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ガンっと頭の奥の方でなにやら音がした。
其の後直ぐに襲ってきた鈍い痛みに、寝ぼけていた頭が『誰かに殴られた』のだと教えてくれた。

「なっにしやがンだよ、桂嗣!!」

昼寝するには最適な、春風吹く昼下がり。 全開の窓からは、隣の公園に咲く桜の花弁がちらちらと舞い込んできている。
こんな最高の環境で昼寝をしている俺に暴挙を働けるヤツなんて桂嗣以外いない。
勢い良く起き上がり、仁王立ちしている桂嗣に掴みかかろうとして。

「貴方の仕事先、見つけて来てあげましたよ」

どすの効いた声で喧嘩を売る前に、ベシッと額に何かを叩きつけられた。勢いをそがれた俺は、そのまま尻餅をつく。
掃除をしていないじゅうたんから、綿ぼこリが舞った。ついでに一瞬だけ額に張り付いた白い紙が、へろへろと膝の上に堕ちてくる。
近所のスーパーのチラシか? なんてことを頭の端っこでちらりと考えて。
【労働契約書】
つらつらと並んでいる文章の、一番最初に書かれていたコトバに、俺の頭がハテナマークで埋め尽くされた。
少しだけ視界を移動させ、下の文章も目を通す。 労働契約書の次の欄には、堂々と俺の名前が記載されている。 その下には生年月日ち性別、それから住所……はここのアパートになっている……が記入されていた。

「今まで働いていた護衛が、来年で定年退職するそうです。その代わりを探していたので、貴方を押しておきました」
「……へぇ」

意味不明な紙面を手に取り呆けていた俺の頭に、桂嗣の優しげな声が降って来た。
此処最近ようやく聞きなれた桂嗣の丁寧語。コトバの意味は理解できないが、取り合えず頷いてみる。

「勤め先はは芦螺の鶴亀家です。大きなお屋敷ですから、貴方も知っているでしょう?」
「知ってる。つーか、お前が家庭教師として通っている豪邸だろ?」
「おや、ご存知でしたか」

ぼんやりとしたままで返事をすると、やけに嬉しそうな桂嗣の声が返ってきた。
少しだけ首を反らしてみれば、やはり声の通りに嬉しそうな笑みを浮かべている。
てか、さ。知らないはずがないだろ。
『俺が怪我でもして働けなくなったら野たれ死ぬヤツが2人もいるからな、お父さんは大変なんだよ』
そんな下らないコトを言い、短期の用兵を辞めたのは昨年のこと。
いつの間にか取得していた教員免許と安定した就職先。周囲の信頼を得るために、桂嗣は話し方さえ変え始めた。
今までの生活と自分の性格さえ変えた理由が、俺や架愁を養うためなのだと気がついたのは、多分桂嗣が今の処に勤め始めて直ぐの頃。
桂嗣の仕事先なんて今までは全く興味がなかったけど、其の時ばかりはどんな場所で働き出したのか気になり、一度だけ後をつけたことがある。
バレていると思っていたが、どうやら気付かれていなかったらしい。それとも1年近く前のコトだから忘れてしまったのか。

「明日から3ヶ月間の仮雇用となります。其の後正社員になれるかは、貴方次第ですね」
「ふぅん……」
「本来なら仮雇用でも面接と実技・筆記試験があるところを、私からの推薦ということで免除して貰いました」

感謝してくださいよね、と大きな溜息をついている桂嗣。
この辺に来てようやく理解出きてきた。つまり俺に働けということか。
まぁ別に、いつまでたっても桂嗣の金で生活しようなんて考えてなかったから良いンだけど。
仕事先まで桂嗣に面倒見てもらうって言うのも、なんか悔しい。てかムカツク。

「俺は行かない」

ぺいっと労働契約書を放り投げ、其のまま仰向けに倒れこんだ。
桂嗣の顔を見ないようにうつ伏せになろうかとも思ったが、黴臭いじゅうたんの所為で鼻がむずむずするから止めておく。
つーか桂嗣の借りてるアパートなんだから、仕事ばっかしてないでたまには掃除しろよ。
なんて言ったら確実に締め出されるので、間違っても口には出せないけれど。

「……ほぉ?」

氷の刃が耳を掠めた。
……否、そんな気がしただけで、実際には桂嗣が怖ろしいほどの低音を発しただけだけれど。
きっと顔を見たら石になる。慌てて目を閉じて、ついでに陽射しを遮るときのように腕を顔の前で交差させた。
寝たふりをしよう。
だがいびきをかく演技をする前に、桂嗣が俺のシャツを掴み強く引っ張った。
その力に負け、俺の背中が浮く。首周りを掴まれているために、気管支がきゅうと絞められた様に苦しくなった。

「てめぇというヤツは、いつまで人の脛かじって生きていくつもりだ……?」

低く静かな声が吐き出されると同時に、俺の背中がどんどんとじゅうたんから離されていく。
おい桂嗣、丁寧語が消えているぞ。金持ちの家の優秀な家庭教師が、そんな簡単に怒りに飲まれて良いのかよ。
もうさすがに自分の足で立たないと、息が出来なくて咳が出てしまいそうだ。

「いや、働くつもりはあるけど……」

やっぱり。シャツを掴まれていたおかげで首が絞まり、声を出してみれば変に掠れてしまった。
此のままだとせっかく買ったばかりのTシャツも、首周りが伸びて着れなくなってしまう。
仕方なく自分の足で立ち、シャツを掴む桂嗣の手をさり気無く、神経を逆なでしないようにさり気無く、離させた。

「じゃあ何が不満なんだよ」
「……お前の紹介ってところがイヤだ」
「ァン?」

絶対零度。この声を温度計で測ったなら、即効でメーターを振り切り機械は壊れるだろう。
それくらい、冷たい声。こんなに眉間に皺を寄せている姿を見るのも、久々かもしれない。
是非ともこの顔を桂嗣の教え子にお見せしたい。解雇決定だな。
ま、稼ぎ頭がクビになっては俺の生活に支障をきたすので、そんなことは絶対にしないけれど。

「自分の仕事くらい、自分で見つける!」

びびっていると知られれば馬鹿にされることは必死。
両腕を腰にあて仁王立ちしている桂嗣に、負けじと強気で言い放つ。
俺の言葉に少しだけ驚いたような表情を作った桂嗣が、その少し後でにやりと口をゆがめた。

「言ったな?」
「あぁ」
「じゃ、これから一ヶ月の時間をお前にやる。その間に仕事決められなきゃ、俺の持ってきた仕事に就けよ?」
「……よ、よし。判った!」

目を細め、楽しい賭け事の始まりだとでも言わんばかりの桂嗣の表情。
嫌な予感が背中を走り、思わず声が上擦ってしまった。
いかん、早々に気持ちで負けた気がする。其れを隠すように、背中を反らして胸を張った。


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