「琉夜!! 待ちなさい、琉夜!!」
遠く後ろから、皺枯れた祖父の怒鳴り声が聞こえる。
村で一番の権力者とは言っても、結局は唯の年寄りということか。
「琉夜!!!」
簡単な荷物を持ち山道を駆け上がる俺の目の端に、村人の追ってくる姿が映った。
その中には、来月俺と式を挙げるはずだった男も混ざっている。
可哀想に。本当ならば、来月からは村の最高権力者の筈だったのに。
数ヶ月前に祖父が紹介してきた男は、祭司というよりも武道家と言えるような体格の持ち主。
しかも初対面の時点で、俺の誕生日翌月にはソイツと結婚式を挙げることが決定していた。
きっと俺が村を出て行く気だったことに気がついた祖父の、最強の防衛策だったのだろうけど。
残念ながら、俺は筋肉ムキムキは好みじゃないから。
婚約者に逃げられる最中の憐れな男を一瞥し、俺は走るスピードを更に上げた。
あれから8年の歳月が過ぎた。
俺は気がつけば一人称を『俺』と呼ぶには相応しくない体躯へと変わっていった。
とは言っても、休日には必ずといってよいほどに山に登っていた俺は、体力的には一般の男にも劣らないだろう。
ただ、少々髪が伸びて、スカートを穿くのにも抵抗がなくなってきたというだけ。
そして二十歳の誕生日を迎え、約束の日が来たのだ。
どのくらい走り続けただろうか。
振り返れば、追っ手の姿は勿論、声も聞こえない。
撒いたな。
思わず口先だけでニヤリと笑ってみせる。この表情をすると、必ず祖母に叱られたものだ。
そんなコトを考えながら、背負っていた荷物を降ろし、中身が崩れていないかを確かめる。
「あぁ、大丈夫だ。きっと、喜んでくれる」
小さく独り言を呟いて、またその荷物を背負い、歩き始める。
あの洞窟で、鬼が待っているだろうから。
***
はたり、はたりと地面についた水滴の跡が広がっていく。
叶わないと知りつつも、願いつづけた鬼。願う先もなくした鬼は、これからどうするのだろう。
鬼に謝りたくて、でも謝るための言葉も見つからなくて。食いしばった歯の隙間から、嗚咽が漏れる。
「鬼よ!! 近くにいるなら返事をしてくれ!!」
嗚咽が悲鳴に変わりそうになった瞬間に、俺は立ち上がった。
目から零れた水滴を、強く握った拳で拭く。その手には、先ほど鬼から渡された『花が咲かない芽』がある。
今ならまだ、間に合うはずだ。そんな遠くには行っていないはずだ。
自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返し呟き、大声で叫ぶ。
「鬼!! 頼むから少しだけ話を聞いてほしいんだ!!」
さっきまで泣いていた所為で、未だに鼻声だけど。そんなコト、構ってはいられない。
「俺と約束をしよう! 俺は必ずまた鬼に会いに来る!! 一緒に遊ぶ、約束をしよう!!」
子供の俺に出来る約束なんて、そんな程度しかないけれど。
「鬼と一緒に遊びたいんだ! 毎日は無理だけど、休みの日には必ず来るから!!」
強く叫びすぎて、咳が出た。ちょっとだけ、喉が痛い。でもきっと、裏切られた鬼はもっと痛かった。
「だから鬼よっ、俺をっ……」
嫌わないでほしい。その言葉が出る前に、俺は鬼がすぐ側にまで来ていることに気がついた。
「琉夜は、優しい子だね」
澄んだ声が、俺の耳に浸透する。
違う、俺は優しくなんてない。だってずっと嘘を付いていた。こんなに綺麗な鬼を、騙していたんだ。
また涙が出そうになって、ブンブンと首を振る。
「ありがとう」
本当に優しい声の鬼が、そっと俺の頭を撫でた。
***
8年前の約束。優しい鬼との約束。
そして今日、最後の約束を果たすときが来たのだ。
洞窟の近く。切り株に座ってぼんやりとしていたらしい鬼が、俺を見つけて驚いたような表情を作った。
「琉夜!! どうしたの? 今日は来てくれるなんて聞いてなかったけど」
すぐに俺の側まで走りより、それでも会えて嬉しいと笑う鬼。
俺はすかさず背負っていた荷物を取り出し、鬼に差し出した。
「これは……」
「花が咲いたから、嫁になりに来たぞ」
差し出したモノ。それは鉢植え。
しかもそこには幾つもの芽が顔を出し、その内の何個かは花を咲かせている。
「花が咲いたら、嫁をやろぅ。……って約束だっただろう?」
鉢植えを鬼に持たせて、ニッと笑ってみせる。
勿論鉢植えを受け取った鬼は、困惑の表情を浮かべている。
「え、だって琉夜。あの約束の芽は……」
もともと花が咲かない品種だし、何より折角根を張っていたのも無理矢理抜いて、俺に渡した。
口に出さずとも、鬼の言いたいことは判る。
確かに約束の芽は花を咲かせない品種だし、俺が村に持ち帰った時には既に枯れていた。
「けど変わりにあの芽は肥しとなり、次の芽を育てる役目を果たした」
だからコレも一つの結果としてみることが出来るんじゃないだろうか。
堂々と言ってやるれば、鬼はもう、泣きそうな顔になっていた。
「まぁきちんと約束を果たせた訳じゃないから、相手は勝手に決めさせてもらったけど」
両手を腰におき、変更は不可能だぞ、と笑ってみせる。
鬼は零れそうな程の涙を溜めている。
もう喜びのあまりに……というより、いっそ嫌過ぎて悲しんでいるんじゃないかと疑いたくなるほど。
「ありがとう」
どの位か間を置いてから、鬼が小さく呟いた。
溜めすぎた涙が、頬を伝って地面へと落ちる。
綺麗だな。単純にそんな言葉が浮かび、知らないうちに手を鬼の頬に添える。
「ありがとう、琉夜」
もう一度呟いた鬼は、頬に添えていた俺の手を取り、その指先に唇を押し当てた。
そして微笑む。それはもう、嬉しそうに。
なんと綺麗な笑顔だろうか。こんな綺麗に微笑む人を、俺は今まで見たことがない。
見ている者を魅了する、表情。
……あぁ、そうか。鬼の花が咲いたのだ。
騙されていることを知りながらも、鬼が愛し育てたあの芽の花が。
枯れ果て朽ち果て、そして今、新たなる形で俺の目前で咲き誇っているのだ。
なんとも美しい、鬼の花が。
〜完〜
★後書き★ |
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