一瞬の困惑。
 不意に覚えた違和感には家路を辿る足を止め、その場で瞬く。

「……え?」

 ゆっくりと首を廻らして鬱蒼と生い茂る木々を確認した後、最後には空を見上げた。
 ぽっかりと開けた黒い木々の狭間に、夜空に浮かぶ丸い月が見える。
 そう、今は夜だ。太陽は地平線の彼方へと落ち、一番星どころか空には星がいくつも輝いている。

 の記憶にないほど多くの星々が。

 見上げた星空にも違和感を覚え、は首を傾げる。
 何がおかしいのか。
 これといって明確な答えはでてこない。
 が、何かがおかしい。
 それは確かだ。
 は視線を落とし、再び辺りを見渡す。
 鬱蒼と生い茂る木々からは、違和感の正体を見つけ出すことができなかった。
 ただ、漠然とした違和感が星空と同様にの心をかき乱す。

「公園、……かな?」

 根拠のない違和感に不安を覚え、は独り言つ。
 帰宅途中にあるはず自分が、なぜ公園にいるのか。そもそも、帰路に公園などなかったはずだ。もしかしたら自分がその存在を知らなかっただけで、本当は近所に公園があったのかもしれない。
 公園の林というよりは、森と呼んだ方が相応しいと思える雰囲気に、は『早く家に帰ろう』と一歩足を踏み出し――――――柔らかい足元の感触に、再び足を止めた。

 自分は、何故地面の上に立っているのか?

 そう気がつくと、漠然とした違和感の正体がチラリと頭の隅をよぎる。が、それに気がつかない振りをして、は視線を落とした。
 足元には地面がある。
 当然だ。自分は二足歩行で歩く人間であり、翼を持つ鳥類ではない。自力での移動手段は足を頼るものに限定されており、安定した足場がなければ、自分はどこへも行くことができない。
 問題なのは、地面そのものではない。その質だ。
 の生活圏の多くはアスファルトに舗装された地面であり、むき出しの土に覆われた地面は少ない。確かにまったくないという訳ではないが、それこそ公園や歩道横の植え込みぐらいだろう。少なくとも、の帰路に見渡す限り裸の土に覆われた地面はなかった。それにも関わらず、の足元にはむき出しになった土がある。

 慣れ親しんだアスファルトに覆われた地面が、の足元には存在しなかった。

 それに気がつくと、は眉をひそめる。
 これは本格的におかしなことになっている、と。
 いつもの帰り道……とぼんやり歩いていたのが失敗か。ぼんやりと歩いている間に道を外れ、いつもの道とは違う道へと入ってしまったのだろう、と結論づけては考える。自分の家周辺に、人が迷えるほどの林を持った公園などあっただろうか? それとも、いつもは家々の影に隠れて見えないが、少し道を違えれば小山等があったのだろうか? とも。
 しばらく考えてみたが答えは見つからず、はそっとため息を漏らす。

「いくらなんでも、ボケすぎでしょう……?」

 我ながら、と自嘲する。
 それから気分を切り替えて、再び足を踏み出す。
 例え知らない公園や小山とはいえ、少し歩けばすぐに舗装された道にでるはずだ、と結論付けて。






 歩けども、歩けども舗装された道路へ辿り着く事はなく、漠然とした違和感はいまやすっかりと不安へとその姿を変えていた。
 はすでに何度目かになる休憩から腰をあげ、再び歩き出そうと夜空を見上げる。
 満天の星空に浮かぶ月は、あまり位置を変えてはいない。
 慣れない暗闇と、森の中を歩くことに不安を覚え、時間感覚が狂っているのだろう。木々に囲まれていると違和感を覚えてからは、まだいくらも時間は経っていないはずだ。そうでなければおかしい。月が動かない等という事はありえない。
 は闇に慣れた目で腕時計を見下ろす。
 思ったとおり、それほど時間は経っていなかった。とはいえ、迷子に気がついた時点では時計を見ていなかったので、自分がどのぐらい迷っているのかは判らない。せいぜいが、いつもの帰宅時間より少し遅いというぐらいだ。

