夜は男と女が溢れる華やかな色街であっても、正午前の時間帯となれば静まりかえっている。この界隈を寝床、あるいは職場としている者達は、今頃は夢の中だろう。昼過ぎにようやく起きだし、夕方に向けて商売の準備を始める。一般住宅区や商業区の住人達とは、生活のリズムが真逆なのだ。おかげでマグナが養父を追って飛び込んだ路地には、通行人らしい通行人もいない。
酒場と安宿の建物の間に腰を低くして身を隠しながら、マグナはようやく見つけた通行人ならぬ、黒猫を見送る。黒猫はマグナの目の前を通り過ぎると、角を曲がって養父の足下をすり抜けていった。
「……それで、トリスさんには会えたんですか?」
マグナを建物の影に押し込め、自身は路上に立ち、たまに見かける通行人の視線を己に集めることで養子の姿を誰からも隠し、レイムは細い指で竪琴を撫でる。
はた目には竪琴の調律をする吟遊詩人に見えていることだろう。
マグナの目には、言い付けをやぶった自分への制裁として振るった鈍器の手入れをしているようにしか見えなかったが。
「それが、……入れ違いのタイミングで、ゼラムを出たらしいんだ」
「ゼラムを?」
せっかくの養父の好意、と身を隠すマグナの声は自然と小さくなる。とはいえ、この場にいる自分達だけの会話だ。誰に聞かせる必要もないので、元から大声で話す必要もない。
「派閥の指令で、『見聞の旅』に出たらしい」
デグレア本国で、聖王国に対する軍事活動の兆しがある。トリスと再会できたのなら、速やかに聖王国から連れだせ、と養父には言われていたが。
当のトリスが見つからなければ、連れ出すことはできない。
聖王国中を探し回ろうにも、トリスがゼラムを出て北へ向かったのか、南へ向かったのかも判らない。これでは、トリスを見つけだす前にデグレアによる聖王国侵攻が始まってしまう。
「……なるほど。
それであなたはトリスさんが南のファナンへ向かうか、
故郷のある北へ向かうかを悩んで、ゼラムで腐っていたわけですか」
「別に、腐っては……」
トリスの行方について、何日前に知ったかをマグナはまだ話していない。
にも関わらず、養父はマグナがゼラムで足踏みをしていたと確信していた。あながち間違いではない――むしろ正解だ――だけに、マグナは唇を尖らせる。
自分としては『腐って』いたつもりはないが、に対して自分が行ったことは、確かに『腐って』いたかもしれない。用事を押し付ける形とはいえ部屋から追い出せば、あの気の小さい娘がどう思うか、少し考えれば誰にでも判る。
「マグナ、あなたに一つ『ためになる言葉』を教えましょう」
そっとため息をはいた後、竪琴を撫でる手を止めてレイムは瞳だけマグナに向けた。顔は決してマグナに向けない。建物の影には誰もいない、と向かいの建物の窓から顔を見せた女に演じる。女の関心が自分達にあろうがなかろうが、背後の息子と無関係を装おうことに損はない。
「『下手の考え、休むに似たり』」
「……なんだよ、それ?」
肩にマグナの視線を感じながら、レイムは小さく肩をすくめた。
「莫迦が考えたところで高が知れている。
悩む前に行動をしろ、という先人のありがたい言葉ですよ」
言いたい事は良くわからないが、莫迦にされている事だけは判ったマグナはムッと眉を寄せ、唇を引き結ぶ。
「行動しろって、そうは言っても……」
これ以上行き違いになってしまっては、ますますトリスが見つけられなくなってしまう。北へ向かうか、南へ向かうかという選択は、マグナにとっては重要な問題だ。さすがに、いつものように勘だけで突っ走る事はできなかった。
「それが『下手の考え』なんですよ。
いいですか? まずは北の町に行くにせよ、
『見聞の旅』等と言う御大層な物に出るというのならば、
トリスさんはいずれ必ず南のファナンへ向かうはずです」
見聞の旅とは、目的地のある『観光』とは違う。
広く世間を見聞きし、経験や知識を得る事を『目的』とする。
