蒼の派閥の門を出て、は背にした建物と門番を振り返る。
 そのままぺこりと頭を下げると、笑顔こそ見せなかったが、門番もつられたように小さく会釈を返してくれた。

 これにて、すべての配達終了。

 後は店に戻り、配達票の確認をして、制服とバスケットを返却すれば、の仕事は終了である。パッフェルは時給制と言っていたが、お茶をと引き止められた事はしっかりと報告しなければならないだろう。
 ほんの少しの予定だったが、たっぷりと1時間は引き止められてしまった。
 蒼の派閥が最後の配達先――今思えば、エクスに引き止められる事が前提で、『最後に回れ』とパッフェルは自分に言ったのかもしれない――であったため、バスケットの中身は空っぽだが、急いで店に帰らなければならない。

 それにしても。

(エクス君、可愛かったなぁ……)

 好奇心で顔を輝かせ、の話しに聞きいる少年は可愛かった。
 表情をころころと変えるエクスが可愛く、また聞き上手で、つい余計な事も話してしまった気もするが、まずい話しはしていないはず……と、改めて確認しながら、は早足に大通りを歩く。
 区画ごとに色分けされた道を歩き、再開発区を越えて商店の立ち並ぶ中央通りに出る。目当ての店は、角を曲がればすぐに見える距離にある。






「お〜い、久しぶり!」

 横合いからそんな声が聞こえてきたが、知らない声であったため、はそれを無視した。
 自分のいる方向へと発せられた声だったが、にはゼラムに知り合いなどいない。つまり、街の中で知り合いにばったりと合うこともない。

「こらこら、無視はないだろう、無視は」

 どうやら声の主は、声をかけた相手に気付かれなかったらしい。
 僅かに気分を害した声音が続いて聞こえた。

「おいってばっ!?」

「え!?」

 突然肩を掴まれ、は瞬く。
 そのまま強い力で強引に振り向かされると、濃い茶髪の若い男が立っていた。

「よ! 久しぶり!」

「え〜っと、……人違いだと思います」

 人懐っこい笑みを浮かべ、馴れ馴れしくも旧知の間柄であるかの様に話し掛けてくる男に、は首を傾げた。

「いやいや、俺だよ。俺俺」

 あまりに自信たっぷり返され、『知らない人間』という自分の認識が間違っているのか、とは記憶を探る。こうも見事に言い切られてしまっては、自分の方が間違っている気がしてくるから不思議だ。

「……すみません。本当に人違いだと思います」

「いやいや、君だよ、君。
 一度あったことがあるだろ?」

 ほんの僅かな会話ながら、若者ができる限り避けて通りたいタイプの人間であることは十二分に判った。が、やはり自分の思い違いかと、はリインバウムに来てから出会った記憶にある限りの男性を思い出してみる――――――のだが、どうしても目の前の男に覚えはない。

「初対面……だと思いますが?」

「いやいや、一度絶対にあっているよ」

 そう自信満々に答える若者に、は困惑した。
 続いた言葉を聞くまでは。

「……前世で!」

 これが話しに聞く『ナンパ』と言うものか。
 はのんびりと理解した。
 本当に自分の勘違いであったら申し訳ない、と思っていた自分が莫迦らしい。
 相手がまったくの見知らぬ男であり、かつ、ろくでもない相手と知った今では、早々にこの場を立ち去りたい。
 それも、全力疾走で。

「それ、角のケーキ屋の制服だよね?」

 さて、どう逃げ出したものか。
 そう考え始めていたは、男の言葉にがっくりと肩を落とす。
 店の制服を覚えられてしまっていては、むげにもできない。
 一日だけのアルバイトとはいえ、自分はケーキ屋の店員だ。店の評判は落とせない。

「俺、あそこの制服は前から可愛いって思ってたんだけど……」

 無遠慮な若者の視線に、は反射的に半歩後ろへと下がる。
 気持ちの悪い視線だった。
 自分が今着ているケーキ屋の制服は、パッフェルが着ていた物の色違いだ。パッフェルは明るいオレンジ色を着ていたが、が身に付いている物は薄いピンク色をしている。女性らしい体つきをしたパッフェルが着ていた制服は、同性のから見ても可愛らしく、また色っぽかった。が、自分がいざ着てみると白いレースのエプロンが可愛いらしく、心が浮き足立つことはあっても、パッフェルに対して『色っぽい』と感じた部分はまったく気にも止めていなかった。
 今現在、いやらしくも全身を這い回るような男の視線に晒されるまでは。

「やっぱ、可愛い子が着ると違うなぁ……。
 あそこの店員で、中身が制服の可愛さに負けてない子なんて、
 胸のおっきな子と、君ぐらいだと思うよ」

 若者の言う『胸のおっきな子』とはパッフェルのことだろう。
 今にも伸びてきそうな若者の手から胸を庇うように、はバスケットを抱き締める。藤で編まれたバスケットが軋んだ。
 どうにかして逃げ出したい。
 ただし、店を覚えられているため、店の心象を悪くすることなく、穏便に。

「ねー、聞いてる?」

 さて、どうしたものかと、が視線を泳がせていると、視界へと男の顔が飛び込んで来た。
 視界から追い出したくて追い出した顔に、は驚いて後ずさったが、男の方はの関心が自分に戻った事を確信し、満足げに微笑んだ。

(……どうしよう)

 こんな時、マグナがいれば上手く自分を連れ出してくれるのだが。
 今、この場にいるのは自分だけで、マグナはいない。
 難局を自分だけで乗り越えねばならないのか、とが男に気がつかれないように視線を逸らすと、視界の隅に知った背中を見つけた。

(……あれ?)

 気のせいか? と視界の隅を掠めた背中が気になり、は目の前の若者などどうでも良くなってしまった。
 逃げたいが店の評判は落としたくないと対応に困っていた若者のことなど忘れ、は知人の背中へと顔を向ける。
 その視線の先に、気のせいではない『知った背中』が確かに存在した。

「あ……」

 小さく漏れたの声に、背中の主も気が付いたらしい。
 背中の主――黒い外套を纏った金髪の青年――は、ゆっくりとと若者の方へと振り返った。







  

(2010.03.15)
(2010.03.16UP)