「……あれ?」

 月明かりを頼りに時計を見つめ、は秒針の動きに気がつく。
 時間感覚が狂い、もう何時間も迷っているような気がするが、実はそんなに時間は経っていない――――――という思い込みは、間違いだ。
 長針も短針も『そんなに進んでいない』と思っていたが、それも違う。
 月明かりに照らされた秒針は、チクチクと確かに時を刻んではいるが、一歩も前へは『進んで』いない。
 に見守られながら、秒針はただ同じ場所で時を数えていた。

「……壊れちゃった?」

 役目を果たせていない時計に、はそっとため息を漏らす。
 『そんなに時間は経っていない』と自分を誤魔化してはいたが、それももう通じない。
 どう考えても異常だとしか思えない事態に、自分は今立たされている。
 それを受け入れるしかなかった。

「……どうしよう」

 とにかく、舗装された道に出ることができれば、電信柱や人家を頼りに家へ帰ることができるが。
 歩けども、歩けども、は木々の狭間から抜けることができなかった。

「そうだ、携帯っ!」

 文明の利器である携帯電話ならば、現在の時刻を確認することもできるし、自宅の近所で迷子になるなどと少々間抜けな事態を話すことにはなるが、家族や友人へと助けを求めることもできる。
 善は急げ、と携帯電話を取り出し、折りたたまれた本体を開く――――――が、いつまで待っても待ちうけ画面が立ち上がらない。電源を切ってあっただろうか? と眉を寄せ、電源を入れようと試みるが、やはり液晶画面は黒いままだった。

「……壊れた?」

 まさかと思いつつ、は軽く携帯電話を振る。そんなことをしても直るはずはないと判ってはいたが、ついやってしまう。

 時計が壊れ、携帯電話は電源すら入らない。
 そして、少しも動かない月と、どんなに歩いても抜けられない森。
 はがっくりと肩を落とし、うな垂れた。

「……?」

 不意に聞こえた音に、は顔を上げる。
 それから、聞き間違いか? と首を傾げながら辺りを見渡した。
 周囲に自分以外の存在はない。
 野良犬や野良猫はおろか、狸や野鳥にも出会わなかった。
 ただの気のせいかと首を傾げ、やはり諦めきれずに耳を澄ます。
 今は、自分の足音以外の音ですら懐かしい。

「? 何の音……?」

 かすかに聞こえた物音は、先ほどよりも大きく聞こえる。
 やはり気のせいではなかったのだと確信すると、は再び首を傾げた。
 少なくとも、人間の足音ではない。落ち葉を踏む柔らかい足音ではなかったし、木々の間を木霊する規則正しい足音からは重さまでもが感じられる。
 聞き覚えのない足音に、は記憶を探った。一番近い音を挙げるのならば、時代劇で聞く馬の蹄の音だろうか。馬が力強く蹄で土を蹴り、大地を駆ける音に似ている気がする。
 近づき来る足音に、は音の方向へと顔を向けた。
 月の光の届かない木々の狭間に、なにかが動いている。はっきりとした姿は見えないが、闇よりも濃い影が、時折月明かりを受けてその輪郭を浮かび上がらせた。
 そうこうしている間に足音はますます大きくなり、は反射的に一歩後ろへとさがる。

「……っ!?」

 後ろへと下がったのは、ただの偶然だった。が、一瞬遅れていれば、は間違いなく『それ』にぶつかり、跳ね飛ばされていただろう。暗闇の中を疾走してきた『それ』は、猛烈な速度での目の前を横切ると、に一瞥を与えることなく通り過ぎていった。
 視界を栗色に染めた『それ』を反射的に目で追い、闇に消える後ろ姿―――というよりも、尻と言った方が良い―――には瞬く。

「……って、なんで馬?」

 足音の主のむっちりと引き締まった栗色の後ろ姿を思い出し、はますます困惑し、眉をひそめる。が、いつまでも馬の消えていった闇を見つめているわけにはいかない。足音は、まだ消えてはいない。走り去っていった足音とは別に、まだ数頭の足音が木々の間を木霊していた。
 は近くの木に身を寄せる。これならば、先ほどのようにうっかり撥ねられそうになる心配はない。
 がほっと息を吐くと、最初の馬に続いて2頭目の馬が目の前を横切った。
 今度は馬が来ると予想できていたため、にも馬の様子を観察する余裕がある。
 暗闇を猛スピードで疾走する栗色の馬の背に、青いバンダナをした青年が乗っていた。

