右へ左へと走り回る神託の盾騎士団を眺めながら、はそっと腰を撫でる。
 イオンをシュレーの丘へ運ぶために用意された馬車―――むしろ荷車といった方が正しい―――にイオン共々は押し込められた。あまりよろしくない『馬車』の乗り心地に、少々腰を痛めたようだ。
 は腰を撫でながら、隣に立つ―――こちらも、同じ『馬車』に乗っていたはず―――リグレットを見上げる。背筋をまっすぐに伸ばし、兵士に指事を出すリグレットに、長時間馬車に揺られたはずの疲れは見て取れない。

 ふぅっと洩れたのため息に、イオンが顔を曇らせた。

「すみません。
 まで、教団の事情に巻き込んでしまって……」

 眉を寄せ詫びるイオンに、は微笑む。

「巻き込まれてなんて、ないですよ。
 イオン君がいなかったら、わたしはタルタロスで殺されていたと思うし。
 ……むしろ、巻き込んでくれてラッキー? ってぐらいの勢いで……」

 まあ、ちょっと腰が痛いのは辛いけど……とつぶやきながらが腰を撫でると、イオンは苦笑を浮かべた。

「……導師。準備が整いました」

 丘の上を走り回っていた兵士達の作業が終わり、隊長格の号令の元、隊列を整えている。リグレットに準備が終わったと告げた兵士も、すぐに自分の持ち場へと戻っていった。






「……ちょうどいい機会かもしれませんね」

 誘導され、ダアト式封咒が施された扉の前に立ち、イオンはを手招く。



「はい?」

 手招かれ、は素直にイオンに近づいた。
 馬車を降りてからずっと周りを兵士に固められていたが、イオンに招かれて移動するに、兵士が付いてくることはない。とはいえ、1人でイオンをつれて逃げ出す事は誰が見ても不可能だった。だからこそ、この場での行動が制限されることはないのだろう。
 名を呼ばれ、隣に立ったの手をイオンが握りしめる。

「僕はこれから、このダアト式封咒を解放します。
 それをに手伝って欲しいのですが……」

「え?」

 イオンをシュレーの丘に連れていき、ダアト式封咒を解かせる。
 タルタロスから連れ出されたイオンが何をさせられていたのか……その流れは知っていたが。まさかソレを手伝えと、イオンに云われるとは思っていなかったは瞬く。

「でも……どうやって?」

 ダアト式封咒以前に、は譜術というものが使えない。
 使い方も解らないし、使えるのかも判らない。
 空気中の音素を全身のフォンスロットから取り込み……というゲーム内で語られた仕組みであれば多少は覚えていたが、そもそもにはフォンスロットと云う物がない。
 譜術など、使える道理がなかった。

「ダアト式譜術どころか、普通の譜術だって使えないし……。
 そもそも、わたしフォンスロットの開き方だって知らないのに」

 オールドラントの人間であれば、多少の素質はあるのだろうが。
 あいにく、地球生まれ、地球育ちのに、譜術に対する素質などあろうはずがない。
 イオンの申し出はともかく、がそれを手伝えるはずはなかった。イオンの体力を考えれば、手伝えるものであれば手伝いたいところであったが。

「……では、説明しながらやってみましょう」

 戸惑うをどう受け取ったのか、イオンはの体を引き寄せる。ゲームで見たままのポーズでイオンは封咒に手をかざし、手を重ねたままのにも同じ姿勢を取らせた。

「目を閉じてください」

「?
 フォンスロットって、目にあるんじゃないんですか?」

 たしか、ゲームの中でジェイドがそんな事を云っていた。
 通常より多くの音素を取り込むために、ジェイドは自分の目に譜術を施したと。
 その影響で彼の瞳は真紅になった。
 譜眼と呼ばれる……幼い頃のジェイドが生み出した、危険な技術。

「人体の最大フォンスロットは、確かに目にあります。
 ですが、今は……譜術の扱い方を知らないに、いきなり実践をさせようとしているのですから……
 音素をひとりで操ることは、無理だと思います」

