「?」
一歩足を踏み入れた森の雰囲気に、アリエッタは小さく首を傾げた。
アリエッタがこの『チーグルの森』と呼ばれる森に来たのは、一度だけだ。チーグルの森の北にある森が火事になった後、そこに住んでいた養母達が住処を移した際に、一度だけ養母と兄弟達の様子を見に来たことがある。
その一度だけだ。
たった一度。
アリエッタにとって馴染みのある森ではなかったが、それでも感じる異変がある。
耳を澄ます。
小さな獣と、それを捕食する大形の獣の徘徊する足音。
鳥のさえずり。
げっ歯類がドングリを齧る音。
風が木々を揺らす時に奏でられる葉音。
何一つ、おかしな物はない。
それらは、森にあって然るべき物。むしろ、ない方がおかしい。
にも関わらず、拭えぬ違和感にアリエッタは首を傾げた。
「……変」
横に並ぶ兄弟に視線を落とす。彼も異変を感じ取っているようだった。心持ち低く構えた姿勢。耳は気配を探るようにピンとたてられたままで、アリエッタの進む先を見据えている。
アリエッタは兄弟の視線を追うように、視線を前方に戻し、眉を寄せた。
気になる事がある。
だから、アリエッタは現在の仲間達と別行動をとった。
タルタロスの復旧作業に追われる仲間達から離れ、森に。
「……おなか、もやもやする……」
――――――止まらない胸騒ぎ。
大切な人に教えられた『人間の歩き方』ではもどかしい。
兄弟と同じように『歩けば』、自分はもっと早く歩けるのに。
「ごめんなさい、イオン様……。
ちょっとだけ、ちょっとだけだから……」
この場にはいない、『人間の歩き方』を教えてくれた人に詫びて、アリエッタはぬいぐるみを口に加える。それから腰を落として、兄弟と同じ姿勢をとった。
「ママのところへ、急ぐよ」
アリエッタの一声。
隣の兄弟は、その声に続くように地を蹴った。
タルタロスであった見知らぬ娘から、懐かしい匂いがした。
大好きなイオンの隣にたった、イオンと同じ髪と瞳の色をした娘。
アリエッタは、その娘が誰なのか知らない。
知らないが……その娘が『人間』である事は解る。
養母ライガ・クイーンの匂いをさせた、『人間』の娘。
自分は『ライガ・クイーンの娘』であって、『人間』ではない。
だから、人間の姿をしていても、ライガ・クイーンの匂いを纏うこともある。
けれど、あの娘は違う。
彼女は『娘』ではなく、『人間』であるのだから、ライガ・クイーンの匂いを纏っているはずがない。
養母を含む、兄弟達はみな『人間』を捕食する。
力の弱い弟達であれば狩りの標的とした人間に逆に狩られることもあるだろうが……種で最強を誇る女王が人間に―――それも、あんな小さな娘に―――狩られるなど、あり得ない。
ならば、何故――――――ライガ・クイーンの匂いが移る距離に近付いたと思われる人間が、『生きて』いるのか。
女王の前に立ち、『人間』が生き残る可能性などない。
ということは――――――
ライガ・クイーンが寝所として選んだ洞の前に立ち、アリエッタは辺りを見渡す。
入り口には数頭の弟達。
背後には、この場所に来る途中でアリエッタの姿を認め、ついてきた弟達。
みな様子がおかしい。
どこか落ち着きなく尾を揺らし、一ケ所に留まる事なくふらふらと素穴の周りを歩いている。
(……イオン様の匂い……?)