「それにしても、なんで馬?」

 青年の後に続き次々と通り過ぎる馬を見送りながら、は誰に言うでもなく呟く。
 さすがに正確な数は数えられなかったが、20頭はいかない。15・6頭だろうか。背に人を乗せた馬の大群が、の前を通り過ぎていった。そのうちの一人と目が合った気がするが、気のせいだろう。自分は『馬が来る』と判っていたので相手を見る余裕があったが、相手にしてみれば自分のような者がこんな森の中にいるとは思わないだろう。人が森の中にいると思っていれば、あんな速度で疾走などできないはずだ。

 遠ざかる足音に、どうやら全ての馬が通り過ぎたらしい、と胸をなでおろし、は首を傾げる。
 何度考えても、わからない。
 いや、目の前を通り過ぎていったものが馬である、ということは判る。距離はともかく、実物を見たこともあったし、テレビでならば何度も見ている。が、間違っても身近とは言いがたい馬が、目の前を通り過ぎていった理由がわからない。
 100歩譲って、森の中にいる理由はわかる。公園にある林か、小山にでも迷い込んだのだろう。
 が、馬が目の前を駆け抜けていく理由となると……見当もつかなかった。記憶にある限り、の家周辺に馬を飼育している施設など無い。今立っている森同様、が知らなかっただけで、実はそういった施設が存在したという事実があれば別であったが。

「……?」

 カサッと、不意に聞こえた音には首を傾げ、音のした方向へと顔を向ける。
 音が聞こえて来たのは先ほど馬が消えていった暗闇だった。
 カサカサと落ち葉を踏みしめる軽い足音にが瞬いていると、先ほどの馬にのった人物が薄笑いを浮かべながら月明かりの下へと姿を現す。

「……あの?」

 月明かりに照らされた男の風貌に、は僅かに後ずさった。
 男の浮かべる下卑た笑いだけでも警戒心を掻き立てられるには十分な要素だったが、の関心はそこだけに止まらない。
 背に荷物を乗せてはいるが鞍のない馬と、それに平然と跨る男。
 鞍が無くても馬に乗れる者も確かにいるが、それは普段から馬を身近く生活している者だけだ。普通の日本人には無理だろう。
 そして鞍のない馬よりも異様なのは、男の服装だった。
 間違っても、現代日本の服装ではない。どこか時代錯誤な――――――中世あるいはファンタジー世界の住民のような服装だ。ジーンズではないし、Tシャツでもない。ゆったりとした袖口に、バンダナを巻いた服装は、まるで映画で見た海賊のようだった。もちろん、が現在立っている場所は海の上ではないので、賊というのなら海賊ではなく山賊か盗賊になる。そう考えてみると、男は小さな鎧にも見える胸当てを付けていた。
 山賊、と浮かんだ自分の考えに、は身をすくませる。が、すぐに現在の日本に山賊―――強盗や泥棒は確かにいるが―――はいない、と思いなおした。を値踏みするかのように馬上から見下ろす男からは今すぐにでも逃げ出したい気はしたが、これはチャンスといえばチャンスだ。人がいるということは、森を抜けられるということになる。

「おい、早く行こーぜ。お頭に置いてかれちまう……」

 男の後ろから、さらに別の男の声が聞こえた。
 こちらも馬に乗っているらしくカサカサと落ち葉を踏みながら、暗闇から月光の下へと姿を現す。

「こんな山の中に、女なんて……」

 月光に照らされた男は、と目が合うと言葉を飲み込んだ。
 バンダナこそしていなかったが最初の男と似たような服装の男は、小さく口笛を吹く。その音に、バンダナの男がもう一人を振り返って笑った。

「ほら見ろ、俺の言った通りだ。
 こんな山ん中に、女がいただろ?」

 どこか誇らしげに胸を張るバンダナの男に、男は馬の頭をへと向けた。

「ああ、確かに。
 おまえの目は確かだったな」

 ゆっくりと近づき来る馬上の男に、は嫌悪感を隠せない。僅かに後ずさると、身を硬くして男の値踏みをするかのような視線に対向した。
 今すぐこの男達から逃げ出したい。
 そうは思うのだが、折角逢えた人間から、何も聞かずに逃げ出すのは惜しい気もする。
 情けなくも、自分は現在迷子なのだから。

