月明かりの下、は何度となく大平原を見渡し、方角を確認する。
 方角は間違っていないと思うのだが、夜の闇は無条件にの不安を掻き立てた。
 別れ際にルヴァイドが言っていた『仕事場』という言葉も、の不安を煽るのに充分な要因となっている。
 軍人であるルヴァイドの仕事場ということは、この大平原は間もなく戦場になるということだ。
 この場が戦場になるということは、レルムの村のような惨劇がここでも行われるという事になる。
 あまり長く留まっていては、次に無惨な骸を晒す事になるのは、自身かもしれない。

 不安から立ち止まりたくなる足を叱咤し、は前へ、前へと足を進める。
 早足になっているはずなのだが、夜営地の隠された森の影は未だに見えてこない。
 早く天幕に戻って安心したい。
 ハサハを抱き締めて、マグナに名前で呼べとからかわれて、遅くなった夕食を3人で食べて。

「え?」

 すっと空気の変わった周囲に、は反射的に足を止める。
 空気が変わったというよりは、場の雰囲気が変わったというのだろうか。

 歩いても歩いても目的地に辿りつけず、不安に押しつぶされた頭でもう一度月を見上げる。
 方向は間違っていない。
 にもかかわらず、一向に目的の森は見えてこない。
 そして感じる周囲の異変。
 別に獣がいる気配があるだとか、人と人とが争う気配があるだとかと言う事はない。
 ただ、なんとも形容し難い違和感と不安に、の足は棒のように動かなくなってしまった。

「……霧?」

 瞬く間に濃く、視界を白くぼかし始めた物に気がつき、は思考する。
 普通、霧とはこんなに急速に発生するものなのだろうか、と。
 文字通り、瞬きをする度に濃度を増す霧に、はもう一度夜空を見上げた。
 そこに丸く浮んでいたはずの月も霧に隠されてからは見えない。

「変」

 月明かりを隠す程の濃霧に包まれ、の不安は確信へと変わる。
 とにかく、近く戦場になるであろう大平原から離れなければならない。けれど、濃霧で月を見失ってしまっては方向の確認もままならない。
 不安と焦り、緊張から、は普段であれば決してしない選択をしてしまった。






「……全然前が見えない」

 迷子になった時は、その場を動かないのが鉄則。
 それも視界の悪い濃霧に包まれたとならば、なおのこと。
 けれどは1メートル先すら妖しい視界の中、懸命に少しでも前へと進んでいた。1分1秒でも早く、マグナ達の元に帰りたいと。

「!?」

 遠く微かに音が聞こえた気がして立ち止まる。
 首を巡らせてみたが、霧に包まれた視界にはなにも見えない。
 けれど、耳をすませば微かに聞こえたと思った音が少し大きく聞こえてきた。――――――というよりもだんだん大きく、の居る方へと近付いてくる。
 音の正体は足音だ。
 それも、複数人の足音。
 最初は規則正しい足音に聞こえたが、複数人いると判る足音の数になると、すでに規則正しいとはいえない。平原の下草を踏み荒らす荒々しい足音に、はその場に腰を落とした。
 否、腰を抜かしたと言った方が正しい。
 言い様のない不安に飲み込まれ、自分を誤魔化して前へと進む事もできなくなってしまった。
 平原の下草に身を隠すようにうずくまり、は耳を塞いで目を閉じる。
 そんな事をしても何の解決にもならないのだが、そうせずにはいられなかった。
 だたひたすらに怖くて不安で、これ以上は一歩も前へ進めない。霧の中になにか恐ろしい姿が見えても嫌だったし、聞こえないはずのモノが聞こえても怖い。
 耳を塞ぐ事で一度は遠くなった足音が、自分の居る方へと近付いてくるのが判る。耳を塞いだぐらいでは、聴覚を完全に遮断することはできない。
 瞳を閉じる事で一度は暗転したの視界に、瞼を焼く白い光りが照らされた。

