「腹が減ったのぉ」

寝ているだけでも空腹を感じるのは、成長期の証か。 覚め開口一番にぽつりと呟き、まろはむくりと起き上がった。
どうやら羅庵と話しているうちに眠っていたらしい。
障子の向こうから、煌々と太陽の光が差し込んでいる。 もしかすれば日が真上にまで昇る時間帯なのかもしれない。
「先に風呂でもいくとするか」
昨日は護殊庁から帰って、そのまま風呂に入らずに眠ってしまった。
毎日の入浴をこよなく愛する少々ご年配な感覚を持つまろとしては、1日の風呂タイムがなくなっただけでもなんとも勿体無く感じてしまう。
口の端に涎の跡がないか手の甲でぐいと確認し、まろは部屋を出た。
やはり正午はすでに廻っているようだ。廊下にでると、グラウンドの方から幾人かの数字をカウントする声が聞こえた。
きっと護者として其々の配属を負かされる前の者達が、共に稽古をしているのだろう。
護者の仮住居にしては、他の街に比べて大きすぎる此の建物の意味を、以前童輔から聞いた気がする。

「若いとは素晴らしきことよのう」

なんて。外で稽古をしている誰よりも若いお子様が、感慨深げに頷いた。
そういえば旅に出てからというもの、稽古なんてまったくしていない。
いつもならやれ勉強をしろ、身体を鍛えろと口煩くいう桂嗣が、最近は全くそういう発言をしなくなったからだ。
本来ならば言われなくても自主的に行わなくてはいけないのだろうけれど、ヤル気のないまろに其れを望むことさえ無謀。

「今の貴方なら、あそこに居るモノ全てを簡単に倒せてしまいますものね」

不意に、後方より声を掛けられた。まろの考えを勝手に読んだのか、それとも何となく告げてきたのかは判らない。
ただ、その声を聞いただけで背が粟立つような嫌悪感がまろを支配する。
いつからこんなに苦手意識を持つようになったのだろう。
翡翠達の一件があったからなのか。もしかすれば、まろの記憶以外の部分で何か大きな確執があるのかもしれない。
「何用じゃ」
ゆっくりと振り返り、まろには似合わぬピリピリとした低音の声を吐き出す。
そして一度だけ目を大きく開き、その後で眉間に皺を寄せ、目を細めて鬱灯を睨みつけた。

「感謝の言葉でも貰おうかと思いまして」
「感謝? おぬしが今すぐに此の場を去ってくれたなら、感謝の言葉も連ねようぞ」
「中々酷い対応ですねぇ」
せっかく気分良く風呂に向おうとしていたのに、一瞬にして気がめいってしまいそうだ。
全く持って友好関係を築くつもりなどない雰囲気のまろに、鬱灯が演技掛かった口調で悲しげに呟いた。
それから薄く微笑みを浮かべ、ひょいと足を宙に浮かせてまろの後頭部から覗き込んでくるような体勢をとった。
「……探しもの、見付かったでしょう?」
「さがし、もの?」
思わず虫がたかってきた時のように手で振り払おうとしたまろに、鬱灯が楽しげに纏わりつく。
「護殊庁の最上階。貴方が探していた存在が眠っていたでしょう」
本当に人間なのかと問いたくなるような、ゆらゆらとした鬱灯の動作。まるで蛇と幽霊が混ざったかのような。
そんなところもまた、爬虫類があまり得意でないまろの不快感をあおるのか。
「ああ、確かに海堵が過去約束をした者が眠っておった。だがまろの探しておるものは漆黒のイシじゃ」
「えぇ。でも、全て集めてからアレの居場所を知るのでは遅すぎますから」
やはり爬虫類が獲物を狙う時の視線を向けてくる鬱灯。
しかし言っている言葉の意味が判らないでいるまろに、鬱灯は更に続けた。

「探す理由も知らずに全てを集めてしまっては、のちに後悔するかもしれないということですよ」
「……どういう意味なのら?」
「そのままですよ。イシが集まれば、あのコドモが目覚める。その先の未来を、貴方は想像したことはありませんか?」
「その先?」
「なぜ、壱つ前の過去の存在は、更に前の存在と対立したのか」

意味深で、何処か核心をついてくる質問。其れは、まろにとっても大きな疑問。
海堵と、稜は違う未来を見つめていた。イシを集める約束を果そうとする海堵と、その約束を破棄したいと願っていた稜。
気になってはいた。だがその疑問は、イシを集めるにつれて判るのだと告げたのは巽や遊汰、つまり護殊庁のメンバーだ。 つまり、鬱灯もその一員に入るはずなのに。
何故お主だけ違う行動を取るのか。
尋ねようとして、無意識の内の己の手元に氷の刃が創られていることに気がついた。
白雉の龍を消したときと同じ。つまり海堵が勝手にまろの身体を使ったということ。
鬱灯がどうなろうと関係ないが、己の身体を勝手に使われるのは気分がよくない。 如何にか押し留めようと腕に力を入れてみるが、氷の刃は消えず。ある一定まで育ったソレは、目の前にいる鬱灯へと一気に向った。
「おやおや」
ふわりと浮いていた鬱灯が、そのままクルリと回転して攻撃を避ける。
思わずほっと安堵の溜息をつき、その後で鬱灯が無事だったことに安心した己に嫌悪の溜息を付いた。
「過去の存在は未だ貴方に約束の意味……本当の意味を知られたくはないようですね」
全ての攻撃を避けたように見えたが、さすがにあの距離でそれは難しかったようだ。 血が通っているのかと尋ねたくなるほど白い頬に、一筋の赤が流れ落ちた。
「お主は、一体どうしたいというのじゃ」
海堵に操られた己がつけた傷。見てみない振りをして、まろは尋ねた。
「……何を、企んでおる?」
相手の心を覗き込めはしないだろうか。人の心理状態を見透かす力なんて持ち合わせては居ないが、まろはぐっと眉間に意識を集中させた。
そんなまろの様子を嘲るようにくすくすと笑みを零し。
「いいえ、私は傍観しているだけ。ただ、公平な状態で最後の答えを知りたいだけです」
話をすると言うよりは歌うような口調で鬱灯が答えてきた。

公平な状態とはなにだ?

即座に出てきた疑問。だがソレを尋ねるより前に、再度まろの手元に氷の刃が創られ始めた。
「おっと、ホンキで怒らせて仕舞いましたかね」
まろの手元に視線を向け、鬱灯が楽しげに笑う。そして。
「昨日向った、過去の存在の大切な場所。……貴方の姉の墓。過去の存在が何故約束を破棄しようとしたか、再度理由を探してみると良いですよ」
意味深なコトバだけを残し、また氷の刃が鬱灯を襲う寸前にその存在をかき消した。




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