「だが……」

 言葉を区切り辺りを見渡す男に、バンダナの男は言い募る。
 その続いた言葉に、は現在の自分の立場は一時捨て置き、何をおいても逃げ出さねば、と決意した。

「少し楽しませてもらうだけさ」

 何を、どのように、かは理解したくもない。
 一瞬にして鳥肌が立つのが解る。
 男達の会話の隙に逃げ出そう……とがタイミングを計り始めると、意外にも後から来た男はバンダナの男を窘めた。

「馬鹿言え」

 意外な男の言葉に、は落ち着くよりも先に混乱した。男の視線はバンダナの男の視線と同じく、下卑た鈍い輝きを宿している。とてもではないが、言葉通りに警戒を解ける雰囲気ではない。
 が逃げ出すべきか、もう少し様子を見るべきかと戸惑っていると、とどめの一言が加えられた。

「攫って楽しんでから、お頭にみつかんねーうちに売るんだよ」

 一瞬だけ安堵したことをは後悔する。
 男の提案は、バンダナの男の提案よりも最悪だ。
 この場で『楽しむ』のなら2人相手をすれば終わるが、『攫って楽しむ』となると、もしかしなくとも先ほど目の前を通り過ぎていった人数の相手をさせられるのではないだろうか。そして、『売る』ということは、その後も――――――

「おっまえも、悪いこと言うなー」

 笑いながら伸ばされたバンダナの男の手を、は反射的に避ける。

「やっ……!」

 そのまま逃げ出そうと後ずさり、は木の根に躓いて地面へと倒れこむ。
 柔らかい土の上だったため、さほど痛くはなかったが、早く逃げなければかすり傷程度ではすまない。

「手間かけさせんなよ。可愛がってやっからよ」

 が転んだため、馬上からは手が届かなくなったバンダナの男が馬から下りる。
 月光を背景に下卑た笑みを浮かべながら近づき来るバンダナの男に、は立ち上がることも忘れて後ずさると――――――蹄の音が聞こえた。

 最悪だ。

 どうやら、山賊か盗賊かは知らないが、男の仲間がまだ増えるらしい。これではますます逃げられない。
 さて、どうしたものか。
 暴れて殴られるのも嫌だが、黙って好きにされるのはもっと嫌だ。
 一番理想的な選択肢は逃げ出すことだが、残念ながらの体はピクリとも動いてくれない。完全に恐怖から固まってしまっていた。
 冷や汗が背筋を伝うのが解った――――――が、男達の反応は、とは違う。

「やっべ! おい、ずらかるぞっ!」

 蹄の音にいち早く反応した男は、そのまま馬の向きを変えて仲間たちの消えていった暗闇へと飛び込む。置いていかれる形となったバンダナの男は、と仲間の消えた暗闇を見比べて逡巡し、近づき来る足音に仲間に続くことを決めた。
 すぐに自分の馬に飛び乗ろうと手綱に手を伸ばし――――――届かなかった。
 が足音の方向へ顔を向けるよりも早く。
 バンダナの男が手綱を掴むより早く。
 足音の主が馬とバンダナの男の間に割って入った。






 突然の乱入者に驚き、バンダナの男の馬は主人を蹴飛ばす。
 蹴飛ばされた男はすぐに体制を整えるが、乱入者の行動の方が早かった。
 馬上の男はとバンダナの男の間に立ちはだかると、髪と同じく銀色に輝く刃を振り下ろす。

 が瞬き、事態を理解する前に、全ては終わった。

 乱入者の背に庇われる形となり、馬の影に隠れて何が起こったのかは見ることができなかったが。金属と金属がぶつかる大きな音がした後、バンダナの男は地面へと倒れた。たぶん、死んではいない。胸当ては大きく凹んでいたが、外傷は見えない。血も出てはいない。
 なにより、の持つ常識として、たとえ正当防衛とはいえ人を殺すなどということはあってはならない。
 だから、きっと生きてはいるはずだと自分を納得させながら、は馬上の男を見上げ、すぐに視線を落とした。

