翌日。
マグナは朝から夜営地の天幕という天幕の間を――重傷の怪我人の間を――走り回った。
怪我人の治癒をしてくると言って天幕を出たマグナに付いて歩いてわかった事だったが、怪我の程度はどうあれ、半数以上の旅団員が大小様々な怪我を負っていた。とてもではないが、マグナ一人では治療が間に合わない。必然的に、も治癒を手伝うことになったのだが――――――にはまだ経験が足りない。そして、一度に多くの人間を癒すだけの魔力もない。連続して召喚術は使えなかったし、マグナのように高位の存在も呼び出せない。
結果として、マグナの手を煩わせる程の緊急性はないが、それでも治癒が必要であると判断された怪我人をが担当した。召喚術の使い過ぎで自分が倒れないよう、適度に休憩をはさみながら、ゆっくりと確実に。
怪我をしている旅団員達には申し訳ないが、としては貴重な実践経験になった事を喜んで良いのだろうか。
何よりも、レルムの村の惨状を見た後では、生きた人間を癒せることは嬉しい。生きていれば、怪我は癒せるのだ、と。
は治癒の終わった旅団員から「お礼に」と渡されたイチゴキャンディを口に運ぶ。口中に広がる甘酸っぱいイチゴの香料が、の疲弊していた思考をすっきりさせてくれた。これでもう少しだけ、頑張れる気がする。
マグナとは朝食の時間以来会っていない。
というよりも、お互いに朝から夜営地中を治癒に走り回り、すでに夕食の時間が近い。
時々マグナに指示されたのかハサハがの様子を見に来ていた気もする。
そんな一日だった。
そっと天幕を抜け出して、は夜営地を横切る。
目的はない。
ただ、ほんの少し外の風に当たりたくなっただけだ。
少しだけ散歩をしたい、と森を歩く。でも、あまり夜営地から離れてしまっては帰れなくなってしまう、と慎重に位置を確認しながら。
小さな丘をのぼり、背後を振り返る。木々と丘に隠されて見えないが、僅かに灯が見える気がした。視線の先に夜営地があり、まだマグナが怪我人のために召喚術を行っているはずだ。マグナはとは違い、休みを挟まずに高位召喚術を使っているとハサハに聞いた。
仕方のないことではあったが、マグナと自分との実力差は、こういった時に思い知らされる。普段どんなに穏やかに微笑んでいようとも、マグナは高位の召喚師なのだ、と。
視線を夜営地から夕暮れに染まる空へと移し、は深く息を吸い込む。
夜に向かって冷え始めた空気が、疲れた頭と体に心地よい。
「やっぱり、ご主人様……」
と、はつい口から出た単語に苦笑し、口を閉ざす。
まだ慣れない。
まだまだ慣れない、新しい呼び方。
「マグナさんは、すごいなぁ」
誰も聞いているはずはないのだが、少しだけ照れながらは言い直す。
昨夜、「マグナさん」と名前で呼び始めたに対し、マグナは隙を見つけては自分の名前を呼ばせようとするので、少々気恥ずかしくもある。
(あんなに喜ばれるなら、最初から「マグナさん」って呼べば良かった……)
それこそ、変な意地などはらずに。
マグナは最初から名前で呼んで良いと言っていたのだから。
「……あれ?」
リインバウムに呼ばれたばかりの頃を思いだし、は首を傾げる。それから夜営地へと視線を戻し、気が付いた。
気のせいでなければ、朝からイオスとゼルフィルドを見ていない。と言うよりも、治癒の必要な旅団員の姿以外を見かけていない気がした。
少なくとも人見知りの激しいハサハが、とマグナの間を何度も往復できるぐらいには、夜営地に人がいない。
改めて気が付いた現象に、は辺りを見渡す。
昨夜は夜営地に入ってすぐに見張りの旅団員に見つかり声をかけられたが、今は違う。夜営地の外へと出る際に誰にも見咎められなかったし、夜営地から少し離れて歩いても誰とも出会わない。そもそも、本日マグナと自分が怪我を癒した兵士達の姿も見えないという事は、いったいどう言う事だろうか。
ひとつを疑問に思えば、次々と不審な点が目に付くから不思議だ。
もう少しだけ夜営地から離れてみよう、とは足を速める。
きっと、少し離れてから見返せば、今まで気付かなかった場所に何人かの見張りの姿を見つける事ができるはずだ、と。一国の軍の夜営地に、見張りが置かれていない等と言う事があるはずがないのだから。
早足に森を歩き、はいつしか森を抜けて大平原へと出てしまった。
なだらかな丘の上に立って南の方角を見下ろすと、王都ゼラムと港湾都市ファナンを繋ぐ王都街道が細く見える。馬車2台が余裕をもってすれ違える幅を持つ王都街道が細い線のようにしか見えないのだから、まだまだ距離はあるはずだが、それでも夜営地から遠く離れ過ぎてしまったことに変わりはない。ほんの少し、息抜きのための散歩であったはずなのに、随分遠くまで来てしまった。
――――――それほど歩いて来たのに、旅団員の姿は見かけていない。
これは本格的におかしい、とざわめく胸をかき抱き、は空を見上げる。
先程までは綺麗な夕焼け色をしていたが、今は薄い紫色の空だ。じきに太陽は完全に西へと沈み、辺りは闇に包まれるだろう。そうなる前にマグナ達のいる夜営地へと戻らなければならない。
「あ……」
丘の上に立ったままは改めて周囲を見渡す。
青々と茂った平原の下草にまぎれるように黒い点がいくつも存在していた。薄暗い周囲にはっきりとその正体を確かめることは出来なかったが、黒い鎧に見えないこともない。おそらくは、の探していた旅団員達だろう。
――――――彼等は別にいなくなってしまった訳ではないのだ。
良く見れば隊列を組んでいるとわかる規則正しい並びに、は隊列の先頭へと視線を向ける。ゆっくりと歩を進める一軍の先頭には、漆黒の外套を纏った長身の男の姿が見えた。外套と同色の兜を被っているが、僅かに紫紺の髪がもれ出ている。
見知った男の姿を見つけ、はホッと胸を撫で下ろす。
変に不安になっていた事が恥ずかしい。
旅団員の姿が見えないなど、の気のせいでしかなかったのだ。
旅団員達は、ルヴァイドと行動を共にしていた。一軍がその司令官と共に行動を取る事を、不審に思う必要はない。
不意に先頭を歩いていたルヴァイドが顔を上げ背後を振り返った。
そんなはずはないのだが、ルヴァイドと目があった気がしては姿勢を正す。
気付かれたのなら挨拶をした方が良い。しかし、ルヴァイドと自分の間にはかなりの距離がある。目があった気がするのは気のせいで、ルヴァイドはただ隊列を確認しただけかもしれない。
そうが逡巡していると、ルヴァイドは髑髏を象った兜を外した。顔が見える状態になるとルヴァイドの視線の先が――――――明確に自分に向けられているとにもわかった。ついでに、小さく手招きまでしている。
これはもう、招きに応じて挨拶をせねばなるまい。
闇に沈みゆく周囲は気になったが、ルヴァイドの側にいて危険があるはずはない。いざとなれば、ルヴァイド達に従軍して夜営地に戻れば良いのだ。
先に行け、と隊列に指示をだしているとわかるルヴァイドに向かい、は早足に丘をおりた。
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(2011.07.26)
(2011.07.30UP)