清涼な小川の水を口へと運び、漱ぐ。
水事体には味がないのだが、口の中に広がっていた酸味と苦味は綺麗に洗い流された。念のためと新たな水を掬って口へと運び、今度は咽の奥を洗うためにうがいする。
結局、は胃の中の物を全て吐き出してから、ようやく少しだけ落ち着くことができた。
今はロッカに案内された小川で遺体に触れた手を洗い、口を漱いでいる。
手などいくら洗った所で、またすぐに遺体の山と向き合うことになるのだが。それでも気分の問題だ。洗わないままでいるよりは、洗った方が良い。
「……大丈夫ですか?」
「はい。……すみません、動転しちゃって……」
遺体の山から離れ、手と口を洗うとようやくいつもの自分に戻れた気がした。
少しではあったが冷静さが戻ってきて、は思いだす。
自分が死者である少女にしてしまったことは――――――
「片付けを手伝うつもりが、かえって邪魔をしてしまいました」
邪魔どころか遺体を破損させ、その一部を投げ捨てている。
咄嗟のことだったとはいえ、死者に対して行って良いことではなかったはずだ。
「いいえ。……たぶん、あれが普通の反応だと思います」
「え?」
村人の遺体を傷つけた事を責めるどころか、普通の反応だろうと認めるロッカに、は瞬く。
たった2日滞在しただけの自分とは違い、ロッカはこの村で生まれ育った人間だ。
焼かれた村に対する思い入れは、などより余程強いはず。それなのに、目を丸く見開いて驚くに、ロッカは苦笑を浮かべるだけだった。
「僕はダメです。
こうしてこの村の惨状を改めて見ても、涙も出てこない。
これが現実だって判っているのに、それでも頭のどこかで
『こんなはずじゃない』って……認めたくないんだと思います」
背後の村を振り返り、ロッカは目を細める。
遠くを懐かしむかのような瞳に、ロッカが今、焼かれる前の村を思いだしているのだとわかった。そんなロッカの横顔を見つめ、は俯く。
たぶん、今のロッカの表情は、いつも自分の中にある表情だ。
曖昧に笑って誤魔化し、努めて表に出さないようにはしているが。
悲しすぎて現実を受け入れる事を頭が拒否し、涙もでないと言うロッカ。
そして、が受け入れる事を拒否している物は――――――
「?」
不意に聞こえた大気を震わせる咆哮に、は顔をあげる。
聞き覚えのある獣……と呼ぶには語弊のある存在の咆哮だった。
「……あれは!?」
咆哮の聞こえる方角にとロッカが視線を向けると、村の中央広場付近から白銀の竜が大きな長い首を擡げているのが見える。白銀の鱗で覆われたその背には、天使のような白い一対の翼が生えていた。
「あれは……レヴァティーン」
「レヴァティーン?」
死に包まれた村を懐に抱き込むかのように白い翼を広げる竜を見つめ、はロッカに頷く。広場でマグナが何を行おうとしているのかがわかった。
「ご主人様の召喚獣です。
霊界サプレスに住む高位の……」
教本で覚えた通りの解説が口から飛び出し、は言葉を区切る。
霊界サプレスや高位の天使等という説明は、召喚師以外には通じ難い。
「えっと……たぶん、場を浄めているんだと思います」
「浄める?」
召喚獣の名前や性質など、ロッカには関係がなければ興味もないだろう。そう考えて、はマグナが意図しているであろう事だけをロッカに説明することにした。
「ハサハちゃんが言っていました。
ここには苦しみや恐怖が染み付いてるって。
だから、きっとレヴァティーンの霊的な炎で場を焼き浄め、
ここで殺された人達の魂が迷いなく転生の輪に戻れるように導いているんだと思います」
にしてみれば理解に苦しむ話しではあったが。
リインバウムの召喚師達は、真面目に信じている。
曰く、リインバウムは転生の輪という物で形どられた世界だ、と。
一つの世界に産まれ落ち、そこで生きて、そして死ぬ。その後に、魂は一定の法則をもって別の界へと産まれ落ち、また死ぬ。永遠にその転生を繰り返すのだ、と。
リインバウムの信仰などは聞いた程度にしか知らないが、輪廻転生の考え方だったら日本にもあった。
幸いなことには霊を見る体質ではなかったが、魂の存在は信じている。
その魂が、本当に苦しみや痛みから解放されるのならば、一時でも竜や天使の存在を信じても良い。
の説明にロッカもそう思ったのか、微かに口元を綻ばせた。
「それで村の人達が苦しくなくなるのなら、いいね」
「……あと、たぶん……レヴァティーンの加護を受けられると思います」
気休め程度の効能かと苦笑したロッカに、はもう一言追加した。
魂が苦しみから解放される等ということは、生きた達には曖昧で不確かな効果だったが、マグナが行っているものは召喚術だ。生きた人間の目に見える効果も発揮する。
「加護?」
