的があったらしい。

「私は捕縛した賊をトランバンへ連行する。
 明日、落ち着いたらもう一度話しを聞かせてくれ」

 そう言いながら部屋を出るイグラシオと騎士を見送るため、は老女と共に玄関先まで移動した。
 月明かりの下で馬の準備をする少年騎士の横に、ピクリとも動かない人影がもう一つある。盗賊を追いかけていった騎士は、盗賊に追いつき捕縛することに成功したらしい。近づいて顔を確認したいとは思わなかったが、恐らくはを襲った男だろう。そうでなければ数が合わない。

 捕縛した盗賊を馬につなぎ、夜の闇の中へと消えていく2人の騎士を見送りながら、はそっとため息をはいた。