エンゲーブの北に位置するチーグルの森。
 その森も、タタル渓谷と同じく、実際に歩いてみるとスケールが違った。
 『ゲーム』では、『チーグルの森』という表記が出ていたし、森に入ってすぐイオンに追いつけたのだが。実際にはチーグルの森と呼ばれる一画以外にも森は広がっていて、旅人を惑わせる。も森に入ってすぐにそこが『チーグルの森』だと思ったのだが、イオンを探す内に出逢ったきこりに、「ここはまだ森の入り口で『チーグルの森』ではない」と云われ、驚いた。

 結局、きこりに道を教わって、はようやく『チーグルの森』と呼ばれる一画に辿り着いたのだが……その入り口にイオンの姿は見えなかった。森の入り口に辿り着くまでに、思いのほか時間がかかったこともあるが、イオンが意外に健脚なことも要因であろう。エンゲーブでは宿屋から村はずれまで走り続けたが、イオンに追い付くことはできなかった。

 『チーグルの森』と呼ばれる一画に立ち、はぐるりと森を見渡した。

 明確な敷居がある訳ではないが、チーグルの森と、その周りの森とでは空気が違う。
 なんというのか、森全体の雰囲気が。

 降り注ぐ柔らかな木漏れ日と、微かに漂う花の香りに、の急く心が落ち着きを取り戻す。
 ゆったりと視線を前方に向ければ、木々の合間に探し続けた黒髪を見つけた。

「……イオン君!」

 ようやく追い付いたイオンの背中に、は思わず歓声をあげる。
 思いの外、イオンは森の奥に入り込んでいた。――――――否、としては結構な距離を歩いてきたが、それですらも森の入り口なのかもしれない。
 とにかく早く追い付こうと、が足を踏み出すのと、イオンが倒れるのは同時だった。





 柔らかな感触に、イオンは目を開く。
 真上には、自分と同じ色。
 萌る緑の黒髪と漆黒の瞳。

 焦点を結ぶ視界に、見覚えのある女性の顔があった。

「あ……あなたは……」

 ゆっくりと瞬きながらイオンは女性を見つめる。
 それから、自分の状況を理解しようと……女性に向けていた視線を、辺にむけた。

「いきなり倒れるから、びっくりしました……」

「すみません。
 少し、ダアト式譜術を使いすぎたようです……」

 自分の口から出た答えに、『だからこんなにも疲れているのか』と理解し、イオンは嘆息する。
 頭が少し重い。
 体を動かすことが億劫だ……と思い、気が付く。
 頭が少し重いのは、力の使いすぎにより、体が悲鳴をあげているため。貧血を起こし、倒れたからだろう。
 それは解る。
 解るのだが……後頭部に感じる、この柔らかな感触は? とイオンが首をかしげると、女性もつられたように首を傾げた。

「どうか、しましたか?」

「いえ、あの……?」

 違和感のある柔らかな感触にイオンが身じろぐと、女性は何を云わんとしているのか気が付いたらしい。
 苦笑を浮かべると、現在の状況を説明してくれた。

「イオン君を見つけたら、いきなり倒れて。
 とっさに受け止めようとは思ったんですけど……失敗して、膝枕です」

「それで、頭が柔らかいんですね……」

 固い地面ではなく。
 後頭部に感じているのは、柔らかな女性の太もも。

「お世話をおけかしました」

「いいえ」

 ようやく状況を理解したイオンが体を起こすと、女性はほっと息を吐く。






 膝をかしてくれていた女性の顔を見つめ、見覚えのある顔と、印象に残る黒髪に、イオンはその女性が誰であったかを思い出す。
 昨日、エンゲーブの……ローズ夫人の家であった。
 神託の盾騎士団から支給される服を着た少女に保護された、記憶喪失だという女性。名前は――――――

「たしか、さん、でしたね。
 ……さんは、どうしてここに?」

 状況を理解し、体を起こしたイオンの、思考力の回復は早い。
 のような女性が、1人で森の中にいることの不自然さに気が付いたようだった。街や村の外を女性1人で歩くことも稀であったが、森はさらに女性が1人で来る場所ではない。

「宿からイオンく……」

 云いかけて、は口を閉ざす。
 突然口を閉ざしたを、イオンが不思議そうに見つめていた。

 の住んでいた日本には、便宜上身分制度はない。
 には、人に対して『様』をつけて呼ぶ習慣もない。
 加えて、のイオンに対する認識は、『ルークと云うプレイヤーキャラ』から見た『イオンというキャラクター』であって、親しみのある『サブキャラ』。オールドラントに住む多くの住民のように、『ローレライ教団のお偉い導師様』とは思えない。思えなかったが……うっかり親しみを込めて『イオン君』と呼んでは、問題があるかもしれなかった。

「イオン様が1人で歩いているのを見かけて、気になって追いかけてみたんです」

 結局、は『様』をつけて呼び直す。

「そしたら、門番の人が護衛もつけずに1人で村の外に出たって云うから……
 チーグルの森に行ったんじゃないかって、追いかけてきたんです。
 1人でこんな森に来るなんて……危ないですよ」

 の話を聞き、イオンは小さくうなだれる。
 危険を冒すのは自分だけでよい、と1人で出てきたが……結局他人を巻き込んでしまった。

「すみません。
 ……でも、女性1人で来るのも、危険なことだと思いますよ」

 うなだれながらも、しっかりと正論を云うイオンに、は誤魔化すように苦笑を浮かべる。

「わたしはいいんです。
 ちゃんと連れにも云って出てきましたから」

 止められはしたが。

「後からちゃんと、追い付いてくれます」

 そう云うと、は立ち上がる。
 倒れたイオンの呼吸も整っているし、受け答えもしっかりしている。
 この分ならば、森の出口付近までなら十分に歩けるだろう。


 立ち上がるイオンに手を貸そうと、膝を曲げたの肩から、漆黒の髪がこぼれ落ちた。