「ご主人様の魔力が効いている間は、埋葬が終わるまで遺体の腐敗も止まるはずです」
死者を生き返らせることは出来ないが、ある程度は破損した遺体の修復もなされるだろう。目を背けたくなる形相の遺体も、多少は穏やかな表情に変わるはずだ。
村中に立ち篭める腐臭も、レヴァティーンの聖なる炎が焼き尽くしてくれる。
これだけでも村中を片付ける作業が楽になったはずだ。
「それはいいね。……うん。
僕達だけじゃ、いつまでかかるかわからないし」
ふわりっと足下を駆け抜けた白く輝く炎にの髪が揺れる。身を焼くために吐かれた炎ではないため、触れても熱くはない。レヴァティーンの翼が村全体を被う死を吹き払うように優しく羽ばたいていた。
「……そろそろ戻りましょうか」
「もう平気?」
勇壮に吠えるレヴァティーンの咆哮にしばし耳を傾けた後、はロッカを誘う。
本当であれば一番に村のために働きたいであろうロッカが自分の側にいるのは、がマグナの同行を拒んだからだ。
「平気ですっていったら、嘘になります。
けど、そうも言っていられません」
のんびり休んでいても、事体は好転しない。
だったら、少しずつでも動いていかなければ。
「これがリインバウムの現実なら、早く慣れないと」
「……?」
自分の物言いに、不思議そうに目をしばたたかせたロッカに気がつき、は自嘲気味に笑う。
「わたし、召喚獣なんです。
姿はここの人と変わりませんが、リインバウムとは違う世界から来たんです」
召喚獣と聞いて、自分とレヴァティーンを見比べるロッカに、は苦笑する。召喚獣と一括りにしてしまえば、自分とレヴァティーンは同じ存在なのだ。体格差や容姿の差など、リィンバウムの人間達には関係がない。
リインバウムにおいてのは、同じ人間としては数えられない存在だった。
「あんな……」
リインバウムの人間にとって、同じ人間であったはずの少女の遺体を思いだし、は口籠る。召喚獣の心を無視するリインバウムの人間は、同じリインバウムの人間の心すら踏みにじるのだ。
「あんなに酷い遺体を見た事なんてなかったので……驚いてしまって。
あの女の子にも、悪い事をしちゃいました」
気が動転した上での無意識の行動ではあったが。
遺体を投げ捨ててしまう等、本来あってはならない死者への冒涜だ。
まるで汚物を拭いさるように地面へと手を擦り付けた行為も、とても褒められた所行ではない。
「……さんの故郷って、どんな所だったんですか?」
「え?」
「酷い遺体を見た事がないって、どんな世界なのかな……って思いまして。
確かにこの村の惨状は酷いけど、『酷い状態の遺体』事体は珍しくはありません」
虐殺による焼死体はたしかに酷い状態であるが。
祖父のきこりの仕事を手伝うこともあったロッカにしてみれは、不慮の事故により獣に内臓だけを食われた遺体や、手足を食い千切られほとんど腐敗していた遺体を見つけた事もある。林業と狩猟で生計を立てていたレルムの村では、村のほとんどの人間が森へと足を踏み入れる。村の誰もが、壮絶な惨状の遺体を見つける側になることも、見つけられる遺体側になる可能性も秘めているのだ。
のように、酷い遺体を見た事がないという人間は珍しい。
そんなが育った世界とは、どんな世界なのか、少しだけ興味がわいた。
「……戦争のない世界、でしょうか」
「それは……」
言葉通りの世界ならば、理想郷ではないだろうか。
の言葉に驚いて目を見開いたロッカに、は慌てて言葉を追加した。
「あ、いいえ。わたしが生まれる何十年も前に敗戦して、
それ以来わたしの国では戦争がないってだけです。別の国では……」
日本人のには馴染みのない話しではあったが、ニュースなどでは外国の戦争で子どもが犠牲になった等という話題は尽きない。
あくまで、戦争がないのは日本国内だけだ。
厳密な意味では、日本国内であっても争いがないとは言い切れない。
「……すみません。
せっかく気をそらそうとしてくれたのに……」
村の惨状とはかけ離れた話題をロッカがふってくれたのに、結局は近い話題になってしまった。
帰れない故郷を一瞬だけ思いだし、は郷愁を心の奥底へと押し込める。
――――――自分勝手だ。
そう内心で己の郷愁を恥じる。
あちらに居た頃は、いつもどこかへ逃げ出したかった。
自分はここに居てはいけないのだ。
いらない子なのだと。
けれど、いざ現実から離れてみると、あれほど逃げ出したいと思って居た場所は『戻りたい場所』へといとも簡単に姿を変えている。
そんな軽薄な自分が、たまらなく恥ずかしかった。
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(2011.07.17)
(2011.07.21UP)