「ひゃっ」

 デッキに出た途端に襲う風に、は一瞬だけ煽られる。
 ふらりっと足をもつれさせたを、意外に大きなイオンの胸が抱きとめた。
 可愛らしく、一見女の子に見える顔だちをしていても、そこは男の子。
 イオンは身長166cmに見合った肩幅を有していた。

 イオンに支えられたまま手摺のある場所まで移動し、はイオンを見上げる。

「それで、お話ってなんですか?」

 あまりルークから離れたくはない。
 そうは思うが、『話がある』とイオンに誘われれば、は断れない。
 イオンの柔らかい雰囲気が他者に要求を飲ませてしまうのもあるが、それよりも――――――そろそろ他人から好奇の目を向けられる理由について、話してくれる気になったのか、と期待していた。は可能な限り気にしない振りをしていたが、やはり気になるものは気になる。

「ルークの事なんですが……」

「ルークの?」

 どうやら期待していた答えは聞けないらしい。
 いくぶん気落ちした気分が顔に出てしまったのだろう。
 かすかに肩を落としたに、イオンは苦笑を浮かべた。






「……気になるのなら、追い掛けていいったら?」

 イオンとが去った後、苛立たしげに床を踏み鳴らすルークに、静かに瞳を閉じていたティアが不意に呟いた。

「……何をだよ」

の事よ」

「……」

「あなた、さっきからの事を気にしているじゃない。
 殴った事を悪いと思っているのなら、追い掛けていって、ちゃんと謝るべきだと思うわよ」

「俺はっ……悪くねぇ。
 あの性悪女が、ヴァン師匠の悪口を云ったから……」

「そう思っているのなら、何故さっきからの顔色ばかりうかがっているの?」

 もごもごと、何やら口の中で言訳をくり返すルークに、ティアは視線を向ける事なく囁く。
 先ほどからルークは、と目が合うと即座に顔をそらしている。そのくせ、妙に落ち着きなくに視線を向けていた。もっとも、ルークを視界にすらも納めたくないであろうは、ルークの物云いたげな視線にはまったく気が付いていなかったが。

 普段であれば野次を入れそうなジェイドの申し入れを、すんなりと受け入れたことも、が居たことが影響しているのだろう。
 『子供』と面と向かって云われた事を、世間知らずな『おぼっちゃん』なりに気にしているらしい。
 癇癪を起こし、を殴り飛ばしたまではいい。そこまでであれば、後悔も反省もしていない。あれはルークにとって、『ヴァンを悪くいった』が100%悪く、1mmも自分が反省する必要はないはずだ。
 反省をする必要はないはずだが――――――想像以上に腫上がったの頬を見た時、ヴァンを悪くいったへの怒りよりも……何かが重く、腹の底に溜まった。
 それはどんよりと重く、腹の中心に居座り、腫れた頬を見た瞬間に咽から出かかったルークの言葉を飲み込んだ。と目が合うと、それは重量を増してルークから行動の自由を奪う。
 先程からずっと腹の底に居座る、この暗い澱みのような感情から解放されるためには……が必要だと、ルークには本能的に解っていた。

 が、たった一言聞くだけでいい。
 ルークが、たった一言伝えるだけでいい。

「なんで俺が、性悪女の機嫌なんかとんなきゃなんねーんだよ」

 認めたくはないが。
 客観的にみれば、自分がとった行動はそう見えるのか、とルークは顔を歪める。
 ファブレ公爵家嫡男の自分が、あんな出自不明の怪しい娘の御機嫌とりをしているように見える等と……恥以外の何ものでもない。

 軽く舌打ちながら顔をそらすルークに、ティアは閉じていた瞳を開いた。

「……呆れた。
 珍しく公爵家の子息として相応しい対応をしていたと思って、少しは見直していたのに。
 本当にの機嫌を取っていただけなのね」

 公爵家の子息として、戦争回避の為に働くと決めたのではなく。
 の機嫌を取ろう、と『が薦めそうな』選択肢を選んだだけ。
 そこに『公爵家の子息』としての、ルークの考えは挟まってはいない。

「だから、あの女の機嫌なんか、とってねーって!」

 尚も否定するルークに、ティアは小さくため息を漏らす。
 ルークの足下と隣から「二人とも、喧嘩は止めて下さいよ(ですの〜)」という声があがった。






「そんなに嫌そうな顔をしないでください」

「……そんな顔してますか?」

「ええ」

「……気を付けます」

 苦笑を浮かべたイオンから顔を背け、は自分の頬を揉む。
 無表情や作り笑いには自信があったが、不快感は素直に顔に出ていたらしい。
 ぷにぷにと頬をつまみながらマッサージをしていると、背中からイオンの小さな笑い声が聞こえた。

「あ、あの……。それで、お話って――――――?」

 自分の顔をマッサージするが面白いのか、小さく笑うイオンに向き直り、脱線してしまった話を再開しようとして――――――は異変に気が付いた。
 イオンの後ろ……といっても、かなり後方になる。距離としては何キロか先だろう。空と地平の間に一点の黒い点が見える。
 森の緑でも、大地の色でも、空の色でもないその色に、が不思議そうに首を傾げている間に、その黒い天は靄のように空に広がりはじめた。

「……?」

 自分を振り返り、言葉を失ったに、イオンは首を傾げながらその視線を追う。タルタロスの進行方向に存在し、その存在事態もタルタロスに向かっているであろう。だんだんと近づきくる黒い靄。その正体が視覚できるまでに近付いた時、イオンは笑みを消した。

 振り返り、空と地平の間に見えた物は――――――

「……あれは、グリフィンですね」

 見つめている間にもどんどんと広がる黒い靄―――空を被うグリフィンの大群―――に、眉を潜める。

「本来は単体で行動している種族のはずですが……
 少し様子がおかしいですね。
 、艦内に……」

 戻りましょう、とイオンが呟いた瞬間に、通路へと続くドアが開き、マルコが飛び出してきた。

「導師イオン! こちらでしたか。
 すぐに艦内にお戻りください!」

「はい。
 さあ、も……」

 一緒に艦内に戻ろう、とイオンがの手を取る。
 いよいと『始まった』と背筋をのばし、はイオンに従う。
 艦内に戻ろうと一歩足を踏み出すと――――――

「導師イオンをこちらに渡してもらおうか」

 静かな女性の声と、銃声が聞こえた。