はたりはたりと小粒の雨が落ちる音がする。もしかして強風に煽られ、雨粒が洞窟にまで入り込んでいるのだろうか。
いや? でもその割には風の音がしない。なら此の頬を伝う水滴は?
「ぅ……ぁ……」
頭の少し上の方。鬼の、唸るような声が聞こえた。寝言? 魘されているの?
また、俺の頬に何粒かの水滴が降ってきた。冷たいな。もしかして鬼も雨粒に打たれて、嫌な夢を見ているのかもしれない。
此のままいたら、風邪ひいちゃうかな。俺は体調崩しても直ぐ鬼が治してくれるけど、鬼は風邪とかひかないのだろうか。
あの真っ白な顔が熱で紅くなるなんて、なんだか想像できない。でも、熱にうかされ泪で滲む瞳は、きっと綺麗だ。
「ごめん、ごめんね」
鬼の声。誰かに謝っているみたいだ。寝言にしては、はっきりしすぎている。
そういえば俺、いつのまに布団の中に入った? 俺の頭を支えるもの、枕よりちょっとごつごつしているけど、暖かくて気持ちが良い。もしかしてこれは。
「……おはよ」
「琉夜っ」
やっぱりだ。俺、鬼の膝枕で寝ていたらしい。そんで、俺の頬にあたっていたのは鬼の泪。唸るような声は、そのまま泪を堪えたゆえの嗚咽かな。
「なんで泣いているの?」
もともと白い顔が、いっそ透けて向こう側が見えそうなくらいに更に白くなっている。でも、泣いているせいで鼻の頭だけがちょっと赤くなって、何だか可愛らしい。
「ごめん、ごめんね、琉夜」
眉間に皺を寄せて、これ以上泪が毀れないようにしているとでも言うのか。長い睫の上に、水滴が乗っている。
ソレを指ですくって舐めてみた。少ししょっぱい。
「なんで謝るの?」
「僕はまた、琉夜を傷つけた。僕は、琉夜を傷つけてばかりだ」
あぁそうか。其処でようやく思い出した。俺が寝ていた理由。寝たというより、意識を失ったという方が正しいのかもしれないけど。
「別に謝ることじゃないよ」
泣いている鬼が愛しくて、そっと頬に手を添わせる。慰めと受け取ったのか、鬼がかぶりを振った。
「嫌がっていたのに、僕は無理矢理……」
「嫌がってない。ちょっと、びっくりしただけだ」
「琉夜が好き過ぎて、僕はどんどん貪欲になる。本当は、琉夜が僕を嫌わないでいてくれるってだけでも喜ぶべきなのに……」
「鬼……」
「怖くなるんだ。琉夜が、いつか僕を置いていってしまうんじゃないかって、不安になる」
震えた鬼の声。
『……琉夜も、其の内どこか行っちゃうのかな』
俺が逃げ出そうとした時に、鬼が独り呟いた言葉が蘇る。
何度も、何度もこの洞窟に独りぼっちにされた鬼。何年も、何年もこの洞窟に只独りで過ごしてきた鬼。
いまでは家具も増えて、多少生活感ってものも出てきたけれど、その前までは殆ど荷物のない空洞で過ごしてきたのだ。
ようやく手に入ったヌクモリを逃がしたくない。なんて、当たり前すぎる感情。それを、鬼は嫌悪しているのかもしれないけれど。
「鬼は俺のコトが好き過ぎて、あんなことしたンだよな?」
こんなにも愛情を向けているのに、どうしてこの鬼は自分に自信が持てないのだろう。
無理させられた身体。筋肉痛にも似た感覚。ソレをどうにか我慢して上半身を起す。
そしてそっと鬼に口付けた。僅かに目を見開いた鬼が、それからゆっくりと綺麗な瞳を隠す。
泣いていた鬼の唇は冷たい。寝ていた俺の唇は熱い。気持ちも伝われと、体温を移動させる。
触れるだけの、しかし長い口付け。それからゆっくりと顔を離して、俺は優しく囁いた。
「俺も鬼のこと好きだから、その気持ちは凄く判る。そんなに謝らなくて良いよ」
何より、一番の原因は俺の『他の男と寝るぞ』発言。俺だって、鬼が仮にそんな発言をしたらなにか強行突破を取っていただろう。だから、あまり鬼を責められない。
「琉夜……」
「安心しろよ。俺は年食ってよぼよぼの婆ちゃんになっても、鬼の傍から離れないからさ」
両腕を鬼の背中に廻し、ぎゅうと抱きつく。目の端に、鬼の嬉しそうな笑みが映った。
「……うん、ありがとう」
なにが有難う、なんだか。
今まで気が遠くなるほどに長い時間を過ごしてきた鬼は、きっと俺が年老いても変わらずに綺麗な存在であり続けるだろう。
そのとき、俺は皺々で腰も丸くなっている自分の姿を鬼に見せられるだろうか。綺麗な綺麗な鬼の瞳に映る自分の姿に、耐えられるだろうか。ちょっと、自信がない。
そんな日が来ることを、この鬼は想像もしていないのだろう。俺が鬼に抱きつくように、鬼もまた、俺の背に両腕を廻して抱き締めてくれる。
でも、鬼が独りきりで悲しむことになるなら。俺はどんな姿になっても鬼の傍にいるだろう。鬼が傍にいることを許してくれる間は、ずっと隣に居たいと願うだろう。
***
「じゃあ琉夜、僕が鬼神さまとして妊婦さんの隣で寝るのは許してくれる?」
どれくらいかの間、無言で抱き締めあって。それから何か思い出したように、鬼がコホンと軽く咳払いをした。
「それは嫌」
「琉夜!!」
「けど、妊婦さんが寝付くまで隣にいてあげるのは許してやるよ」
抱き締めていた鬼の腕からするりと逃げ、困った顔をした鬼にあっけらかんと言い放つ。一瞬だけきょとんとした表情を見せた鬼が、その後でふわりと微笑む。
「ありがとう」
「本当は物凄くイヤだけどね。俺と一緒にいるために遣っているコトだから」
未だ地面に座り込んでいる鬼に片手を差し伸べ、立ち上がらせる。
「けどその間、俺は屋敷で待っているから。妊婦さんが寝付いたら必ず俺を向えに来ること! 良い?」
「うん。判ったよ」
並んで立つと、俺より背の高い鬼。頭を優しくなでられて、なんだか物凄く子ども扱いされた気がする。けど許してやることとして。
「ンじゃ、先ずはじいちゃんを説得しに行かないとなー」
鬼と共に洞窟を出る。
いつのまにか夕方という時間帯になっていたらしい。真っ赤な夕日と、少し紫色掛かった夕闇がソラを覆い尽くしている。それに雲の白と混ざり合ってオレンジ色の部分。色彩豊かな世界。
「琉夜」
美しい風景に足を止めた俺を、鬼が呼んだ。声につられて振り向けば、優しい眼差し。
「大好きだよ」
「俺もだ」
言い合って、思わず互いに笑う。
此の先俺一人が年老いてどんどんと色を失ったとしても、鬼と見たアザヤカな世界を、俺は忘れることはないだろう。
そして、此の綺麗な笑顔を。
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★後書き★ 【鬼の花。の其の後のお話】 |