パタパタと小さく音をたてながら走り去る少女の背中に、イオスは一瞬だけ呼び止めようと手を伸ばしかけた。が、すぐにそれに気が付いて手を戻す。
自分が手を伸ばしてはいけないと、イオスは知っていた。
自分にユウナを引き止める権利はない。言い訳はできないが、少女に八つ当たりをしてしまった。彼女の疑問はもっともであり、適当なことをいって場をやり過ごすことも出来たはずなのに。
何も知らない彼女が恨めしい。
これまでと変わらず、綺麗な手をした少女が、イオスには眩しすぎた。
デグレアを旅立ったのは、ほど同時期だと言うのに。
つい先日、自分達がレルムの村でおこなった非道を告げたら、彼女はどんな顔をするのだろうか。
マグナに守られ、ここまで旅をしてきた彼女は、おそらくまだ人を殺してはいない。デグレアの顧問召喚師に育てられた少年は、個人で一個小隊にもまさる力を持ちながら、他者を傷つける事をよしとしない。たとえ旅の途中で山賊に襲われたとしても、相手の身動きを封じてやり過ごすか、自分達が逃げ出す事を選ぶだろう。間違っても、命までは奪わないはずだ。
元老院に支配されていないマグナとユウナには、襲撃者に対する生殺与奪権がある。
元老院に支配された軍人であるイオスには、敵対する者――『敵対』ならまだ良い。向い来る者が明確な『敵』であれば、イオスの気も楽になる。問題なのは相手が無抵抗の一般市民であっても、とい所だ――を生かす権利はない。
元老院議会の決定は『絶対』だ。
例えそれが老若男女、病人、怪我人を問わない虐殺行為であっても、イオスは決定に従うしかない。
ユウナと自分。
あまりにかけ離れた現実に、自分から彼女を拒絶してしまった。
軍人ではない彼女が、自分達がおこなった事を知っているはずはないのに。
己のおこなった行為を知られるのが怖くて、何気なく振られた話題に過剰な反応を返してしまった。突然大声で怒鳴られ、あの気の小さい少女はさぞや驚いたことだろう。とはいえ、一般人である少女が軍人に対して『何をしにきた?』等と聞いて良い物でもない。
ここは一つ、一方的ではあるが『お互い様』として、次にあった時にでも詫びれば良い。
そう、次に『会う』ことがあれば。
青年の大声と、驚いて逃げ出した少女に、痴話喧嘩か? と集まっていた周囲の視線を、イオスは一睨みで四散させる。
角を曲がったユウナが一軒の店へと駆け込むのをイオスが確認すると、背後から小さな声で話しかけられた。
「……イオス隊長」
物陰から発せられた言葉に、イオスは視線だけで振り返る。
背後に立つパン屋と軽食屋の物陰に、目立たぬよう暗い色合いの服を選んで着ている男が立っていた。
「例の双児が何者かと接触をしました」
低い声で報告を受け、イオスは体ごと男を振り返る。つい今し方周囲の視線を集めてしまったばかりのイオスは、男を押し込むように自身も物陰へと滑り込んだ。
ひとまず、少女に八つ当たりをしてしまったことは頭の片隅へと追いやる。
自分が今すべきことは、少女一人の御機嫌取りではない。
自分が今すべきことは、敬愛する上司のため、自分達にかせられた命令を遂行することだけだ、と自分に言い聞かせて。
前 戻 次
(2010.03.15)
(2010.03.16UP)