とくり、とくりと心臓が鳴く。
咽がひどく渇いた。
目は項垂れた金色から逸らせない。
「……」
亜麻色の髪をした少年は唇を動かすが、微かに洩れた音は周りの喧騒にかき消され、金色の髪をした少女まで届かない。
「子供がこんな所で何をしているっ!」
耳もとで聞こえた怒声。
続いて肩を強く掴まれたが、少年は少女から目を離さなかった。
「見張りは何をしていた!
こんな子供をここまで入り込ませるとは……」
「その子供はいいんだ」
その子供はフェンデ家の……と頭上を飛び交う兵士の言葉には耳を向けず、少年――――――ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデは身じろぐ。
自分を捕まえた兵士の腕から逃げ出し、一刻も早く金色の少女の元へ行かなければならない。何をされたのか、ヴァンデスデルカには解らなかったが、可哀想に。機械に繋がれた幼い少女は、自分の名を呼ぶヴァンデスデルカの声にぴくりとも反応を見せない。ぐったりと床……否。機械に繋がれているので、それは『台座』だ。台座に額を付け、項垂れている。
「なんで貴族の子息がこんな場所に――――――」
「それより、巻き込んでしまっては後々――――――」
「研究者と貴族院の連中は優先的に――――――」
「とにかく、その子供をここから――――――」
断片的に聞こえた単語に、ヴァンデスデルカが身構えるよりも早く、腹部に兵士の腕がまわされた。
「放せっ!」
まるで体重など感じない、とでも云うように軽々と担ぎ上げられ、兵士の腕の中でヴァンデスデルカは暴れる。
自分が今するべきことは、貴族の子息として島外へと脱出させられることではない。
機械に繋がれた少女の未来の伴侶として、少女を『ここ』から連れ出すことだ。
決して少女を機械に繋いだまま、自分だけ安全な島外へと逃れることではない。
大人達が『研究所』と呼ばれる施設で何かを作っていたことは知っていた。
それが軍の施設であり、警備が厳重であったことも。
けれど、自分と少女……もう一人の幼馴染みは、その施設に何度も忍び込み、研究者達の『実験』を覗き見ていた。その実験の目指すものは理解できなかったが。
いつも整理され、塵一つ転がっていなかった研究室が、今は見る影もない。
何台と並んでいた演算機はすべて運び出され、机の上が奇妙に広く感じられる。几帳面に棚へと並べられた書類の一部は運び出され、また一部は床に散らばっている。それを拾い集める者はなく、踏み付け、まだ運び出していない別の書類に手を伸ばす。持ち出す書類と、捨て置く書類を区別するのは研究者で、それを運ぶのは兵士の役割。見事な役割分担がなされている中で、少女を繋いだ機械の側に兵士の姿はなく、2人の研究者が黙々と作業を続けていた。
「! !!」
ヴァンデスデルカの声は愛しい少女には届かない。
けれど、その側に立つ研究者には届いた。
作業を進めていた手を止め、研究者がヴァンデスデルカを見つめる。
「……その少年は?」
「フェンデ家の御子息です」
「名前は?」
「たしか……ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデ」
「ヴァンデスデルカ……栄光を掴む者……」
思案気に寄せられた研究者の眉に、少年の体を担ぎ上げ、施設の外へと退去させようとしていた兵士は立ちとまった。
「放せっ! 放せっ!!」
自分を運び出そうとする動きを止めた兵士に、ここぞとばかりにヴァンデスデルカは暴れはじめ――――――先に言葉を交わしていた、もう一人の兵士の腰に下げられた剣に目が吸い寄せられた。
「……の代わりに私を機械に繋げばいい」
ぴたりと止まった頭上を飛び交う声に、ヴァンデスデルカは兵士の剣を抜き取る。そのまま剣をひと振りし、自分の体を支える兵士の腕を斬り付けると、緩められた腕から逃げ出した。
「そうだ。
の代わりに、私をつなげ」
斬り付けられたとはいえ、相手は貴族の子息。
力任せに剣を奪い取ることができず困惑する兵士に、ヴァンデスデルカは剣を構える。
