「……

 ようやくコツを掴みはじめたを、驚かさないよう小さな声でイオンは呼び掛ける。
 集中しているには聞こえていないのか、反応はない。

?」

 ぴくりっと微かにの指先が震えた。
 ゆっくりと左右に振られる頭。



「……は、はい?」

 3度目の呼び掛けに、ようやくは緩慢な動きで応えた。





 少しだけ気づかう響きを持つイオンの呼び掛けに、の意識は覚醒する。
 それから緩く首を振った。

(今、何か――――――)

 夢を見ていた気がする。
 もしくは、ほんの少しだけ意識がとんでいた。

 そんな気がする。
 そんな場合ではないのだが。

「……今の感覚を捕まえたまま、ゆっくりと目を開いてください」

「はい……」

 とくり、とくりと感じた心音は、今もの意識下にある。
 その感覚を、一度知ってしまえば継続的に捕まえておくことは簡単だった。

 イオンの指事に従い、はゆっくりと目を開く。
 視界に映ったのは、ほんのりと光を放つ自分とイオンの手。
 普通であれば驚く現象であるが、今はそれが自然なのだと感じられた。

「ここから先は、歴代の導師にのみ伝えられる秘中の秘なので、
 今は説明できませんが……よく見ておいてください」

「はい」

 が応えると同時に動き始める『ダアト式封咒』の紋様。
 まるでパズルを解くような不規則な動きを見守っていると、最後に開錠の音が響き、封咒の扉はパキリっとガラスが割れるような音をたてて消えた。

「……これで、ダアト式封咒の解除は終わりです」

 ふぅっと深くため息を吐きながら手を降ろすイオンに、は解放された自分の手を見つめる。
 もう、光ってはいなかった。
 ほんのりと感じていた温もりもない。
 イオンと手を重ねている間はそれが自然なのだ、と思えたが……やはり手を離すと不思議に思える。
 自分の手が光を発していた、などと。

 しばらく自分の手を見下ろした後、はイオンに振り返る。

「……そういえば、イオン君。体は大丈夫なの?
 さっき、いっぱいダアト式譜術つかってたけど……」

 ダアト式譜術に加え、封咒まで解いたのだから、イオンの負担は相当なものだろう。
 が眉を寄せながらイオンを見上げると、イオンは柔らかく微笑んだ。

が手伝ってくれたおかげで、だいぶ楽ができました。
 僕は大丈夫ですよ」

「でも、わたし何もしてない……」

 ただ云われるままに目を閉じ、イオンの心音を探していただけだ。
 手伝うどころか、足を引っ張ったに違いない。

「そんなことはありません」

 眉を寄せたままのに、イオンはどう説明すれば立派に手伝いができた、と伝えられるのか考える。
 譜術を使った事のないに、譜術士特有の感覚をそのまま伝えても、きっと伝わらないだろう。
 それこそ、『集中』という行為を説明した時のように。
 譜術士と、そうでない者の間には、決定的な価値観の相違がある。

 さて、どう説明したものか――――――そう眉を寄せるイオンの横に、リグレットが並んだ。その動きに続き、とイオンの周りを4人の兵士が固める。

「お疲れ様です、導師」

「……リグレット、セフィロトの扉など解放させて、いったい何をするつもりですか?」

「導師が知る必要はないことです。
 お二人を馬車へ御連れしろ! ……丁重にな」

 イオンの問いに答えることなく、リグレットは兵士に指事を出す。
 姿勢を正し、応えた兵士はイオンとを誘導する。

「……また、あのお尻の痛い馬車に詰め込まれるのね……」

 そう呟いたに、後ろに続いた兵士が顔をあげた。






「……どうぞ」

「?」

 差し出された布―――模様を見る限り、神託の盾騎士団の外套だろう。見覚えのあるハートマークに似た紋様があしらわれている―――を受け取り、は戸惑う。
 『どうぞ』ということは、『これを使え』という意味であろうが……何に使うのだろうか? 今は日中なので外套を纏う程寒くはないし、そもそもトレードマークとも云える外套を脱いでしまい、この兵士は怒られないのだろうか? 軍人というものは、とかく規律に縛られるはずだ。
 外套を受け取り、首をかしげるに、兵士は言葉を足した。

「多少は振動がましになるかと」

「え? あ、ありがとうございます……」

 つまり、『乗り心地の悪い馬車』が多少はましになる、ということらしい。
 差し出された外套の使い方は解ったが、の首は傾げられたままだった。

「すぐに導師の分も用意いたします」

「僕は平気ですから、のクッション代わりをもう1枚お願いします」

「はっ」

 イオンとに敬礼し、兵士は馬車の扉を閉める。そのまま見張りを他の兵に任せ、クッションの代わりになる物を求めて彼は走り去った。

「??? 何?」

 気のせいか、急に待遇が良くなった気がする。
 シュレーの丘に来るまでは、お尻が痛いとぼやいても黙殺されていたのだが。
 今回はほとんど愚痴のようなつぶやきに、反応が返ってきた。

「……の血が証明されたからですよ」

「血?」

 何の事か解らず、ますます首を傾げるに、イオンは苦笑を浮かべる。

「そうですね……血筋のことはおいて置くとしても、
 に第七音素譜術士の素質があることは証明されました」

「第七音素譜術士って……さっきの?」

 云われるままにやってみただけの『集中』の事か? とは瞬いた。

「はい。
 は僕と同じ、第七音素譜術士です」

「……何かの間違いだと思いますよ。
 わたし、譜術なんて使えないし」

 先程の光をみた後とはいえ、さすがにそれは信じられない。
 自分の譜術士としての素質があるなどと。

「ですが、は先程……音素を操りました。
 少なくとも、素質はあります」

「そんなものでしょうか?」

「はい」

 釈然としないながらも、イオンに笑顔で断言されては黙るしかない。
 地球生まれの自分に、フォンスロットなど存在しないと知っているからこそ、何をみてもイオンの勘違いだ、とには信じることができなかったが。

 イオンは何か、勘違いをしている。

 イオンは平気そうな顔をしているが、結局はひとりで封咒を解いたのだ。


 そうとしか、には思えなかった。