素穴近くに大好きな人の匂いを見つけ、アリエッタは眉を寄せる。
何故イオンの匂いがするのか。確認するように匂いの元へと顔を近付けたアリエッタの鼻に、ふわりっと素穴から洩れた濃い血の香りが届いた。
「! ……ママっ!?」
イオンの香りよりも強い、養母の香り。
それは慣れ親しんだ養母の香りではない。
色濃くも明らかな……死臭。
「ママ、ママっ!?」
素穴の異変に、兄弟を伴ってアリエッタは洞へと飛び込む。
寝室に近付くにつれ、複数の人間の匂いを嗅ぎとった。
寝所の外にアニスの匂い。
入ってすぐの壁にイオンの匂い。
あまり移動していないが、入り口付近にあるのはタルタロスで自分に槍を突き付けた男の匂い。
「――――――っ!!?」
声にならない悲鳴が洩れた。
匂いを探りながら、部屋を見渡すアリエッタの視界に移ったのは、冷たい骸を晒す愛しい養母。
「ママっ! ママっ!!」
すぐに養母に走りより、アリエッタはその首筋に抱き着いた。
脈はない。
温もりもない。
巨大な体から流れ出た血は、すでに固まっており、アリエッタの服を汚す事はなかった。もっとも、アリエッタにしてみれば、大切な養母の血と匂い。その血で全身を汚しても、『汚れた』などとは思わず、喜んだであろうが。……ただし、養母が生きていたのなら。
「……イオン様と、アニスの匂い。
それと、マルクトの死霊使いの匂いと……」
養母の骸から体を離し、アリエッタは寝所を探る。
あまり空気の流れない寝所の中には、今だ襲撃者達の痕跡が残っていた。
「あの二人の匂い」
部屋中にルークとティアの匂いを見つけ、アリエッタは眉を寄せる。
おそらくは、養母を殺したのはこの2人。
寝所に入っていないアニスと、壁際に濃く匂いの残ったイオンは関わっていない。
「……あの人は?」
タルタロスで微かに養母の匂いをさせた娘の匂いは、とても薄い。イオンと同じく壁際に感じるが、イオンのそれよりもずっと弱い。
「……?」
首を傾げながら、アリエッタはベッドへと近付く。
人間達が繁殖期にはいったライガを狩る時、卵は全て割る。昔、イオンにそう教えられた。けれど、他の人間はともかく、イオンはアリエッタがライガ・クイーンに育てられた事を知っている。
あの優しいイオンがいたのならば、卵が割られていない可能性も――――――
「……見つけた」
無惨に割られた卵を見下ろして、アリエッタは目を見開く。
イオンと同じ色をもった娘の匂いは、ここが……ベッドの上が一番強い。
それも、卵付近――――――腐った弟達の体からも匂う。
そして、アリエッタはようやく理解した。
何故、養母の匂いの移った人間がタルタロス前にいたのか。
どのようにして、人間の娘に養母の匂いが移っていたのか。
誰が養母と弟達を殺したのか。
「…………」
腐った弟達の体を抱き上げて、アリエッタは養母の骸にしがみつく。
犯人に辿り着き、ようやくこぼれはじめた涙が、アリエッタの頬をぬらした。
「……ママ……ママ……」
頬を伝う涙が固まった養母の血を溶かし、僅かにアリエッタの頬を汚す。
たてがみに顔をうめれば、微かに死臭の混ざらぬ養母の香りがした。
「〜〜〜〜〜〜〜っ!」
泣きじゃくるアリエッタに、洞穴までついてきた兄弟達が習う。が、こちらはアリエッタとは違う。母の骸にすがりついて泣くのではない。
女王とて、骸になってしまえばただの『肉』。
それが、彼等なりの『埋葬』なのかもしれない。
泣きやんだアリエッタが養母から体を離すと、我先にと、他の兄弟がそこに食らい付く。
人間の常識からすれば『死んだ母親を食べるなんて』と止めるのかもしれないが、アリエッタは人間の姿をしていても、ライガに育てられた。どちからとえいば、人よりも獣に近い。体のつくりは確かに100%人間であったが、その心は。
養母に食らい付く兄弟を、アリエッタは静かに見守った。
やがて、常にアリエッタに付き従う兄弟―――この場にいるモノ達の中では、最年長だ。体の大きさも、チーグルの森に住むものとは比較にならない―――も『埋葬』を切り上げ、アリエッタの横に並ぶ。
一匹の女王が治めるライガの世界。
これまでの女王が死んだ今、次の支配者はアリエッタ。
低く響いた兄の唸り声に、年少のモノ達は動きを止め、顔をあげた。
瞳に移すのは、最年長の1頭と、新しい自分達の女王。
涙をぬぐったアリエッタは、群れの新たな女王として、口を開いた。
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死んだ魔物はすぐに音素になるんでしたか?(笑)
でも、これだと、死んだ人間がすぐに音素にならないのは不思議。
ま、『ゲーム』の話しですし?(逃)
でも、気になる(笑)
人は死んでも、土にかえらない? オールドラントって。