 男が馬の背から降りたからだ。

 風を含んでふわりと広がる男の髪は、月光を受けて銀色に輝いている。
 先ほどの刃と同じ輝きの――――――と、そこまで考えては眉をひそめる。
 馬上から降り、ロープを馬の背から下ろし倒れた男を捕縛して―――ということは、やはりバンダナの男は生きているのだ―――いる銀髪の男をしげしげと観察した。
 背は高い。体格も良い。髪は光の加減か銀髪に見えるが、普通に考えれば白髪といったところか。ということは、足取りはしっかりしているが、男はそれなりの年寄り……と思うにはやはり無理がある。バンダナの男の手を縛る動きに迷いはなく、力強い。背を向けられているため年齢までは判らないが、成人男性であろう。老人とは思えない。
 が、そんなことよりもなによりも――――――には気になることがある。
 見たこともない銀色の髪も、馬にのって現れたことも、些末なことと片付けられるほどの異物が。
 銀髪の男の腰には、先ほどバンダナの男に振り下ろされた銀色に輝く『剣』がぶらさがっていた。
 異物は剣だけではない。
 銀髪の男の全身を包む漆黒の鎧も、異物といえば異物だ。
 少なくとも、のもつ常識からしてみれば、こんな夜中に馬にのって鎧姿に剣を下げて闊歩する習慣は、日本にはない。

 山賊か盗賊としか思えないバンダナの男と、戦士―――馬にのって現れたのだから、騎士か?―――のような風体の銀髪の男をが呆然と見守っていると、新たな足音が聞こえてきた。
 もう相手が騎士であろうと、盗賊であろうと、驚きはしまい。
 そう腹を決め、が音のする方向へと顔を向けると、馬にのった騎士風の男が2人現れた。

「団長!」

 まだ若いと判る声に銀髪の男が答える。

「東へ1人逃げた。追え」

「はっ!」

 団長と呼ばれた男に答えると、2人の騎士は東へ――――――男達の逃げていった暗闇へと馬を走らせた。銀髪の男は二人の姿を見送ると、気絶している男のロープを確認してから、驚いて興奮したままの馬を宥め始めた。首筋を撫でられるたびに落ち着きを取り戻す馬につられ、も落ち着きを取り戻す。
 とりあえずの危機は去った。
 そう、思えた。
 少なくとも、銀髪の男は最初の男たちよりはマトモそうに見える。腰に剣を下げ、鎧を着ているという意味では、まったくもって『マトモ』とは言えなかったが。
 まずは立ち上がろう、とは身じろぐ。と、その微かな物音に銀髪の男は即座に反応し、腰の剣へと手を伸ばしの方を見た。

「ひっ!」

 決して穏やかとは言えない眼光に射すくめられ、はその場に再び座り込む。
 ようやく引く兆しを見せた恐怖が、再びを包んだ。腰に手をあてた銀髪の男から逃げようともがき、足を動かすが、自分の足のはずなのに、の足はピクリとも動いてはくれなかった。これでは逃げることはおろか、身を守ることもできない。
 身を硬くしながらも逃げ出すことなく震えるに、銀髪の男は腰へと伸ばした手を下ろした。

「あっ」

 一歩、自分の方へと踏み出された男の足に、は逃げ出そうと思うのだが、足はやっぱり動いてくれない。
 なんとかならないものか、と諦め悪く腹に力を込めてみるが、僅かに肩が揺れる程度で、足は動かなかった。
 そうこうしている間に、銀髪の男はの目の前へと到着する。

「やっ!」

 伸ばされた男の手から逃れるように身をそらす。
 硬く目を閉じ、歯を食いしばると、頭上から男のため息が聞こえた。

「……安心しろ、私は何もしない」

 鋭い眼光とは裏腹な穏やかな声音と、遠のく手の気配に、は怖々と目を開く。
 男の手は降ろされていたが、顔は近い。怯える自分に目線を合わせてくれた、と言う方が正しいのだろうか。男は膝を着いて腰を落としている。先ほどはを鋭く射すくめた青い眼光も影を潜め、今は困ったように揺れていた。

「賊は捕らえた。逃げた者も、仲間が追っている」

 が理解するのを待つように、男はゆっくりと状況を説明する。
 その間も、微動だにしない。
 少しでも自分が動けば、をさらに怯えさせることになるとわかっていた。

「私は、領主ボルガノ様より閃光騎士団を預かるイグラシオと言う者だ。
 ……あなたは?」

 ゆっくりとした自分の説明に、落ち着きを取り戻しつつあると判るに、銀髪の男は名乗る。
 先ほどの男達とは違い、いっそ紳士的とも言って良いイグラシオの態度に、はようやく肩の力を抜いた。