 ぴたり――――――と背中に感じる、イオンの胸。
 少しだけ見上げる位置にある髪と同じ色の瞳に、は首を傾げた。

「とりあえず、僕の操る音素を直接感じてみてください」

「?」

 音素を感じる。
 それ事態にはどんな事なのか、想像もできない。
 できなかったが……とりあえず、そうすれば良いとイオンが微笑むので、は素直に瞳を閉じた。

 とくり――――――と、視界を封じたことにより敏感になった感覚が、イオンの鼓動を拾い取る。

「意識を手のひらに集中してください」

「……集中って、どうやればいいの?」

 『授業に集中しろ』と云われたのならば、『授業』に集中するため、視覚は『黒板』に、聴覚は『教師』、触覚は『ノート』……と五感の役割を分担し、『授業』という一つのものに『集中』すれば良い。けれど……それが『手のひら』という『物』に『集中しろ』と云われた時、何をどうすれば良いのだろうか? それが解らない。視線は触れている手に合わせ、触れた手はその感触に気を研ぎすませれば良いのだろうか? だとすれば、聴覚は『なに』に集中すれば良いのだろう?
 手の平から聞き取れる音などない。

 が『手のひらに集中』という抽象的な指事に戸惑っていると、イオンは首を傾げ、自分の説明不足を悟った。

「そうですね……」

 少し考えて、イオンは例えを探す。
 譜術を扱う者には説明せずとも解るものも、譜術をまったく扱わない者にとっては解らないものらしい。
 導師として……生まれてすぐに譜術と隣合わせに生きてきたイオンには呼吸をするに等しいほど自然な事であったが、にはそうではない。譜術を使えない、使った事がないというに、自分と同じ事を求めるのは無理があった。

「……では、僕の血液の流れに耳を澄ませてください。
 あ、この場合は手を澄ませるんでしょうか?」

「わたしに聞かないでください」

 目を閉じたまま、は唇を尖らせる。
 イオンは『集中』の説明をしてくれているらしいのだが、その表現事態も怪しい。

「っていうか、血液の流れに耳を澄ませろって……無理ですよ」

 心臓のある胸に耳を押し付けているのなら、他人の血流を聞く事もできるが。
 手から触れた他人の手の血流を感じるなどと、動脈の上に手を置きでもしなれければ不可能だ。

「それぐらい『集中』してください、って事です」

「つまり、『集中』の『イメージ』?」

「はい」

 『集中』という『単語』への具体的な指事ではなく、イオンなりの『集中』という『行為』へのイメージトレーニング。
 血流に耳を澄ませることは不可能であったが、イメージはできた。

 触れたイオンの手に、は意識を『集中』させる。

「……無理」

 どんなに耳を澄ませようとも、手のひらからイオンの血流を感じる事はできない。

 むっと眉を寄せたを、表情こそ見えていないはずだが、イオンは苦笑を浮かべて励ました。

「慌てなくても大丈夫ですよ」






 どれほどの時間が経ったのか。
 相変わらずイオンの血流の音など聞こえなかったが。
 は奇妙に落ち着いた気持ちで扉の前に立つ。

 周りは神託の盾兵士に囲まれている。
 それも、1人、2人といった数ではなく、『シュレーの丘』と呼ばれる一帯を制圧できるほどの人数。
 加えて、六神将の一人、魔弾のリグレットまでもが側にいる。

 味方はイオン唯一人。

 そんな状況に置かれながら、不思議との心は和いでいた。

 聞こえないのは、イオンの血流。
 聞きたいものも、イオンの血流。

 血流とは、文字どおり血液の流れだ。
 血液は心臓から送りだされ、動脈を通して全身を巡り、静脈を辿り心臓に帰る。

 聞き取るべきは、の耳から遠いイオンの心音――――――

「……」

 ふいには気が付く。
 心臓ならば、自分にもある、と。
 『イオンの血流を聞く』ということに縛られ、忘れいてた。
 生きているのだから、にも当然心臓がある。
 そこから流れる血液が体中を巡るという仕組みは、地球とオールドラントという別天地にあっても変わりない。
 
 とくり――――――と、それた思考に、は自分の鼓動を感じた。

 この音が自分の体を巡り、また心臓に戻ってくるのだ、と。
 とくり、とくりと規則正しく感じる鼓動に、感覚を研ぎすませる。
 たとえば。
 この音は自分の鼓動であるが、そこを手がかりに、イオンの鼓動を追えないだろうか――――――?
 
 自分の心臓から送りだされた血液が、全身を巡る。
 その流れは当然指先にも届く。

 そこから……ふれた手のひらから、イオンの体に――――――






 とくり、とくり。

 が手の甲に感じるものは、イオンの心音。

 とくり、とくりと、の心臓から送りだされ、手の甲を通じ、イオンの手のひらへ流れる。
 それは手のひらから全身を巡り、イオンの心臓へ流れ、また同じようにめぐり、の中へと戻ってきた。

 とくり、とくりと繰り返される心地よい調べ。

 それがイオンの云う『集中』なのか、には解らなかったが。
 重なる鼓動。
 触れた手のひらから伝わる体温に、はゆっくりと意識を手放した。