「には無理だ。
あんなに弱っていては、耐えられない」
何に耐える必要があるのか。
それは解らなかったが、ヴァンデスデルカの口は自然とそう動いた。
自分が逃がそうとされるのは、マルクト貴族で、健康であるから。
そして、少女が機械に繋がれているのは、同じ貴族であっても、決して認める事はできないが――――――死の影が憑きまとっているからだ。
生きる者と、生き残る可能性の低い者。
どちらを犠牲に選ぶかは、考えるまでもない。
「を解放し、私を繋げ」
「しかし……」
言い淀む兵士に、ヴァンデスデルカは剣を薙ぐ。振り返るよりも早く、自分を取り押さえようと背後に迫った気配を切り倒した。
「……いいでしょう」
奪い取った剣を上段に構え、油断なく見据える少年に、研究者は応える。
すぐに少女を機械につないでいたもう一人の研究者に指事を出すと、ほどなく少女は機械から解放された。
「……」
浅い呼吸を繰り返す少女を、ヴァンデスデルカは一度だけ強く抱き締める。
いつか、自分の伴侶となるはずだった少女。
明るい日の光の元、太陽の匂いがした金の髪からは、今は薬品の香りがした。
機械に繋がれゆくヴァンデスデルカに、最初に斬り付けられた兵士が跪く。
その腕に少女を託そうと顔をあげると、室内に新たな侵入者が現れた。
「ヴァンデスデルカ! これは、いったい……」
老騎士が怒鳴りこみながら室内を横切る。
ヴァンデスデルカが兵士に斬り付けた、と知らせを聞いて駆け付けたのだろう。
老騎士は、ヴァンデスデルカの剣の師にして、腕の中に閉じ込めた少女の祖父。
少女を托すのに、これ以上の適任者はいなかった。
「ペールギュント様」
自分の思いのほか弱々しい声音に、ヴァンデスデルカは瞬く。
自分は何を弱気になっているのだろう?
自分が機械に繋がれることによって、大切な少女は島外へと脱出できるのだ。
まだ誰一人守れぬ小さな自分にとって、これほど誇れること行いはあるまい。
そう思っているのに――――――老騎士の名を呼ぶ自分の声は、微かに震えていた。
「ヴァンデスデルカ……!?」
ヴァンデスデルカに抱かれた孫娘の姿に、ペールギュントは息を飲む。
そして、同時に理解した。
分別ある少年が、自国の兵士を斬り付けた理由を。
「ペールギュント様……を……」
ほとんど反射的に差し出された手に少女を托し、ヴァンデスデルカは引きつった笑顔を浮かべる。
「と、ガイラルディア様を……」
この混乱から、救い出して欲しい。
ヴァンデスデルカが全てを告げる前に、老騎士は頷いた。
一人、また一人と逃げ出す研究者、資料を運ぶ兵士も、ヴァンデスデルカはすでに気にならない。
老騎士の腕に抱かれた少女の手を取り、唇を落とした。
「どうか元気で、……私の姫」
「婚約者を逃がすために身替わりになる。
貴族の子息として、大変御立派な御心掛けです」
ヴァンデスデルカを繋いだ機械の最後の調整を終え、一人残った研究者が改まった口調で続けた。
「ヴァンデスデルカ―――栄光を掴む者―――にローレライとユリアの加護を」
厳かに告げられた祝詞の言葉。
しかし、ヴァンデスデルカはその言葉に何の感慨も浮かばない。
ユリアの加護を願うのならば、大切な少女と少年の為に。
そして、まだ見ぬ弟か、妹の為に。
母の為に――――――祈りたい。
最後の研究者も逃げ出し、機械に繋がれたまま一人残されたヴァンデスデルカは、ぼんやりと中空を見つめる。
そこに浮かんだ、ゆらりゆらりと揺れる音素。
それは何かの形を取ろうとしているようにも見えるが、ただ不規則に揺れているだけにも見える。
自分が繋がれた機械が、何をするためのものなのか……それすら解っていない少年に、その音素の正体を知る事はできなかった。
「……?」
微かな靴音に、ヴァンデスデルカは入り口に視線を向ける。
研究者が戻ってきたのだろうか――――――? とも思ったが。
違う。
部屋の入り口に立った人物の姿に、ヴァンデスデルカは我が目を疑った。
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