「わ、わた……しは、わたしは……、です」

 多少の落ち着きを取り戻しはしたが、身体はまだ言うことを聞いてくれない。
 うまく回らない舌に我ながら情けなくなったが、イグラシオは急かすことなくの答えを待ってくれている。それに応えようと、は懸命に口を開き……一度は遠ざかった足音が戻ってくる音を聞きつけ、びくりっと身をすくませた。

「団長!」

 歳若い声に怯え、再び身を硬くしたに、イグラシオはため息をもらす。
 彼が悪いわけではないが、タイミングが悪かったのは確かだ。ゆっくりと落ち着きを取り戻しつつあったは、再び怯え始めている。

「賊を森の外れまで追いましたが、見失いました。
 念のため、ヒックスが――――――」

 と、少年騎士はそこまで報告をしてからようやく気がつく。
 自分が報告をしている相手の目の前に、なにやら怯えている娘がいる、と。
 そして、状況から察するに、自分達が追っていた賊の被害者であろうとも。

「これは、失礼しました」

 女性の姿に気づかず失礼な態度をとってしまった、と詫びる少年騎士の声が聞こえたが、にはほとんど意味がわからなかった。
 極度の緊張と恐怖。
 ようやく落ち着けると思った所にきた少年騎士の再登場に、の緊張の糸は切れた。

「自分は、閃光騎士団副団長のエンドリューと申します。
 お嬢さん、我々が来たからには……」

 なにやら畏まった口調で語る少年騎士であったが、その言葉の意味はほとんどの頭の中を通り過ぎていく。
 に、すでに物事を理解するための余裕はない。
 ぼんやりと聞き流している様子のに、イグラシオは小さくため息をもらした。

「……報告はネノフの家で聞く。
 この女性はという名だそうだ。
 今のところは……これ以上聞けそうにない」

 隣で立ち上がるイグラシオを目で追い、は瞬く。
 と、イグラシオはに手を差し出した。

「立てるか?」

 立てるか? と聞いても、イグラシオはの手を取りはしない。自分から何か行動を起せば、の混乱に拍車をかけるだけだ、とイグラシオは判っていた。
 はぼんやりと差し出されたイグラシオの手を見つめていたが、やがてゆっくりと言葉を理解し、手を伸ばす。
 怖々と、一瞬だけイグラシオの手に触れて『確かめた』。

 目の前にあるものが、本物か否か。

 銀髪の男に、鎧と剣。馬にのった騎士に、盗賊と思われる男達。
 どう考えても夢を見ているとしか思えない状況に、は現実逃避を計りたかったのだが――――――イグラシオの手の感触に、これが『本物』だと思い知らされた。
 およそ理解できない状況が、自分の身の周りを包んでいる。
 そう理解できた。
 が、不思議なことに……それら全てから生まれる不安も恐怖も、イグラシオに触れた指先から潮が引くように消えていく。
 そっと手を重ねると、男性特有の自分よりも高い体温がの指先に伝わる。
 その熱が、ほんのりとの落ち着きを取り戻した。

 ほっと自然にもれたのため息に、イグラシオは再びが落ち着きを取り戻し始めたと知る。試しに重ねられただけの手を握ってみたが、が驚いて手を引っ込めることはなかった。
 そっと手を引き立ち上がらせると、一瞬だけはよろけたが、すぐに自力でバランスをとり、立つ。

「……どこの村の者かは知らないが、夜の女性の一人歩きは危ない。
 明日にでも、あなたの村へと私が送って行こう。
 今夜のところは、近くの村に住む私の知人の家へ泊まって頂きたい。
 ……それでいいだろうか?」

 村? 町ではないのか? とも思ったが、は口を閉ざす。
 知っている道にさえ出られれば自力で家へ帰れるが、今夜はもう何も考えたくなかった。
 ただ、先ほどの男とは違い紳士的なイグラシオの言葉を信じよう、とだけ思う。
 他は、何も考えたくない。

 は声にだして答えようとしたが、舌がうまく回らない。
 仕方がないので、小さな子どものようにこくりと頷いて、イグラシオに了解の意を伝えた。