本当ならもう少し片づけを手伝いたかったのだが。
 野営地中の食器を集め、食器洗いを手伝い始めた本来の当番3人と、イオスに追い払われるようには自分達にあてがわれた天幕へと戻ってきた。

 デグレアに居た頃は――というより若い女の子――が片付けを手伝ってくれると喜んでくれたのだが、今日は違った。どこかよそよそしい旅団員達の雰囲気を敏感に感じ取り、小川から天幕までの短い距離をは真直ぐに歩き抜けた。途中何人かの旅団員とすれ違いもしたが、やはり以前のように気軽に声をかけてくる者はいなかった。

 軍事行動中の軍隊とはこんな物なのだろうか? そう不安になりながら戻った天幕の中に、マグナの姿はない。
 てっきりまだ沈み込んで毛布にでも包まっていると思ったのだが、天幕の中にはおはじきで遊ぶハサハが一人いるだけだった。

「……ハサハちゃん、ごしゅじ……マグナ、さんは?」

 イオスの提案に従い、試しにマグナを名前で呼んでみる。
 本人にいきなり呼び掛ける勇気はないが、ハサハを相手に練習してみるのも良いだろう。そう思った。

「おにいちゃん、おさんぽ」

 おはじきから顔を上げずに答えたハサハの尻尾は不機嫌そうなリズムをとって地面を叩く。

「えっと……ついて行かなかったの?」

 珍しい事もあるものだ、とが首を傾げると、パタンっとひとしきり大きく尻尾が地面に叩き付けられた。
 付いて行かなかったのではなく、置いて行かれたのだろう。
 相当怒っているとわかるハサハにが肩を竦めると、天幕の外から足音が聞こえた。ぴたりと地面を叩くのを止めたハサハの尻尾に、足音の主人が誰であるのかがわかる。

「あ、お帰りなさい……、マ……」

「ただいま」

 入り口の布を持ち上げて天幕の中へと入ってきたマグナに、は早速名前で呼ぼうとして、出遅れた。
 すべてを言い終わる前に「ただいま」とマグナに返され、続いて自分の横を通り過ぎたハサハの勢いに軽くバランスを崩す。ひしっとマグナの腰に抱き着くハサハに、の発言を遮る意志はなく、マグナとてわざと言葉を遮ったわけではない。
 ただ単純に、の間が悪く、出遅れてしまっただけだ。

 そうは思うのだが、はこっそりと肩を落とす。
 名前で呼ぼうと決意はしたのだが、いまいち踏み切れない。

「今日は悪かった」

「え?」

 腰にハサハをぶら下げたまま天幕内を歩き、マグナは折り畳み式の簡易椅子に腰を降ろす。その際に、ハサハはしっかりとマグナの膝の上に移動していた。

「ハサハもごめんな? 置いていったりして」

 膝の上に陣取るハサハの頭をマグナが撫でながらそう言うと、つい数瞬前まで不機嫌さを隠そうともせずに地面を叩いていたハサハの尻尾が上機嫌に揺れる。
 改めてのマグナからの謝罪に、とハサハは瞬いてから顔を見合わせた。

「もう怒っていません。
 少し……すごく、驚きはしましたけど」

 なんの相談もなく突然置いて行かれたので驚いた。
 焦って悲しくてこの世の終わりのような気分にもなったが、結果的に一人ではなかった。

「それに、事前に地図を開いて場所を差してくれてましたから、
 追い掛けることもできましたし」

 の言葉に、マグナの膝の上でハサハがこくこくと一生懸命同意する。
 拗ねて甘えてマグナを困らせているが、ハサハは別に怒っているわけではないのだ。

「でも……これからはちゃんと、行き先を口で言ってくださいね」

 そう続け、は息を飲む。
 一瞬緊張したが、言葉の勢いにのせてもう一言だけ追加した。

「その、……マグナ、さん」

 言葉にした途端に恥ずかしくなり、はそれを誤魔化すように顔を背ける。
 突然名前で呼ばれたことに対するマグナからの反応が気になり、は顔を背けたままマグナの表情を盗み見た。少女二人の反応に苦笑を浮かべていたマグナは――――――ややあってから違和感に気付いたのか目を丸く見開く。

「……? 今……」

「ええっと……」

 イオスの提案をそのまま実行してみただけなのだが、妙に気恥ずかしい。
 結果として生まれた奇妙な沈黙に耐えきれず、は己の奇行を誤魔化すため、さらにおかしな言い訳をしてみた。

「置いてけぼりにした事は許しますが、罰は受けてもらいます!
 これからは『ご主人様』から降格して『マグナさん』です」

「それは……」

 マグナにしてみれば、嬉しい罰だった。
 ご主人様と呼ばれるのは正直くすぐったかったし、に明確な距離を置かれていると判ったから。

 喜んでいるとはっきり判る、ゆるゆるとだらしなく緩み始めるマグナの顔を見上げ、ぴょんっと勢い良くハサハは膝の上から飛び下りた。

「じゃあ、ハサハもおにいちゃんにおしおきする!」

 膝から飛び下りたままの勢いでクルリと方向転換をし、改めて向きあったマグナが目を丸くして驚いているのを見つめ、ハサハは小首を傾げる。
 がマグナい対し行ったおしおきを、マグナが喜んだ。
 ハサハはそう理解し、自分もマグナに喜んでもらうべくおしおきをと考えたのだが、別に最初から考えがあっての行動ではない。
 何か良い案はないだろうか。
 マグナとの視線を集めながらハサハは考える。
 マグナが少しだけ困って、自分が嬉しいことは――――――

「……ずっと一緒のけい!」

「うおっ!?」

 結局、これといった案が浮ばず、ハサハはマグナの首筋へと飛びつく。
 あまりに勢い良く飛びかかられたため、マグナは簡易椅子から後ろへと押し倒されて尻餅を付いた。マグナをクッションにしたためハサハには怪我がないが、クッションにされた当人はどこかに少しぶつけたらしい。さりげなく頭をさする仕種がの苦笑を誘った。

「ハサハちゃん? それって、いつもと変わらないような……?」

「んーん? 寝る時も一緒!」

 寝る時も、結局はいつも一緒だと思うのだが。
 それでも一応の分別をマグナとはハサハに求めてきた。
 それを今、堂々と無視すると宣言しているのだ。
 これではマグナに対する『おしおき』と言うよりも、ハサハに対する『御褒美』でしかない。

 さて、どうやってこの可愛らしい幼い妖狐に改めて分別を教え込もうか。
 
 マグナとは同時に顔を見合わせて――――――諦めた。
 年頃になれば、放っておいても自分から距離を取るだろう、と。
 何も今すぐに、自分達がしつけなくとも良いだろう、と。
 ハサハの幼さは個性の一つであると受け入れることに、二人仲良く笑いあった。






  
(2011.07.25)
(2011.07.30UP)