金属の打ち合う音が室内に鳴り響く。
どうやらこの旅の途中で身長が伸びたらしく、久々に腕を通した稽古着は丈が短くなってしまった。
冷房のない剣道場は蒸し暑く、額からしたたる汗を吸った稽古着が肌にべったりと張り付いてくる。
せっかくシャワーを浴びたばかりだというのに、早々に汗臭くなってしまった己に思わず溜息を付いて。

「まろ様、動きが鈍くなっていますよ」

僅かな気持ちのズレを、真っ向にいた桂嗣に気付かれないはずがない。
カツンっという音とともに、まろの手から稽古用の刀が弾き飛ばされた。
「ぬぁっ」
打ち込まれた勢いで尻餅をつく。
あわせて間抜けな悲鳴をあげてしまったまろに、恐らく此処まで強く弾くつもりがなかったのだろう桂嗣が、慌てた様子で刀を置きまろの傍に来た。
「大丈夫ですか!?」
稽古用といっても、木刀ではなく本物の刀。
多少切れ味を悪くはさせてあるものの、本来なら怪我をしても仕方がない状況。
しかし其処はさすが優秀な教育者。
まろに怪我をさせないようにと柄のぎりぎりを叩くように打ち込んできたらしく、腕と腰はびりびりと痺れたものの擦り傷ひとつついていない。
「うぬ、大丈夫じゃ」
桂嗣の手に助けられながら、まろはゆっくりと立ち上がった。

「そろそろ休憩にしませんか?」
架愁との和やかな風呂タイムを終え、遅めの朝食を胃に詰め込みながら『腹ごなしついでに稽古をつけてくれ』と頼んだのは30分間ほど前のこと。
物ぐさで出来ることなら稽古や勉強という類から逃げ回っていたまろから、 そんなお願いをされると思っていなかったらしい桂嗣の『風邪ですか?』という失礼な発言は一生涯忘れてやらないけれど。
「いや、もう少し続けよう」
この言葉を聞いた桂嗣の、驚きを隠しきれない……むしろ隠すつもりなんて毛頭なさそうな表情も一生忘れないだろう。
「……まろ様、大丈夫ですか?」
挙句に桂嗣の口から紡がれた台詞。
稽古を頼んだ時から不審がっているのは感じていたが、さすがに酷すぎるのではないか。
そうは思うものの、不信感の裏にはまろを心配していることがはっきりと判ってしまったため、なにか文句をいう気にもなれない。
「大丈夫じゃ。まろにもちょっと身体を鍛える必要性を感じてきた、それだけだ」
まろは口の端だけをあげて笑うという、少し大人ぶった表情を作りそう告げた。


***


飛び散った汗が床をぬらし、力強く踏み込んだ瞬間に僅かに滑る。
思わず怯んで脚を止めれば、直ぐに桂嗣から柄の部分を打ちつけられ、その勢いに負けて尻餅をつくこと数回目。
それでも稽古を始めたころよりは身体の動きも機敏になり、手から得物を逃がしてしまうこともなくなった。
疲労はたまっているものの、その逆にドーパミンでも放出されているのか意識がクリアーになっていく。

「まだ続けますか?」
肩を大きく上下させ息を吐くまろとは異なり、呼吸の乱れた様子もない桂嗣。
でも、あと少し、もう少し頑張れば、桂嗣に勝つとまではいかなくとも一発打ち込むことくらい、もしくは擦り傷ひとつくらいはつけられそうな気がする。
雫を垂らす前髪を鬱陶しく感じ、軽く頭を振ったのちに再度刀を強く握り締めた。
「うぬ、まだまだやれるぞぃ」
肺ではなく腹部に酸素を溜める。
息を整え、身体全体の神経を研ぎ澄まし、次の踏み込む瞬間を待つ。
天気が良いからと外で稽古を行っている者が殆どのため、現在剣道場にはまろと桂嗣しかいない。
けれどもし此処に他の者達がいれば、きっと彼等はまろがどういう人物であるかの認識を変えるだろう。
其れほどに普段のまろからは想像もつかないような真剣な目で、桂嗣を見据えていた。
「そうですか」
不意に、桂嗣の口元が綻んだ。
まさかこんな真剣な場面で笑みを向けられると思わず、少しだけ気が抜けてしまう。
もちろんそんな一瞬を見逃してくれるはずのない桂嗣が、その場から掻き消えたのかと思えるほどの速さでまろに打ち込んでくる。
其れを寸前で避ければ、やはり嬉しそうな笑みを浮かべた桂嗣の表情が視界の端に映った。

「なぜ笑う?」

1歩、2歩と後ずさり、次はこちらから打ち込もうと足元に力を入れる。
桂嗣は桂嗣でまろの隙が出来る瞬間を待っているようで、それ以上踏み込んでこようとはしない。
だた少し、まろの中の何かを見つめるような優しい目をして。
「嬉しいからですよ」
その表情どおりの台詞を綴った。気を抜くことはせずに、まろも言葉を連ねる。
「まろがこんなに真剣に稽古に取り組む事が、か?」
「はい。それと……」
「それと?」
「……懐かしい思い出が過ぎりましてね」
「なるほど」
桂嗣の言葉の意味を直ぐに理解し、まろは苦笑気味に頷いた。
恐らく過去の記憶を垣間見る前のまろには気付けなかっただろう。
しかし今となっては直ぐに判ってしまう。 桂嗣がこの目をする時は、大抵まろの中に過去の存在を見つめているのだ。
相手が翼を持つころの存在なのか、はたまたもう独りの方なのかは判らない。
懐かしく嬉しいような感情が生まれ、しかし現在の自分を無視されている気がして淋しくもなった。

「海堵か、稜か?」
深く聞く必要のある内容でもない。ただ、気になった。其れだけの理由で口から出た台詞。
目を大きく見開いた桂嗣に、この瞬間に打ち込めば勝てたのではないかと思いつつ、しかし脚は動かさない。
「海堵とは剣術の稽古なんてしませんでしたよ」
つまりはまろの向こうに稜を見ていたということか。
遠回し気味な返答は、桂嗣としても後ろめたい気持ちがあるからなのかもしれない。
「……稜は、強かったのか?」
夢の中では『俺は強い』と自負している雰囲気があったけれど、それはあくまで稜自身が想っていた事。
実際はどうなのだろうかと何となく気になって、桂嗣への嫌がらせついでに聞いてみた。

「強かったですよ。一時は鶴亀家当主の護衛も勤めておりましたからね」
「ほぉ、それは知らなかったの」
「聞いた事ありませんでしたか? 何故まろ様に稜の血が入っているのか」
「うぬ、以前羅庵に聞いたら今は聞くなとはぐらかされたぞ」
「……そうでしたか」

何かに納得したようにくすりと微笑む桂嗣。
さて、はて、どういうことなのら?
疑問詞を貼り付けてみたまろに、桂嗣が少しだけ考える仕草をして、それから答えてくれた。

「鶴亀家当主と稜は恋人同士だったのですよ」
「ほぇ?」

思わず物凄く間の抜けた声が出た。きっと今のまろはその声と同じくらい間抜けな表情をしているだろう。
そのまろの反応があまりに予想通りだったのからなのか、桂嗣が教育者としてはあるまじき表情……口の端っこを歪めて笑った。




NEXT ⇔ BACK ⇔  Angelus TOP