「あぁ、なるほどな」

急に遠くなった天井を見つめ、まろはぽつりと呟いた。
こめかみと後頭部がずきずきと痛む。
一体何がどうしてこうなったのか? ふわりと浮かんだ疑問は、額に乗せられた濡れタオルの冷たさによって直ぐにかき消えた。
僅かな気の緩み。すかさず打ち込んできた桂嗣。避けようとした瞬間に、汗で足が滑り。
……稜の、夢をみて。
目が覚めた途端、視界に入ってきたのは天井と心配そうな表情の桂嗣。つまりは。

「桂嗣よ、さすがにあれはズルイのではなかろうか」
「申し訳ございませんでしたっ」

想像もしていなかった事実を突きつけ、あまりの驚きに呆けてしまった処を狙うなんて。
本当の試合であれば有効な手であることは確かだが、師範代が格下に稽古をつけるときには反則な気がする。
子どもには似合わぬ口の端だけを上げた笑みを作れば、桂嗣が深く頭を下げた。
其れが床に正座しての行為なものだから、まるで土下座されたかのようで。
いつもの冗談のつもりであったまろは、慌てて体を起こした。

「いや、そんな落ち込むことはないぞっ。あのような場で油断したまろも悪かったからなっ」

桂嗣としても刀を叩き落すか、せめてまろに当たる寸前でとめるつもりだったはず。
まろがバランスを崩して前のめりで倒れこんでしまったがゆえに、桂嗣の刀の背に自らぶつかる形となり。
慌てて足を踏ん張ったのが更にタイミングが悪く又も汗で滑り、勢いよく半回転した後に後頭部から床に倒れこんでしまったのだ。
ある意味、素晴らしい運動能力かもしれない。

「まろ様にお怪我をさせるてしまうなんて、教育者失格ですね」

はぁと深いため息をついた音が聞こえた。
何を今更。……言いかけて止める。其れは流石に酷いコトバだ。
そして夢の中で見ていた桂嗣とはあまりに異なる様子に、思わず笑みが漏れた。

「やはり変わったのぅ」
「え?」
「先ほどまで、稜の記憶を見ていた。お主がその言葉遣いを始めて間もない頃の夢だ」
「そうでしたか」

まろの言葉に、桂嗣もふわりと微笑む。その瞳は何処までも優しい色に染まっている。
でもきっと。桂嗣の見ている先に居るのは、まろではなく稜なのだろう。
そう考えると急に寂しいような、其れで居て旧い友に会ったかのような懐かしい気持ちになった。

「まろ様から見て、私はどう変わったと感じましたか?」
「ん……なかなかに難しい質問だの。急に聞かれても答えられん」

穏やかな、とても穏やかな瞳に優しく問われ、意味もなく口篭る。
まろが見ている桂嗣は、教育熱心で鶴亀家の跡取りであるまろを大切にし、其れゆえに融通が利かないところがある。
では稜の時は如何に桂嗣が稜をぞんざいに扱っていたかといえば、多分今と同じように大切にしてくれていたと思う。
面倒見が良いのも、小言が多いのも、人に者を教える立場の癖に結構平気で嘘を付くところも変わっていない。
ただ、断片的に垣間見てしまう稜の記憶と、現在まろが見ている桂嗣ではあまりに差がありすぎるのだ。
……それは何も桂嗣に限ったことではないけれど。

「処で桂嗣よ、まろはどれ位眠っておった?」
「15分程度です。もうじき羅庵が痛み止めを持ってきますので、其れまで安静にお待ちくださいね」
「うぬ」

短く答え、ぱたりと後方へ倒れる。桂嗣が横に落ちてしまった濡れタオルを、まろの額に乗せてくれた。
そうか、たった15分程度の夢だったのか。
確かに直接映像としてみたものは其れくらいかもしれない。
ただ夢を見ると、其のときの稜の記憶……例えば桂嗣が働き出したのがいつごろか、架愁が何処に出掛けていった後だったのか……というとても小さな出来事全て、稜の記憶を見ている最中に稜が思い出していたこともまろの頭に入り込んでくるため、毎回ながらとても長い映像としてみたような気がしてしまうのだ。

「ちなみに稜は自力で仕事先を見つけられたのか?」
「え?」

ぼんやりと先ほどまで見ていた夢を思い出し、其のついでについてきた疑問。
桂嗣に訊ねてみれば、突然の質問を理解できなかったらしく不思議そうな表情を作った。

「お主が護衛の仕事を持ってきたが、稜は断ったであろう?」
「……あぁ、あの時のことですね」
「さっき見たンだがの。約束をした所で目が覚めた。……結局賭けはどうなった?」

多分其の内夢で見るだろう結果。しかし気になって。
稜と鶴亀家当時の当主が恋人同士だったということは、やはり賭けに負けたのであろうか?
アレだけ大見得を切っておきながら桂嗣の世話になったとなれば、少々格好悪い。
まろがそんなことを考えていると、当時を思い出したらしい桂嗣が楽しげに微笑んだ。

「あの賭けの結果は……」


***


羅庵に貰った痛み止めのお陰で、こめかみと後頭部の痛みは治まった。
もう少しの間は安静にしているよう言われ、しかし汗臭い己にこのまま眠ってしまうのも躊躇われ。
だからと言って本日2回目の風呂に入るには早すぎる気がして。
どうせなら治療ついでに羅庵を花札にでも付き合せればよかった。
なんて考えつつも手持ち無沙汰に布団の中でごろごろとして、30分もたっては居ないころ。

「……嘘であろう?」

肩と腰の辺りがじくじくと痛み出し、その良く知った感覚にまろは自問自答した。
脚を攣った時のような痛み。此れはおそらく……筋肉痛だ。
桂嗣に稽古をつけて貰った所為だろうか。
しかし実際に動いていたのはほんの1、2時間程度で、筋肉痛になるほどの大仰な動きをした覚えもない。
運動嫌いではあるが、運動音痴ではないと自負している。
そして言動は年より臭くとも、実年齢は10歳と、誰に言われなくとも若いと理解している。
……にも関わらず、数時間動いただけで筋肉痛なんて。

「せ、成長痛かの……」

どうしても認められず、まろは自らを誤魔化すように呟いた。




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