そこに明確な『目的地』はなく、第三者に『期限』を定められることも出来ない。旅すること事体が『目的』の、急ぐ必要もない『目的のない』旅だ。トリスは旅程を自由に選択できる。港のある南のファナンは広い世界へと旅立つためには必ず立ち寄る場所だが、北の町にはそれより先に何もない。一度は立ち寄るかもしれないが、必ずファナンへと戻ってくる必要がある。
トリスを追いかけ、追い付く事ばかりを考えていたマグナは、待ち伏せることが可能であることに気が付いていなかった。
「……そうか。
ファナンで待つ、って手もあるのか」
「まあ、トリスさんが北の町へ向かったのなら『待つ』でいいんでしょうが」
マグナが王都で足踏みをしている間に、トリスは南へ向かったかもしれない。
故郷が北にあるとはいえ、必ずしもそこに向かうとは限らない。
現に、マグナ本人でさえ聖王国へ足を踏み入れているのに北の町へは行っていない。記憶に薄い故郷よりも、現在妹が住んでいるはずだった王都を優先させた。
王都で暮していたトリスがこれまで一度も里帰りをしていないとは言い切れないし、マグナと血の繋がった妹が郷愁にかられる性質かも妖しい。なんといっても暴走傾向にあるマグナの妹である。せっかく見聞の旅に出るのなら、と勢いづけて故郷になど目もくれず、広い世界へと関心を向ける性格の方が、より『マグナの妹』らしい。
マグナもレイムと同じ結論に至ったのか、さっと青ざめて腰を上げた。
トリスがファナンへ向かったとすれば、数日をゼラムで過ごしたのは完全に失敗だ。今すぐにでも王都から出立しなければ、とてもトリスには追いつけない。
すぐに宿に戻ろう、とマグナは半歩足を踏み出し、止まる。
「そういえば、養父……じゃない。
レイムさんは、なんでゼラムに?」
聖王国に行くとは聞いていたが、三砦都市トライドラ、港湾都市ファナンを越えて王都の中にまで入り込んでいるとは思わなかった。
首を傾げるマグナに、小さな子どもに対してするように、レイムは『内緒です』と唇に指を当てて答える。
「大人のお仕事のお話です」
養子とはいえ、レイムの仕事にマグナは関係ない。
そのうえ、レイムの仕事といえば軍事機密にも関わる。
ますますをもって、マグナのような部外者に漏らすわけには行かない。
「さあ、あなたは早く行きなさい」
そう言って、レイムはまるで野良犬を追い払うように小さく手を振った。
「……ファナンへは、明日の朝一番に出なさい」
「え? でも……」
宿に戻ってハサハに一声かけ、を探してすぐにゼラムを出ようと思っていたマグナは、養父の言葉に渋面を浮かべる。数日を無駄に過ごしてしまった今、一刻も早くファナンへと向かいたかった。
「まさか、宿に戻って即出立するつもりだったんですか?
さんやハサハさんの都合も考えなさい」
マグナ1人であれば、着の身着のままであっても、野鳥などを捕まえて野宿でも何でも旅を続けられるであろうが。とハサハという女の子を2人もつれていれば、そうはいかない。安全な街道を選んで進む旅路に、遭遇できる獣や野草は少ない。
「あ……そうか。
うん、ありがとう。と……レイム、さん」
連れの女の子2人を気遣え、と養父に釘を刺され、マグナはばつが悪そうに頭を掻く。
いつもそうだ。すぐに忘れてしまう。
少女2人に『護衛獣』としての働きは、マグナもレイムも期待していない。あの2人の少女の役割は、マグナの手綱を握ることだ。ともすれば暴走を繰り返すマグナを思いとどまらせ、危険を避け、より安全な旅程を選ばせるための。
ついいつものように『養父さん』と呼びかけそうになり、マグナは慌てて改める。
デグレアを出る前に注意された事だと言うのに、こちらもなかなか覚えれなかった。
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(2010.03.14)
(2010.03.16UP)