やや薄汚れた扉の前に立ち、は深呼吸を繰り返す。
 マグナに頼まれ、ほんの少し買い物にでかけただけのはずなのだが、すっかり遅くなってしまった。日が暮れるまでにはまだ時間があるが、午前の内に出かけて、帰りが3時のおやつの時間を過ぎているとなると、買い物一つに対して時間のかけすぎだろう。
 途中、お金を落として、召喚獣の少女一人を巻き込んでそれを探して、親切な女性に仕事を紹介してもらって、町中にケーキを配達して、先日門前払いをくらった蒼の派閥に思いがけなく訪問し、ティータイムを楽しみ、帰り道に男に絡まれ、イオスに助けられた。
 買い物一つとは言っても、短い時間の間にずいぶん色々な事があったものだ、とは苦笑を浮かべた。
 とくに、最後の男に絡まれた事と、イオスを怒らせてしまった事は、少々落ち込む要因とも言える。配達の仕事は無事に終わらせたが、暗い表情のまま宿に戻ればマグナとハサハに心配をかけてしまうので、は少しだけ寄り道をしてから宿へと帰ってきた。
 マグナに頼まれた物とは余分に増えた買い物袋を胸に抱き、は最後にもう一度深呼吸をした。

 まず自分がする事は、遅くなったお詫びと買い物の報告。
 それからお金を落とした事を正直に報告し、落とした分を補填した事を告げ、改めてお詫びをしょう、と。

「あ、あのっ!」

 意を決し、は小さく扉をノックする――――――と、最後まで何か言う前に、中から扉が開かれた。

「お帰り!」

 満面の笑みを浮かべて部屋から出てきたマグナに、は瞬く。

「え? え?」

 出ていく前とは打ってかわったマグナの様子にが戸惑っていると、戸惑うを気にもとめず、マグナはを手を取ると部屋の中へと引きずりこんだ。
 引かれるままに部屋の中へと入り、進められるままハサハの座るソファーの隣へと座らされたは、向かいの長椅子に座るマグナを見つめる。
 なぜ急に機嫌が良くなっているのかは判らないが、雰囲気が明るいのは良い事だ。
 少々言い難いことも、出かける前の不機嫌全開なマグナより、今の上機嫌満開なマグナの方が話しやすい。

「あの、ご主人様。実は……」

「明日の朝、一番にファナンに向かう事にしたから」

 預かっていたお金を落としてしまった。
 まずはそう正直に告げようと思ったのだが、ただでさえ言い難い事柄に、自然と小さくなったの声は、元気一杯といって良いマグナの声にかき消されてしまった。

「……え?」

 言葉を遮られてしまったことは、どうでもいい。
 元から気が小さく、まずは他人に一歩譲る事を常とするにしてみれば、珍しいことではない。

「それで、俺たちゼラムはほとんど回ってないだろ?
 せめて今夜ぐらいは名物料理でも食べようって、ハサハと話しててさ」

 は何食べたい? と促され、はソファーと長椅子の中央に置かれたテーブルに視線を落とす。空になったまま放置されたティーカップと一緒に、ややくたびれ始めた王都ゼラムの観光マップが広げられていた。
 そう言えば、ゼラムに到着して早々トリスの旅立ちを知り、マグナはうんうんと唸るばかりで、観光はおろか、ほとんど宿から出てはいない。マグナとハサハが食べたゼラムの料理と言えば、導きの庭園で食べたクレープと、現在宿泊している宿屋の食堂で提供されるものだけだ。
 名物料理らしい料理は、何一つ口にしてはいなかった。

「……ハサハちゃん?」

 何やら隣でくんくんと鼻を鳴らし始めたハサハに、は首を傾げて視線を向ける。
 の視線を受け、匂いを探っていたハサハは短く切りそろえられた髪を揺らしての胸――正確には、胸に抱かれたままの買い物――を見つめた。

「甘いにおい。
 お姉ちゃん、何もってるの……?」

「え?」

 くんくんとハサハに胸元の匂いをかがれ、は身じろぐ。
 そういえば、部屋に戻ってすぐマグナにソファーへと促されたため、買い物を胸に抱いたままだった。マグナに頼まれ、が買ってきた物と言えば、ガーゼと消毒液、携帯食料。食料であれば、食べ物の匂いもするだろうが、乾物が主流である携帯食はハサハが喜びそうな甘い匂いはしない。となれば――――――