『きゃっ!? なに?』

 手のひら越しに聞こえる少女のくぐもった声に、は反射的に顔を上げる。
 恐るおそる目を開くが、やはり視界は霧に被われて何も見えない――――――と、再び視界が白く――にとっては見慣れた落雷により――染まった。

『気をつけろ! 召喚術だ!』

 理性を秘めた青年の声は驚く程近くから聞こえたが、姿は霧に隠されて確認することができない。ただ、と足音の主達との間にはほとんど距離が残されていないことは判った。

『あいつら、無差別攻撃かよ』

『ホントよね。こっちにはあいつらのお目当ての……』

 カッと辺りが白く照らされ、は堅く目を閉じる。
 一瞬聞き覚えのある声が聞こえた気がしたが、にとしてはそれ所ではない。
 息をひそめて、姿勢は低く。ただひたすらに自分に近付きつつある『怖いモノ』が通り過ぎてくれるのを待つしかなかった。
 今すぐ走って逃げ出したい程怖いのに、背を晒して逃げるのも怖い。
 そうしている間にも、足音達はすぐ側まで迫っていた。

「ひっ!?」

 カッと再び世界が白く染まり、は身を縮こませる。
 続いて半径1メートルもない場所で聞こえた足音に、は漏れそうになる悲鳴を飲み込んだ。足音の正体は判らないが、相手がの存在に気が付いていないのなら、このまま気付かずに通り過ぎて欲しい。
 身を堅くしたままは2人目、3人目と自分の脇を通り過ぎる足音を数え、気が付く。
 雷鳴が、いつのまにか止んで――――――

「「ひゃあぁっ!?」」

 突然強い衝撃を横から受け、は下草の中へと倒れ込む。
 に体当たりしてきた人物も――声から察するに少女も――同じように近くに倒れ込む音がした。

「「アメルっ!?」」

 衝撃に目が眩み、くらくらとの思考が揺れる。
 すぐに体勢を整えることができずにが顳かみを押さえていると、頭上から聞き覚えのある少年の声と、聞き覚えのない少女の声が聞こえた。
 察するに、に体当たりをしてきた――もちろん、故意ではあるまい。が足音が怖いと意図的に隠れていたので、これはただの事故だ――人物の名前だろう。どこかで聞いた名前のような気がするが、どこで聞いた名前なのかは思いだせない。とにかく、体当たりの衝撃は強烈だった。受け身をとる間もなく投げ出されたため、思考どころか体も思うように動いてくれない。

「……大丈夫。何か柔らかい物にぶつかっただけ」

 自分が体当たりをしたを『柔らかい物』と表現した少女は、すでに最初の衝撃から抜け出しているらしい。微かに身じろぐ気配がにもわかった。

「こう霧が濃いと、なんにも見えないもんね」

「おしゃべりは後にしろ。
 先輩達が稼いでくれた時間を無駄にするな」

「わかってるわよ。アメル!」

 頭上で交わされる会話が終息に向かうと、突然の腕が何者かに掴まれた。

「え!?」

「全力で走るからな。舌を噛むなよ」

 腕の主に――これまた聞き覚えのある声だった――そのまま力強く引き起こされ、は慌てた。
 自分の姿を相手から隠してくれている霧は、相手からもの姿を隠している。
 つまり、腕の主は倒れた少女を助け起こすつもりでの腕を掴んでいるのだと理解できた。

「あ、あの、ちょ……」

 ちょっと待ってくれ。自分は人違いだ。
 そう腕の主に伝えたかったのだが、宣言通りに全力で走り出した相手にの声は届かない。せめて掴まれた手を振りほどければと抵抗もしてみたが、その度に手を離すまいと力強く握りしめられた。

「あの、だから……」

 視界ゼロの世界で段差に足を取られ、は咄嗟に口を閉ざす。
 このままでは冗談でもなんでもなく舌を噛んでしまう。
 会話から察するに逃走者である彼等の誤解をとくよりも、今はただひたすら走ることに集中するしかない。
 ――――――そう判断し、は自分の腕を掴む手を見つめ、ひたすら足を前へと踏み出した。






  
(2011.08.02)
(2011.08.05UP)