「あ、あの、ご主人様!」

「ん?」

 ハサハの指摘する『甘い匂い』のする物を思い出し、は腰を落ち着けたばかりのソファーから立ち上がる。
 常にない勢いで立ち上がったに、何かリクエストがあるのか? とマグナは楽しそうに笑っていた。ニコニコと機嫌良く笑うマグナには申し訳ないのだが、がこれからする話しは『報告』であって、食べたい物の『リクエスト』ではない。

「すみません。
 ご主人様から預かったお金、少し落としちゃいました」

 召喚獣の少女に体当たりをされて落とした、という理由は言わない。
 どんな理由があったにせよ、預かったお金を落とし、無くしてしまったのは自分の責任だ。言い訳はしたくない。
 の突然の報告に、目を丸くして瞬くマグナを申し訳なく思いながら、は預かっていたマグナの財布を差し出した。

「それで、その……親切な方が、仕事を紹介してくれまして……
 一応、全額足りているとは思いますが、御確認ください」

 深々と頭を下げ、マグナの目線へと財布をかかげ持つに、マグナは財布との頭を見比べてから、財布を受け取った。

「……それで帰りが遅かったのか」

「すみません」

 手から財布の重みは消えたが、は顔を上げない。
 まだ、マグナからの許しを貰ってはいなかった。
 ピクリとも動かず、頭を下げた姿勢のまま固まったの頭に、マグナは苦笑を浮かべて手をおく。そのまま時々ハサハにするように、2・3度の頭を撫でた。

「うん、いいよ。頭をあげて」

 マグナに許されてが顔をあげると、マグナが少しだけ腰を上げて財布をポケットにしまうのが見える。
 中身の確認もせずに自分を許したマグナに、は眉をひそめた。

「あの、一応中身の確認を……」

「なんで?」

 そんな必要があるのか? と不思議そうな顔をしたマグナに、は戸惑う。

「なんでって、お金が足りなかったら……」

「人見知りのくせに、初めての街でバイトまでして落としたお金を弁償した子が、
 嘘を付くとは思わないけど?」

 そもそも、本当に全額補填できているのならば、わざわざ莫迦正直にお金を落とした等と報告する必要もない。
 そんな上に莫迦の付く正直者を疑うほど、マグナも隙ではない。
 そんな無駄なことに時間を割くより、王都ゼラムで過ごす最後の夜に、如何に旨い物を選んで食べるか。その相談に時間を割きたい。

「言わなきゃバレない事をわざわざ詫びる子が、お金を誤魔化すとも思わないし」

 ああ、でも……と言葉を遮ったマグナに手招かれ、は素直にそれに従う。
 なんですか? とが顔を近付けると、コツンっと小さな力で額を叩かれた。

「帰りが遅くなるなら、弁償するよりも先に報告が欲しかったかな」

「……すみません」

 僅かにムッと眉をひそめたマグナに、は小さく詫びる。
 やはり、帰りの遅さを心配されていたらしい。となれば、街で男に絡まれた事と、イオスに助けられた事は報告しない方が良いだろう。これ以上マグナに心配はかけさせたくない。

「……で、その包みは?
 さっきからハサハが気にしてるんだけど」

 の胸に抱かれたままの袋を指さし、マグナは首を傾げる。
 二人の会話など興味ないとばかりに、先程からハサハはずっと鼻を鳴らしての胸を気にしていた。

「あ、はい。その……お仕事で、
 落としたのより多くお給金を貰いましたので……」

 胸に抱いた袋を横に起き、頼まれた買い物とは別に買った袋をはマグナに手渡す。ハサハが気にしている甘い匂いの正体は、携帯食料ではない。

「お詫びとお土産を兼ねて」

 手渡された紙袋をマグナが開くと、ハサハは待ちきれないかのようにソファーを降りてマグナの隣へと移動した。
 身を乗り出して覗き込んだ紙袋の中には、色とりどりの飴玉が入っている。

「……甘いにおい」

 うっとりと微笑み、白い尾をゆらゆらと揺らして喜ぶハサハに、マグナともつられて笑う。これから夕食を食べに行こう、と相談していたのだが。ハサハのこの様子では、色とりどりのおはじきにも似た飴玉を一つも口にできないままでは、梃子でもここを動かないだろう。
 マグナは飴玉と自分を見比べ、の顔色を窺うハサハに、苦笑を浮かべた。

「じゃあ、一つだけ食べてから、観光がてら外に夕飯を食べに行こうか」

 苦笑いを浮かべながらそう提案するマグナに、は「はい」と言葉で答え、ハサハは何度も力強く頷くことで応えた。






  

(2010.03.16)
(2010.03.18UP)